母の愛犬ゆうちゃんは、13年前にわたしがプレゼントしたシーズーだ。「ゆうちゃん」という名は、母が故石原裕次郎の大ファンだったからという単純な理由 によってつけられた。わたしの家系は無類の動物好きで占められているが、いまだかつて命名上手が生まれたことがないらしい。
とにかく今や老犬と言ってもよいゆうちゃんは、目に薄く白い膜がかかりほとんど見えない。腰も弱い。しかし外に行くのは大好きなので、わたしは里帰りするたびに彼の散歩係となる。そして、毎日外に行けば当然隣近所のオバサンたちとも顔を合わせる。
「あ らー、ゆうちゃん今日はオカアサンとじゃなくて、オネーチャンとお散歩なのねー。よかったねー。」オバサンはわたしの「こんにちは」と同時にまずゆうちゃ んに話しかける。そして「わたしのオトウト」が満足げにしっぽを振るのを確かめたあと、やっとわたしの顔を見て挨拶を返す。「おかえんなさい。ひさしぶり ねえ。アメリカはどうなの? なんか戦争が始まっちゃって大変なんでしょ? バクダンとか落とされないでしょうね? このごろはブッソウなんだか ら。。。」
戦争はイラク国内だったこと、バクダンはアメリカには落とされなかったこと、そしてわたしがアメリカに住んでいないことを完全に無視し て、ただあいまいにそして愛想良くアイヅチだけはうつ。20年以上前にアメリカをスイスに訂正してからというもの、毎回の里帰りで根気よく10年ほどがん ばってみたが、それからはもう諦めた。ましてや、それから滞在した国々を列挙したら、オバサンはわたしのことを「昔っからちょっとリクツッポイんだから」 と断罪するだろう。オバサンにとって、「外国」とは「アメリカ」の同義語以外のなにものでもないのだ。
しかし「アメリカから里帰りしているがび ちゃん」は、20年前から変わらないオバサンの言葉に反して、その姿がとても小さくちぢんでしまったことに気づく。そう言えば、ゆうちゃんだって初めて見 たときにはまだ手のひらにすっぽりはいってしまうくらい小さな子犬だった。いやオバサンだって、わたしを見て「こないだ小学生だと思ったらもうあんなに年 取っちゃってねえ」と思っているかもしれない。
外国から里帰りすると、いつも決まって自分がタイムスリップしたような、自分の周りが実在していないような、そんな気持ちになる。