昨日十二月二十六日は、一年前にスマトラ沖で大地震のあった日だ。
わたしは当時ちょうどバンコクに滞在していたこともあって、年明けには空港でプーケットから到着する被災者のボランティア・ケアをしていた。
そのときの様子とタイそしてヨーロッパメディアの記事に関するエントリは、全て「デラシネ@Bangkok」にアーカイブしてある。
二十二万人以上の死者を出した津波は、一年を経てすでに過去のものになりつつある。しかし、実際にそれを経験したひとたち、死者と被災者に関わりのあるひとたち、そして今も復興に携わるひとたちにとっては、まだ「現在進行形」であることに変わりない。
昨日からずっと日本のメディアを追っていたのだが、一周年式典の様子と薄れかける記憶を呼び覚ますための数行以外あまり関心がないようだ。
たいていの日本人は、クリスマスから年末にかけて長期休暇をとる習慣がない。そのため、同胞の死者は欧米人死者に比べてはるかに少なかった。
タイ津波被害について
昨日二十六日付バンコク・ポスト紙には、内務省と国際連合の協力による数字が参照されていた。
死者:5395人
行方不明:2817人
外国籍の死者、行方不明者:2448人(37ヶ国)
(このカッコ内はスイス大使館の情報だが、このうちドイツ人犠牲者は500人を超える。スイス人犠牲者は100人で、まだ10人が行方不明だ。)
被災者数:54672人 (南タイ6県では12068世帯)
観光業損害額:380億バーツ
復興にかけられた金額:680億バーツ
漁船の修理、または新しく漁船を与えられた漁師数:24486人
破壊された家と土地:6799戸
避難施設に住む罹災者数:現在2990人(2005年7月当時7000人)
津波後新設された家:1907戸
津波犠牲者身元確認について
わたしが十一月に入手したあるタイ上院議員組織の資料(わたしに公に渡されたわけではないので、出所は書かない)によると、身元確認できない遺体がまだ700体以上プーケットの身元確認センターに安置されている。大半が不法滞在のビルマ人であるため、身元を確認するための資料も皆無、また家族が名乗り出ることもない。現在までセンターに安置された遺体のうち、60%の遺体が歯型、30%が指紋、9%がDNA、そして1%がその他の身体的特徴により身元が確認されている。
民間の復興支援について
タイ政府は今年一月、外国政府・団体からの全ての公的援助金を辞退した。「他のもっと貧しい国を助けてやってください」とタクシン首相は胸をはったが、一年ほどたった現在、当初の復興予定の50%しか達成していない。(先の上院議員組織の資料)
タクシン首相は「技術援助」を辞退したわけではないので、外国団体の活動は今も続いている。
ドイツ商工会議所は350以上の企業(含スイス企業)を抱え、そのほとんどがなんらかの形で復興に手を貸している。技術者を本国から呼び寄せ、罹災者避難所、学校、病院などの建設に、タイ人通訳の手を借りてそのほとんどのプロセスを自ら管理・把握していると言う。あいまいでミステリアスな過程を経ることの多いタイの事業で、こうした一貫した援助はかなりの成果を上げた。
ただ、いまだに「緊急援助」と言う形をとる組織も多く、マスタープランの欠如をうかがわせる。
たとえば大手企業が技術者を派遣して建設復興に手を貸す。もちろん、現地のひとびとを雇い、日給手当てを与えて罹災者の日常生活の回復を促す。ところが、どこからかNGO団体のスタッフが姿を現し、「罹災者支援」という名のもとに村の広場で現金をばらまくのだ。現金を持てば、タイ人は働かない。建設現場に現れない。これなども、広い視野を持たない一時的な援助に他ならない。善意が、行き場を失ってもがいている。
外国からの技術援助にも、限界がある。「ファラン・プライス」というやつだ。資材の調達に、それが顕著に現れた。ドイツ人が通訳を連れて木材、鋼材などを購入しようとすると値段が十倍になるという、タイ独特のシステムである。パッポンなどの歓楽街ならまだしも、復興援助の民間団体にまでこの「外国人料金」を適用して儲けようとするひとびとがいるのは情けない。
もうひとつの問題は、外国からの直接技術支援によって「村のヒエラルキー」が崩れ始めたことだ。
貧しい漁村では、そのほとんどの漁師たちが自分の船を持たない。いや、持てない。持っているのは、その村の村長を務める富裕家族かまたは村の外からの組織からだ。つまり、漁師たちはその船の賃貸料を払い、ガソリン代を自分でもち、そして漁の成果の20%ほどを支払う。その彼らに、船を作って与える外国の「技術援助」は、網元からもちろん嫌われた。資材を隠す。値段を吊り上げる。スイス外務省直轄の「人道支援」セクションは現在三つの島で活動を続けているが、このためわざわざバンコクで資材調達をしなければならなかった。
しかし、こうして「持たざる者」が「持てる者」に変わったとたん、今度は所有している船を貸し出して、自らは漁を放棄する漁師が増える。今まで自分たちが舐めていた辛酸を、今度はもっと貧しいひとびとに譲ったと言ってもよい。この場合、不法滞在者であるビルマ人たちのことだ。
新しい秩序が、新しいひずみを産む。
最後に
ここ2−3日は新聞に感動的な話や写真が載り、一周年の記念式典の様子は全国ネットで放送された。泣くひと、自分の思いに沈むひと、助けられたひと、最愛の家族を失ったひと。衛星放送では、欧州各国からの特別番組が組まれている。様々な角度から、ひとは失ったものを思い、未来に希望を託す。
そして、今なお、復興と援助に携わるひとたちがいる。忘れてはならない、と思う。
だから、これを読み返すことがわたしの「一周年」になるかもしれない。当時ある場所に発表するよう求められ、最終的にはボツになってしまった原稿だ。
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元旦のドンムアン空港到着ロビーには、ほとんどの欧米諸国大使館デスクが並び、プーケットから到着客があるたびに旗をかざし、「xx人はこちらで登録してください」と声をかけていた。わたしが振っていたのはスイス旗だ。
何日か前から在バンコク・スイス大使館には「何かできることがあったら」と伝えておいたのだが、連絡があったのは三十一日の午後遅く、元旦と二日のヘルプデスク・ボランティアの要請だった。プーケットから到着するスイス人のための世話、登録、独・仏語通訳だ。
すでに津波から数日たっていたが、それでもプーケット便が到着するたびにロビーは混雑と喧騒に包まれ、明らかに被災地から来たと思われるひとびとが各国ボランティアたちに近づいていく。血のにじんだ包帯、皺くちゃのTシャツ、その下には着たきりの水着、細かい傷あと、タイ航空支給のビニールバッグ。津波ではぐれた夫を病院で発見したドイツ人、甥夫婦を探しにきたスイス人、自力で死んだ恋人を掘り出したドイツ人、新婚旅行中に被災したオーストラリア人。自分自身の話も現場で聞いた話も全て吐き出さずにはいれらないと見えて、名前を登録するだけで去るひとはほとんどいない。そして、まだショックが尾を引いているためか、感情のない声でただひたすら話し続けるひともいれば、話しているうちに目に涙が浮かび声が震え、わたしが肩に置いた手にすがりつくひともいる。そして、湿り気を帯びて砂にまみれたパスポートが大量に届けられる。その持ち主たちと思われる遺体の写真が、確認と調査のためにカメラから直接ダウンロードされる。
ヘルプデスクで見たこと、聞いたこと、感じたことは、わたしの心と頭に深く刻み付けられ、行き場を失ってもがいていた。しかし、わたしは次の日もヘルプデスクに行った。この後ろからそっと手を添えてわたしを促す力は、実はわたし自身の声なのかもしれない、と思いながら。
到着便の合間に、読みかけの本を開いたままぼうっと座っていたわたしに、隣のドイツ大使館スタッフが声をかけた。「自分も被災したのにすぐには本国に戻らなかった観光客が、プーケットにまだ何十人も残っているらしいよ」 そのほとんどが、死者をそのままにしておくに忍びなく、ボランティアで処理の手伝いをしているひとたちだ。遺体を運び、洗い、写真を撮り、鑑識官たちの手伝いをし、そしてまた運ぶ。明と暗を分けた津波の瞬間を共有した彼ら「生者」は、「死者」のもとに残ることを選んだのだ。後日、ドイツ語衛星放送ニュースに映った若いドイツ人は、腐臭のために何枚も重ねたマスクをとって静かに言った。「死者をこのままにして帰れない。どうしても為されなければならないことのために、僕はここにいるんだ」
悲惨な被災地でのボランティア、バンコクでのボランティアだけではない。ささやかな寄附を送り、救援物資を持ちこむひとびともそうだ。その場にいないから、知り合いが被災していないから、という直接の理由を超えて、国境や人種や宗教を超えて、そこには個人としての「何かをしなければいけない」という意思がある。傍観者でいることより、できる範囲で手を差しのべることを選択した意思がある。
そして、その先にあるものがたとえ悲しみであれ喜びであれ、わたしたちはささやかな一歩を踏み出すことによって、自分以外の誰かにほんの少し近づいていることに気づく。
(2005年1月14日、バンコクにて)