センセイの放課後: 2005年12月アーカイブ

八年生(日本の中学一年生)の日本語クラスでは、ほとんどの生徒が練習問題を済ませてしまったというのに、ベンだけがまだ鉛筆を握ったまま一生懸命ひらがなを書いている。ほんのちょっと複雑な「ほ」というひらがなを書くだけでも、彼は三度ほどお手本を参照しなくては書き終わることができない。その字も悲しいくらいヘタクソだ。

ベンは、おとなしくてあまり笑わない子だ。そして、軽度の知的障害がある。日常生活に差し障りがないので教室内で専門アシスタントはつかないが、日本語学習能力はきわめて低い。宿題や教科書をよく忘れるし、授業態度こそ悪くないが何をするのもとても遅い。集中力も五分ともたない。しかし、隣の子とおしゃべりするわけではなく、ただひとりでぼうっとしているだけだ。
ベンだけ特別扱いをするわけにいかないので、他の子と一緒に授業の後休み時間のときに残すこともある。そのときにどうしてもベンが覚えられなかった「曜日」を教えてみた。
「ヨウビって言葉はどの日にもつくのよ。だから、ニチ、ゲツ、カー、スイ、モク、キン、ドーって覚えてヨウビをあとにつけるだけ。だからこれだけ暗記しちゃえば、あとは簡単よ」
 そして、一緒に何度も何度も呪文のように練習した。そのあと何回か授業の終わったときにも「ベン、もうひとりで言える?」と確認した。できないときは、また一緒に暗唱した。
 
授業の始まる前に、わたしは毎回「きょうは、なんようびですか」と聞く。何人かの生徒が手をあげる。ひとりに当ててその子が答えると、今度は「じゃ、あしたはなんようびですか」だ。この質問は「きのうはなんようびでしたか」で終わる。毎回三人の生徒が正しく答えるわけだ。中学最初の一年間これを繰り返すことによって、ほとんどの子が次の年もすんなりと覚えている。このセッションに、ベンが手を挙げ始めた。当てれば、正しい答えが返ってくる。「よくできましたね、ベン。本当によくがんばったね」と褒めると、ベンは目を伏せながらも嬉しそうだ。その次も、その次も、ベンは当ててもらおうと一生懸命に手を一番高く挙げる。授業が始まればベンはまだ何一つできないが、ヨウビだけははっきりと誇らしげに言えるようになった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

西オーストラリアのクリスマス休暇は、六週間の夏休みだ。だから、十二月に入ると生徒たちはウキウキとして勉強どころではない。低学年のクラスで、折り紙やクリスマスカード作りなどを盛り込むのもこの時期だ。折り紙の風船はクリスマスツリーの飾りつけにもなるので、きれいな包装紙を様々なサイズで用意した。一番小さい紙は五センチ四方もない。

「えー、センセイ、こんな小さいの無理だよー」と頭を抱える少年に皆が笑いころげる。紙を配って歩くわたしの手から、大きいサイズが次々と消えていった。後ろのほうの席にいたベンは一番小さい紙を何枚かそっと折らないようにわたしから取る。「ベン、だいじょうぶ?」と聞いたら、「うん、試してみる」とはっきり言った。

三十人もいる教室でその後十五分間、あちらで教え、こちらで修正し、席を立って遊びだした少年たちを叱り飛ばし、きちんと出来た子には褒めてあげる。ベンはその間中、ひっそりとひとりで小さな小さな風船を折っていた。授業が終わると、「できた」とだけ言って、自分の手の上に乗った豆粒ほどの風船を見せた。「よくできましたねえ、きれいだわ」と褒めたら、「うん」とだけ答えて教室から出て行った。

放課後まだ教室に残って窓際の整理をしていたら、またベンが来た。
「センセイ、来年もうここで教えないって本当?」
「そうよ。来年は新しい先生が来るから、また一生懸命勉強してね」
「僕は、センセイがいいな。センセイがまた来年教えてくれたらいいな」
「でも、駄目なのよ。わたしは非常勤だから。今度のセンセイはずっといるからね」
ベンはいつものように無表情で黙って立っていたが、右手に握っていたものをいきなり差し出して、わたしの手に押しつけた。
「これ、センセイにあげる」
見ると、前回教えた手のひらにはいるくらいの折り紙の箱に、豆粒風船がいくつもいくつも入っていた。
「センセイにあげる」

ベンのいる日本語クラスは二時間目だった。それから、授業中に折ったり昼休みに折ったりしていたのだろうか。あまりにも小さいその風船たちは、もちろん不恰好で形も揃っていない。
「どうもありがとう、ベン。こんなにたくさん、嬉しいわ」
ベンは口の中でモゴモゴと「メリークリスマス」と呟き、わたしの顔も見ずにさっさと帰ってしまった。

わたしはそのまま窓に寄りかかり、長いこと手のひらの豆粒風船を見つめていた。西日が差込み、つよいオレンジの光がわたしの頬を温める。
「メリークリスマス、ベン」
彼のようにもう一度そっと呟いて、わたしは窓を閉めた。

lastday.jpgここ二週間ほど、確定してしまった来年の「失業」に茫然としていた。
十月二十八日のエントリにも事情を少し書いたが、ある公立高校でフルタイムとして働いていた常勤資格のある日本語教師(オーストラリア人)が、わたしの代わりに来年から来ることに決定したのだ。そして、わたしには今なお何のオファーもない。

公立高校は、通常教育省から派遣される教師を選択する権利がない。どうしても学校側で選択したい場合は、科目ごとに特別な許可を申請しなければならない。普通は科目につき一人のみだ。このかなり複雑な申請をして許可されたのが、十一月中旬。学校がどうしてもわたしを確保したかったためだ。許可が下りると教育省のHPに「アーダラコーダラの条件を満たす教師は、xx高校に直接応募されたし」と募集広告が載り、たとえ常勤資格のある教師でも教育省を通さずに個人的に応募しなければならない。この「条件」はわたしの出来ることに基づいて作られるから、選択される教師はわたしか或いはそれ以上のレベルのあるもの…ということになっていた。

ところがここに登場したのが、「現在働いている学校をやめざるをえない教師」だ。
教育省で振り分けられる教師の中で、「学校が廃校になってしまったり科目がキャンセルされたりして、フルタイムの職を失わざるをえない、しかも常勤資格のある教師」は最優先権を持つ。教育省は何が何でも、彼らに職を与えなければならない。つまり、ここで十一月最後の日になってから、わたしの学校が苦労して獲得した選択許可は無効になったのだ。
代わりに教育省から指名されたのは、ある学校で日本語を選択する生徒数が大幅に減ったため、就業時間数がフルタイムに満たなくなってしまった日本語教師だ。

一応カタチだけの面接はしたらしいが、二年間わたしがスタートして担当してきた「日本語を話しながら料理しましょう」の人気クラスについては、「えー、わたしそんなに日本語に自信ないです」と即辞退。ずっと生徒の能力に合わせて開発してきたコンピューター授業も、このまま消滅。「コンピューターはワードとEメールしかできませんし、あんまりよくわからないんです」
大学入学をひかえた上級生たちのクラスを教えたこともないと言う。

教育省がどうしても「使え」と言って強引に押し付けた教師には、せめて何か他にわたしより優れている部分があるのだと思いたい。

先週は、食べきれないほどのチョコレートや写真やプレゼントをもらった。別れを惜しんでくれる生徒たちのカードはぎっしりと書き込まれ、束になっている。わたしにハグをし、泣いていた子も何人か。親からは「とても残念です」と電話も来た。他の教師たちからも、別れのカードやプレゼントをもらった。

昨日は学校おさめの日だ。

生徒たちは、先週木曜日に成績表をもらって休みにはいったが、教師と総務はまだ昨日まで仕事だ。
自分のオフィスの机をきれいに片付け、後任のために全ての私物を取り除いた。カラッポになったわたしの席を見渡し、最後に同僚の日本語教師に「元気でね」と、そっと抱きしめる。彼女は何も言わない。後ろを向いてしまったので、「大丈夫よ、来年だってきっとうまく行くから」と声をかけたら、肩が震えている。彼女は泣いていた。
わたしたちはふたりとも年も近く、ウマも合った。どちらも互いの長所を尊重していたから、チームワークはことごとく成果をあげて、日本語を選択する生徒数も増えていた。彼女は、わたし以上にショックを受けていたようだ。
「こんなのって、フェアじゃないわ」
今まで二週間ほど、あまりこの日のことに触れないようにしてきた彼女はまだ涙声だった。

そして、わたしも初めて目頭がしんと熱くなった。

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