がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

西オーストラリアで日本語教師になるには:「職を得る」

日本でも同じような状況だと思うが、「教員免許を得る」と「教員としての職を得る」ということは根本的に違う。これから書くことは、あくまでも一番需要のある西オーストラリアの小学校、中学/高校(オーストラリアは中/高一環教育が主体)についてであって、その他の地域とその他の教育機関についてではないことを、あらかじめ記しておく。

西オーストラリアでは教員採用試験はないので、職探しはそのひとの「どこでも教えられます。たとえ火の中、水の中」という熱意とコネと運と能力にかかっている。

「たとえ火の中、水の中」は、前回のエントリで説明した「西オーストラリア教育省のスポンサーシップ」に応募して二年のスポンサーつき労働ビザを取得し、はるか彼方の遠隔地学校に行くことだ。この労働ビザで働いていた日本人教師のひとりは正直に「二年我慢して永住許可証を取ったら、教師なんかやめるわ。わたしには向いていないし」と公言していたが、まあ、そういうひともいるのだろう。
遠隔地というのは、日本人には想像もできないような「何にもない村」だ。郵便局がひとつと何でも売っている小さな店がひとつとレストラン兼用パブがひとつ、これだけあればいいほう。村から一歩出たら、地平線と空の二色が何千キロも延々と続く、なんて土地もある。ほとんど全ての住民が知り合いだし、日本人は、いやアジア人はあなたひとりだ。日本食なんて買えるわけもない。だから、そういう田舎で生活している教師たちは、学期休みになるとパースに戻って、買い出しをしたり中華レストランに行ったりして、また一学期分の英気を養う。

知り合いの歴史教師も田舎に行って三年我慢して、晴れて正教員の資格を得てパースに戻った。この「正教員の資格」については、後ほど述べる。彼女が送られたのは、鉱山村だ。つまり鉱山関係の労働者とその家族が住む村である。人口は千人以下。そこで彼女が住んでいたのは、独身者寮と呼ばれる「男性鉱山労働者で家族のいない者」用のずらっとならんだ長屋だ。キッチンとシャワーのついた簡易アパートのようなもの。どうして、そんな男性独身者のアラクレどものドマンナカに住むんだ、と震え上がるのは間違っている。そのほうがひとりで一軒家を借りるより「はるかに安全」だからなのだ。

さて、前回の田舎で働く熱心な日本人教師さえも、皆一度永住許可証をとったらさっさと都会で仕事を見つけて引っ越すんだ、と希望を持ってがんばっている。そして、もちろんパースなんぞという「世界で最も他の都市から離れている」というギネスブックの項目に載っている州都には、そんなに簡単に日本語教師の口などない。だからと言って、ほかの東海岸地域で見つかるかというとそうでもないようで、かなり西オーストラリアに流れてきているのは、前回も書いた。

西オーストラリアには「正教員システム」という壁があって、1度この正教員になったら、新聞に載るようなものすごいアヤマチを犯さないかぎり、一生教師としてのフルタイム採用が保障されている。これはオイシイ。この「鼻の先のニンジン」を使って、西オーストラリア教育省は「普通だったら誰も行きたくないようなド田舎」に教師を数年派遣する。先にも書いたが、だからといってパースに職があるとは限らないので、仕方なく田舎に残るひとたちもいる。フルタイム採用と収入だけは取りあえず一生保障されているわけだから、まあ安泰だと言えるが。

「正教員」にはもうひとつオイシイ特権がある。「何らかの原因と学校の廃校・方針変更のせいで職を失った場合、またはフルタイムだった授業数が激減した場合」に、最優先の学校変更権が与えられるのだ。つまりほかの学校で「日本語教師の職」があった場合、そのカワイソウな日本語教師のフルタイム職を確保するため、そこで教えていた「正教員ではない契約教師」は契約終了時に見事にお払い箱になる。
こんなことに詳しいのは、その「正教員ではない契約教師」が数年前のわたしだったからだ。詳しくは2005年末のエントリー「学校を去る日」をどうぞ。今思い出しても、腹立たしい。

とにかく、どうしても田舎に行けないという場合を除いては「一生教師として食べて行く気合いがあるなら」この「田舎で教えて正教員になろう」キャンペーンに乗るべきだと思う。

そして、そうでない場合。つまり、わたしのように「絶対やだ」「パースでさえ鄙びた中都市なのに」「バンコクと東京にすぐに行けない」などの理由で、パースに残る決心をした場合。
これは、公立校に関しては契約教師の道しかない。つまりフルタイムであろうとパートタイムであろうと、1年未満の契約だ。オーストラリアの新学期は二月初めで、その前には長い夏休み(こちらの夏は十二月から二月まで)が六週間ほどある。だから、次の年の契約持続が確定していないかぎり(いや、ほとんど確定していてもわたしの場合のようにポシャることもあるが)、たいてい七月にはオンラインで願書を提出し、そのままじっと来年の職が出てくるまで待つ。連絡が来るのは腹立たしいことに十二月が一番多い。つまりそれまでじっと来年の収入の不安を抱えながら教えるわけだ。それでもまったく連絡がない場合もある。毎週、教育省の採用課に電話をして、そのたびに「あったらこちらから連絡します」と肘鉄をくらう。何が何でも仕事が欲しかったら、「週四時間だけど、小学校の仕事があるよ」にも飛びつく。そしてそのあと急に出てきた「フルタイムの、しかも年末までの1年契約」なんてものに変更がきかなくて、泣く泣く週四時間、プラス他の学校でも何時間か教えて糊口を凌ぐ。年の途中でまたパート教師の口が飛び込んでくることもあるだろう。
運がよければ、もちろん毎年なにかしらのフルタイムの職がある可能性ももちろんある。そういうひとも沢山知っている。だが、最悪の場合もあらかじめ認識していたほうがいい。わたしは1時期仕事がほんとうになくて、三校かけもちしていたことがある。車で移動だったが、ひとつの学校からもうひとつの学校まで十五分で行かないと間に合わない日もあり、半年続けてほとんど身体を壊しそうになった。
しかし、まあいくらかの蓄えがあれば、気楽に構えてこういうパート仕事をしてみるのもいいかもしれない。

公立学校はこんなふうに教育省で採用の実権を握られているが、私立校はまた別だ。
こちらは新聞の求人欄に求人広告が出る。普通は百人近い応募があ るから、これを書類選考で十人から二十人に絞り、あとはみっちりと面接をする。この時点で不利なのは、1度も教えたことのない新人教師。ディプロマコース の教授以外保証してくれるひとたちがいないからだ。その私立校に知り合いがいる場合は、結構簡単に「面接だけは」してもらえる。わたしは現在の私立女子校 の職を得るまでに、公立校で働きながら、あるいは失業しながら、実に四十以上の履歴書と願書を提出していた。そして、その中で面接までこぎつけたのは、知 り合いのフランス語教師がいたこの私立女子校だけである。

その後、1度だけ自宅近くの私立校の求人に応募したことがある。すでに現在の女子校で働 いていたが、自宅から歩いても十分という距離は魅力的だった。面接して帰ったら、すでに採用の通知の電話があった。現在働いている私立女子校での実績と経 験のせいだ。結局、校長と語学科主任の両方に説き伏せられて行かなかったけれど。

そんなわけで、わたしの経験は、まあ、ひとりの教師のもので他のひとたちの経験とは全く違うものかもしれない。だが、教師の職を得るのは、日本と同じように、それほど甘くないということだけは知っておいてもらいたい。

次のエントリーは「教室の現状」。

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