このところ暑くて暑くて、夕方近くなると、西向きのパティオから強い西日が差し込んで、ブラインドを固く閉めなければならない。外はまだ明るいというのに、電気とエアコンをつけているのも妙なものだ。
今年は、WA州政府の試験的なDaylight Savingが三年目、つまり夏になると時計を1時間進めるようになってから三年目だ。おかげで、朝わたしの起きる時間の六時半なんてまだマックラで電気をつけなければならないし、夜はカンカン照りが八時過ぎまで続く。「電力を節約しましょう」なんて言ったって、そりゃあ無理というものでしょう。朝から電気をつけなきゃならないし、なんとか涼しくなるのは、暗くなった九時ごろからなのだから。
それに、学校から帰ってからの数時間、気温40度に耐えられるほどわたしは我慢強くない。
後1ヶ月で終わるこのDaylight Saving、ヨーロッパのそれとは全く意味が違う。わたしの住んでいたフランス、スイスではこの夏時間がなければ、日照時間が長すぎるのだ。つまり、夏にはたとえ1時間進めても、朝はすでに5時ごろから日が昇ってしまうし、夜は9時過ぎまで明るい。これがないと、ヘタすりゃ11時ごろまで夜にならない。そして、反対に冬は朝9時ごろまで暗いし、5時にはまた日が落ちてしまう。こういう国々では、夏には時間を進めてもらったほうがありがたい。暗い冬が終わって、やっと「暖かい」気候になったのだから。スイスなんか、夏だって20度台だ。
これを南半球で、しかも夏も冬も日照時間にヨーロッパほどの差がない国でするのがおかしいと思うのだけれど、学校や会社の後で「まだ明るい」ということがこの国の人たちにはとても楽しいことらしい。西オーストラリアでは「まだ明るい」は「まだ暑い」を意味するのも、朝7時までマックラなのも、大半の人たちには気にならない(らしい)。
賛成派のもうひとつの理由は、東オーストラリアとの時差が開き過ぎないことだ。実は、同じ国でありながら、例えばシドニーとパースには2時間の時差がある。夏はこれが3時間なのだ。すでにDaylight Savingを実行している東海岸とのビジネスに、時差が2時間のままであり続けるというのは、やはり有利だからだ。
西オーストラリアでは、東海岸より1週間早い三月末にまた1時間時計を遅らせることになるが、Daylight Savingの試験期間三年が終わったことから投票になり、最終的に持続するかどうかが決定される。わたしはもちろん永住権を持っているだけで、投票権はない。だから、ブツブツ言っても、結局オカミの沙汰に従わざるをえないわけだ。ふん。
あ、これは余談だが、西オーストラリアの投票率はほとんど100%に近い。理由は簡単、行かなきゃ罰金が課せられるので。
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がび様、お久です。
ベルギーとルクセンブルクも投票は義務で行かないと罰金です。イタリアも昔そうだったけれど、1993年に廃止しています。ギリシアは投票は義務ですが、罰金はありません。罰金がないけど、投票に行っていないとパスポートや免許証の発行が非常に困難になるそうです。こりゃ罰金より恐いかも。色んな処罰の仕方がありますね。未確認情報ですが、ボリビアじゃ投票に行ったという証明カードを見せないとサラリーが貰えないんですってよ。これも恐い。
フランスでも投票を義務にすべきだと言う議論は時々ありますね。投票を義務にするなら、誰にも入れたくない人たちの為に白紙投票権を確立しなければなりません。「棄権=諦めと怠慢」と、「白紙投票=反抗・抗議と不信任」は全く別の意思表示だから一緒にされては困ると言う意見もありますから、そう簡単には行かないでしょう。お国に投票を強要されるなんて許さんぞって人の数も多そうです。
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pomme様、お久しぶりですー。
何だか、どこの国もあの手この手を使ってなんとか投票してもらいたがっているようですね。しかし、ボリビアでは、それじゃあもう「先を争って」投票しに行きますなあ(感心&恐怖)。
オーストラリアでは、白紙投票権ありますよ。これは、一種のポリティカル・ステートメントなので、不信任の表明として認められています。ただ、「投票は国民としての義務であって、投票用紙に書こうが書くまいがゼッタイ行け」ということらしいです。ま、スタンスとしては徹底してますね。
かくいうわたしは、日本で選挙に行ったのはただの一回です。ちょうど里帰りしているときに(当時、わたしはまだ住民票があったので)ハガキが来ていて、ウキウキと出かけていきました。1998年のことです。
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わが日本では、国民が政治に失望して、投票所へ向かう気力もなくなるようにあの手この手で醜態を披露しています(笑)。
投票率が下がれば、K党なんかの組織票が効いてきて、ギリギリで滑り込み当選! ってのを狙っているというのですから呆れたものです。