「キューピー3分クッキング」という長寿番組は、ネットでも見られる。ブロードバンドさえあれば、その10分間の料理手順を最初から最後まで楽しむことができるのだが、わたしのようにバンコクとパースで依然としてダイヤルアップ接続をしていると、そうもいかない。
だから、日本のテレビでオープニング音楽が流れてきたときには、懐かしくてつい見入ってしまった。
番組では、料理の先生が作るそばでアシスタント的役割を担ったり、質問をしたりする若いアナウンサーが昔からおなじみだ。ひとは変わっても、そのエプロン姿と役割は変わらない。
と思ったら、近頃では女性アナウンサーに代わって、エプロン姿も凛々しい若い男性が先生の横にはりついている。時代は変わったものだ。
男性が料理すること自体が、女々しいことでも何でもなくむしろ立派な趣味のひとつになっている現在、アシスタントが男性になるのも至極当然なのかもしれない。
そして「レンズ豆とほうれん草のカレー」がだんだん出来上がっていく手順を見ていたら、もうひとつ妙なことに気づいた。
日本の料理番組の先生たちは、とても正確な分量の材料を使っているのだ。ひとつひとつがすでに小さなボウルに用意され、先生たちはそれを鍋やらフライパンやらに入れるだけである。
オー ストラリアでよく見る料理番組では、塩の量を量っていれている先生は見たことがない。口では「塩は大さじ2杯入れてくださーい」などと言いながら、塩のは いった壷からがばっとひとつかみ取ってぱっぱっ。そしてもうひとつかみ、ぱっぱっ。手が覚えているというふうなのだ。オリーブオイルなんぞも、「大さじ3 杯でーす」とビンを高くかかげてたらーりとたらし入れるだけである。
目安としての分量がすでに正確に量って用意されていると、それを見ているひとも何となくきちんと量らなくちゃと思ってしまうし、ずらっと並んだ調味料ボウルの群れはどうも臨場感がない。
先生にとっては、限られた時間内で終わらせるためにそのほうが楽なのかもしれないが、並んだ調味料の中から「えーと、塩、塩はどこだった?」と塩壷を探したり、ワイン酢のビンを逆さにしたりするほうが、見ているほうとしてははるかに面白くて人間くさい。