垂涎の日々: 2004年10月アーカイブ
明るい商店と洒落たバーやブティックの並ぶ道から近いので、このごろでは車を使わずに買い物を済ますことが多くなりました。スーパーの隣にはアイルランド系のパブもあり、夕方まだ日の落ちないうちに暗い隅っこでサイダーを一杯ひっかけるなどという、女性にあるまじきオコナイも密かな楽しみとなりつつあります。
ある日、このパブからその並びの肉屋に向かったところ、奥に日本語がちらりと見えました。肉屋の裏にはイタリア系の乾物屋と韓国人の八百屋があるのですが、そのさらに奥の小さな日本食堂には今まで気がつかなかったのです。テーブルと椅子がいくつか、7-8人はいればいっぱいになってしまうような小さな店です。どちらかというと注文して包んでもらう客のほうが多いようで、中で食事をするひとたちはあまりいません。
照り焼きチキンや海苔巻きなどの定番和食が書かれた黒板を見て、親子丼とついでにたこ焼きも注文すると、「5分から10分くらいかかります」とのこと。
「それじゃ、ちょっとそこの乾物屋で買い物してきますね」と声をかけて、隣の店に入りました。
ぶらぶらと品物を見て時間をつぶしていましたが、ふと顔を上げるとガラスをへだてた隣の店から、さきほど注文をとってくれた若い日本人女性が、手元のプラスティック袋を指差しては懸命に手をふっています。戻ってきたわたしを見た彼女は、「たこ焼きはあったかいほうが、ほんとに美味しいですから」とにっこりと微笑んで包みを渡してくれました。
出来たてのたこ焼きを手にとってみたら、海苔とソースの香りがそっと鼻をくすぐって、なんだか懐かしいような哀しいような不思議な気持ちになります。
「早く帰って食べますね」と彼女にお礼を言うと、わたしはほとんど駆け出さんばかりに家路を急ぎました。
(初出:メルマガ「AVANCE!」 No. 133, 16/08/04)
バンコクに「里帰り」すると、待ってましたとばかりにたまった仕事をどっさり渡してくれる秘書がいます。
実は会社を興したときからいる古株で、実際の肩書きは総務マネージャーなのですが、細かいところに手の届く配慮と「雑用の手配」の上手さでは右に出るものがいません。特にわたしとパートナーの世話となると、2人いる若い秘書には任せておけないとばかりに動き回り、残業は家に持って帰って仕上げてくるという有難い存在なのです。
今回の里帰りは、体調がすぐれないこともあって、仕事というより「療養休暇」となってしまいましたが、文句ひとつ言わず短期入院の手配をしてくれたのも彼女です。
そんなある日、午後からオフィスに戻ってみると、小さなマドレーヌがふたつ、西からの日差しを受けて薄桃色に輝くカーテンの前に置いてあります。
そして、とんとんと軽くノックの音をさせて、彼女がそっとオフィスに入ってきました。「子供にせがまれていたんで、久しぶりに作ってみたんですけど。」何を隠そう、「仕事の鬼」の趣味はお菓子作りなのです。
「マドレーヌは柔らかいし、レモンの代わりにライムを使ってみたんで、さっぱりして食べやすいかもしれません。」普段はあまり仕事以外の話はしない彼女ですが、お菓子の話をするときはとても優しい顔になります。
勧められるままにマドレーヌを手にとると、甘いバターとほんのりと爽やかなライムが香り、焼きたての暖かいぬくもりが手のひらに伝わります。
ひとくち齧ったわたしの顔を見て、にっこりとうなずいた彼女が引っ込むと、やがて隣のオフィスからいつものようにとてつもなく速いタイプの音が響いてきました。
冬の寒い時期に風邪をこじらせてしまうのは、いつも長女のわたしだけでした。妹や弟が元気に飛び回っているというのに、わたしは学校を休み、鼻を真っ赤にしてふうふうと熱にうなされます。
そして、夜中になると必ず咳が止まらなくなりました。そのたびに、母はそっと台所に灯りをつけ、湯を沸かし、レモンをしぼった湯に蜂蜜をたらして、枕元に持ってきてくれます。レモンの爽やかな香りにも気づかないほど鼻がつまっていますが、その熱く甘い蜂蜜レモンを口にすると、苦しかった喉が柔らかくほぐれてくるのです。
のど飴をなめても直らない咳がぴたりと止まり、ようやくぐっすりと眠ることができるのは、いつもこの母の蜂蜜レモンのおかげでした。
このところ風邪を引いたり直ったりという日々が続き、体調がすぐれなかったのですが、日曜日に「これから蜂蜜を持っていってあげるからね」と友達がやってきました。わたしが電話で蜂蜜レモンの話をしたからですが、持ってきてくれたのは、タッパー入りのなにやらクリーム状のものです。精製された透明な飴色の蜂蜜ではなく、紅茶に牛乳をたらしたような濁った色をしています。スプーンを入れてみると、確かにすうっと通るほど柔らかくはなくねっとりとからみつきます。
「市場で売っていたものだから、手作りみたいよ」というその赤いユーカリの蜂蜜を、さっそくレモンを絞った湯にたらして一口すすってみたら、子供のときのように喉がほうっと潤ってきました。


