デラシネ@Perth: 2004年3月アーカイブ
オーストラリアにもニュース「ショー」があり、日本では夜比較的遅い時間に始まる番組が、7時ごろから様々なトピックスを記者の視点で流す。
週末にこうした番組を寝そべって見ていたら、「威嚇するドライバー」というタイトルが目に入った。こりゃずいぶんブッソウだが、車を運転したことのあるひとなら、バッシング(後ろにぴったりとついて「どけどけ」と意思表示をすること)や、後ろから追い抜いて鼻先をかすめて前に割り込まれたことが必ずあるだろう。
もちろんそうした行為を肯定するわけではないが、この番組が肩入れをしていたのはなんと、制限時速60kmの道を40kmで走りたい80歳以上の老人やら、運転がこのわたしよりヘタクソな主婦ドライバーなのだった。
「わたしゃ50年間無事故で来たんですよ。そんな安全運転のわたしを威嚇するドライバーにひとこと言ってやりたくってねぇ。わたしはいつもきちんと交通規則を守っているんですからね。」
と言いながら、レポーターを乗せて走るご老人の車は彼と同じぐらいオンボロだし、周りを他の車がばんばん追い抜いていっているところを見ると、ものすごいカメ速度のようだ。クラッチをふんでギアを変えるたびに、それ以上に速度が落ちるのがまた哀しい。ほとんど道の真ん中で止まっちゃっている。
「車がないと生活できないような国ですからね、わたしは速く走るのが怖いんですが、それでもなんとか乗っているんです。誰もがスピードを上げられるとは限らないんですから、威嚇することはないんじゃないですか。危ないですよ。」
たぶん四輪駆動のジープは「四輪駆動」にすらしたことがないお買い物用車なのだろうが、35歳の主婦はそんなデカイ車で高速道路の三車線目、「追い越し車線」を80kmで走る。制限速度は100kmだ。当然彼女の後ろには長い車の列ができ、思い余った車がなんとか二車線目にできた隙間から彼女の鼻先をかすめて追い抜いていった。
「見て見て見てっ。ものすごく危ないでしょっ。」
真剣にうなずくレポーターすら、大いなるカンチガイに気づいていないようだ。口をあんぐり開いて見入るほかはない。
個人主義はどこかタガがはずれると利己主義と紙一重だが、公共の場である道路上でひとりだけ度を越した低速で走るのを、非とは思わないひとがいる。
どちらのドライバーも「安全運転」という言葉を何度も口にしたが、彼らの安全は周りのドライバーたちの「寛大な黙認」に守られているのだ。それを当然と思う視野の狭さが、道路の真ん中で異次元を作っちゃったり、高速道路では低速車は第一車線を使うという「常識」の目をも曇らせる。そして「安全な自分」が、実は事故への発端となるかもしれないという事実に考えが至らない。
どうしてこんなに車の少ないパースで渋滞が起こるのか、理由のひとつがわかったような気がした。
西オーストラリアには「車検」という制度がない。
したがって、どんなにデコボコであろうが、どんなに傾いていようが、どんなに色がはげていようが、まだ動くのなら乗っていてもかまわないらしい。とてもじゃないが日本ではお目にかかれないようなボロ車の走るパースでは、どんなことが起こっても驚いてはいけない。
たとえばアンテナ。
外に向かって延びている車のアンテナは、比較的壊れやすいもののひとつである。車検のある国ではこれもチェックの対象になるのであろうが、ここでは音さえ出りゃあ何をくっつけても文句は言われない。
写真ではわかりにくいだろうが、この車のアンテナ代わりに立っているものはなんとあの、クリーニング屋から戻ってきたジャケットがかかっている、針金製のハンガーである。安物ハンガーをびよ~んと伸ばして、本来ならアンテナが立っている場所にねじこんであるのだ。
この車は新しいから、たぶん常用されているハンガーではなく、アンテナが壊れてしまったのでとりあえずラジオを聴くために立ててあるのだろう。が、オンボロ車ではすでに車と一体化してしまっている針金ハンガーもよく見られるのだ。その場合は、常用されていることを示すために、針金は様々な造形芸術品となる。やわらかいから比較的形を作るのも簡単なのだ。ハート型あり、煙型あり、家の屋根型あり、三角矢印型あり、と実にバラエティにとんでいる。
今回は信号で止まったので撮影することができたが、普段は大笑いのみで通り過ぎることが多い。いつか「針金アンテナ」芸術を撮ってみたいと思うが、さていつになることやら。
わたしのアパートは、修復した大きな19世紀末のモルト工場だ。
工場の昔のままの棟をそのままアパートに改装しているから、天井が高いし建物自体も大きい。しかし、何度も書いたように隣人がうるさいのと、入り口にたどりつくまでの長い階段に、近頃閉口してきている。
正確に言えば3階と4階にあるので、たくさん買い物をしたときなど外階段を上がりきるとぜえはあと息が切れるのだ。エレベーターなどもちろん、ない。
その長い階段をものともせず、夏の初めから蟻がぞろぞろとキッチンにはいりこんできている。米粒ほどのハムが落ちたところがマックロになっていて、虫にはからきし弱いわたしをひえええと叫ばせることが多くなった。
それどころか、ゆきちゃんのごはんボウルの中にまで侵入してくるのだ。彼女は食べ方がバッチイので、ボロボロとドライフードをこぼし、齧っては飛ばし、したがって蟻は大喜びをしているらしい。
仕方がないので、大きめの皿の上に水をはり、その中にごはんボウルを置くようにしたが、「堀」があるにもかかわらず蟻がボウルの中でゴソゴソと動いている。
最近の蟻が泳げるとは知らなかった。
と思ったら先週あたりから、ゆきちゃんの猫ミルクボウルの中で、ミルクの表面のふちにまで蟻がずらっと並んでいる。
最近の蟻がミルクを飲むとは知らなかった。
そばで「運の悪い同僚」がミルクの中で溺死しているというのに、たくましいヤツラである。
テレビを見ていたら、94歳で亡くなった隣人から十億円の遺産を贈られた農家の話をしていた。誰も彼がそんなものすごい金持ちだとは知らなかったそうで、身寄りのない彼の面倒を見ていた隣人もたいそうビックリしたことだろう。
しかし、誰もが一度は夢見る一攫千金が本当に起こることもあるのだ。
その反対の話もパースで実際にあった。
ある弁護士が、身寄りのない老女の住む海辺の素晴らしい家に眼をつけたのだ。何とかしてその家を安く手にいれたいと考えた彼は、老女に「これこれこのくらいの値段でその家を売ってくれれば、あなたが亡くなるまでタダで住んでいてもかまわないのですが」と話を持ちかけた。安いと言っても海辺の家である。結構な値段だろうし、老女も家にタダで住めてかなりの現金が手にはいるのなら、と家を譲り渡した。
弁護士のほうは、もちろん老女は長くてもあと10年ほどの命だろうとタカをくくったのだろう。ところがその目論見に反して、彼女はなんとエリザベス女王から100歳の誕生日に手紙までもらい、105歳で天寿をまっとうした。
かわいそうなのはその弁護士である。彼は待っても待っても死んでくれない老女にイライラしたであろうが、ついにその家に住むことなく、彼女より10年ばかり早く他界したそうだ。
運なんて、まったくどこに転がっているかわからないものである。
やることは沢山あるが、あえてやらずに日曜日の夕方まで残しておく。日曜日の西日が射してくるころになると、どうせじりじりとわたしのオシリにも火がつくのだ。
そんなわけで、今回の土曜日は買い物を済ませたあと何もしない。
嫌がるゆきちゃんにブラシをかけ、あとはゴロゴロとわたしも一緒に寝そべって本を読んでいただけである。
金曜日には4時半まで学校に残って月曜日の準備をしていたのだが、「ああ、休みがほしいっ」と同じく残っていた同僚教師が叫んだ。
教師は学生とともに休暇がたくさんあって羨ましいわあ、などと言うひとたちは、わたしたちがほとんどの週末を費やして授業の準備をすることを、忘れているようだ。数えてみたら、わたしは週50時間以上学校の授業とその準備に時間を費やしている。
休みと言えば、教師でなくとも1年にいっぺんは長期休暇をとるのが、西洋人の考え方である。
わたしも日本から出るまでは、休暇と言うのは、箱根の温泉にでも一泊して、観光もして、カラオケも歌って、土産物をサンザ買い込んで、日曜日の晩に疲れて帰ってくるものだと思っていた。海外旅行に来る日本人も皆、秒刻みのスケジュールをこなしているではないか。
しかし、違うのだ。
最低2週間同じ場所でゆっくりしなければ、彼らは「休暇」とは呼ばない。
普通、日常の疲れと仕事のストレス、または「やるべきこと」から完全に思いが離れるのは、休暇の1週間が過ぎてからである。1週間過ぎれば、段々と気持ちや身体も休暇モードに切り替わる。周りの景色が楽しめるようになる。本がゆっくりと読める。夜更かしをすることが、快感になる。酒や食事がゆっくり味わえるようになる。
そして仕事に戻る1-2日前から段々と来週からの仕事に思いを馳せるようになり、「ああ、休暇ってなんて短いんでしょう」とぶつぶつ言いながらも、リフレッシュした心と身体で日常に戻ることができるのだ。
わたしのバンコクへの「里帰り」は、だから「休暇」ではない。
自分のウチとオフィスに帰るのは、ひとつの「日常」からもうひとつの「日常」に横の移動をすることであり、リフレッシュするという言葉とはほど遠い。
来月のバンコク行きチケット予約確認のメイルが、旅行代理店から来ていた。
その最後の言葉が「よい休暇をお楽しみください」だったので、小さなため息が出る。
昨日の晩、ようやく仕上げた「雑用」をバンコクにメイルで送って一安心。
ところが今朝早く不動産屋から電話があり、午後に2人ほどこのアパートに関心のあるひとが中を見たいらしい。このアパートの持ち主(実はわたしの友達だが)が売買を任せている不動産屋なので、いやとは言えない。
「大掃除をする必要はないけれど、とりあえず散らかっているものだけは全部しまっておいてください。」
は?と聞き返すと、「インテリア雑誌を見るとわかるでしょうが、ごちゃごちゃしていないでしょう? 表面をすっきりと、ってことです。」
散らかってはいないのだが、本やら雑誌やら蝋燭やら小物やらを全てざざっと箪笥と物置に片付けたら、ほう、本当にすっきりとしてしまった。
鍵を渡し、指定された時間にゆきちゃんをキャリーケースに押し込んで、30分ほど家を明けた。この間に不動産屋が、顧客を連れて家を案内するわけだ。
わたしはプールサイドの椅子に座って新聞でも読もうと思ったのだが、ゆきちゃんは「ぶにゃあああぶにゃあああ」と泣き叫ぶ。だめだ、こりゃ。
仕方がないので、駐車場の車の中でゆきちゃんを離してあげたら、素直にわたしの横に座っておとなしくなった。しかし、時間は4時である。5時に閉まってしまうスーパーへショッピングに出かけたりまた帰ってくる車も多く、不思議そうにわたしの車を覗くひとまでいる。
猫を隣に座らせて駐車場の車の中で新聞を読むひとは、やはり珍しいらしい。


