がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

8月15日を日本で迎える

西オーストラリアの学校で働き始めてから、8月の盛夏に1時帰国をしたことがない。
1年で4学期あり、ちょうど2学期終了は7月の初めから中旬、そして7月末ごろにはすでに第三学期だからだ。今回東京の猛暑を経験できたのは、長期休暇(またはサバティカル)取得可能になり、もう3ヶ月加えて半年休みを申請、なんと許可が降りたからだった。

そして、いつもは「冬」のパースで生徒たちに8月6日の広島原爆記念日と8月15日の終戦記念日を教えているわたしは、猛暑に汗まみれになりながら東京に滞在している。

終戦記念日ともなると、テレビは各局で終戦特集を組む。
そんな特集番組のひとつを観るともなしに観ていたら、母が「チャンネル変えてもいい?」と訊く。母はいまだに小型爆撃機の轟音を聞くのが嫌いだ。あれを聞くと、少女のころに空襲で逃げ惑ったことを思い出すからだという。

終戦前の数年間、今の中学生ぐらいの少女だった母は、勤労奉仕で近くの造兵廠で働いていた。「空襲警報!」の声に防空頭巾をかぶり、書類を持って防空壕に駈け出した母の横で機銃掃射が響いた。「誰も死ななかったから、あれはただの威嚇だったのかもねえ」と、今は83歳になった母が言う。その造兵廠も、その後本格的な空襲を受けて跡形もなくなった。
造兵廠が燃えた夜、母は自宅の防空壕に入る前に沢山の照明弾がふわりふわりと落ちてくるのを見た。照明弾がまっすぐに母の方角に向かうなら、その直後にやってくるのは爆撃だ。「どうぞどうぞ、神様、こちらにあれが来ませんように」と祈った。そして、風の向きのせいでそれが母の住む一帯を逸れてほっとしたら、次の瞬間近くで猛爆撃が始まった。
翌朝、造兵廠は跡形もなく燃え、中仙道を挟んだ反対側は焼け野原になっていた。

亡き父はそのころは学徒出陣で徴兵された後、シベリアで捕虜収容所生活を送っていたらしい。背中には大きな凍傷の痕があり、なぜか酸っぱくて硬い黒パンを好んで食べたが、収容所生活については一切語らなかった。訊かれるたびに、「大変だったよ」と答えるだけだった。時々、そのころの仲間と懐かしい集まりがあって出かけて行ったことだけは覚えている。

その父のすぐ下の弟は士官学校から命を受け、その数カ月後に潜水艦とともに沈んだ。18歳だった。祖母の嘆きは大変なもので、先祖代々の巣鴨の墓所の脇に小さな碑を建てた。小さいころ、わたしはその父方の祖母と父と一緒によく墓参りに行ったものだ。父が墓を清めている間中、その碑を見ては愛おしそうにそっとさすっていた祖母を思い出す。祖母は戦後何十年たっても、墓参りのたびに悲しみを反芻していたのかもしれない。

わたしはそういう戦前世代を見たり話を聞いたりして育っ た。今はすでにアパートになってしまった実家の隣のボロ家は、母が生まれ育ち空襲に遭わずに残った木造平屋だった。その小さな家の半畳の畳をあげると、その下に防空壕跡が暗い穴を開けていたことも覚えている。それは、その小さい穴に身を寄せて恐怖と戦っていた母とその家族を想像させ、戦争を全く知らない幼いわたしはぞっとして逃げ出したのだった。

10年以上経験しなかった、日本での8月15日。
気がつくと、本当に戦争を体験した世代がひとりまたひとりと消えていく。終戦時15歳だった母はすでに83歳を迎えた。父は、もういない。そうした状況の中で日本の憲法第九条改正への動きを見るにつけ、80代90代という高齢者たちの声がかき消されていきそうで心が騒ぐ。

テレビのチャンネルを昼間のドラマ再放送に変えた母は、「戦争は本当に嫌だよ…」とぽつりと呟いた。

 

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