センセイの放課後: 2005年10月アーカイブ

同じ学校で2年半働いた。
常勤教師のステータスのないわたしがこんなに長く同じ場所にいられるのは、一重に学校が色々と手を尽くしてくれたおかげでもある。しかし、来年はもうダメなようだ。学校もわたしにいて欲しい、わたしも残りたい、と言っていても、常勤資格のある教師が教育省に余っている場合は、彼らに優先権が与えられるためだ。

西オーストラリアはパースを首都としているが、その面積はオーストラリア全土の三分の一以上ある。州土に散らばった辺境というしかない土地に行きたい教師は、ほとんどいない。日本の三倍はあるその土地にある学校の数は大変なものだが、パースを除いた西オーストラリア各地の教師不足は深刻だ。教育省では、何とかして充分な数の教師を確保しようと必死だが、その政策のひとつとして何年も前に打ち出されたのが、「常勤資格制度」だ。つまり、石の上にも三年ならぬ「鉱山村にも三年」我慢して、英語の読み書きもままならない現地民族アボリジナル人70%などという辺境の地で教えれば、晴れて「常勤資格のある教師」としてパースに凱旋できるというのだ。この「常勤資格」さえあれば、毎年契約に応募して常勤教師たちのオコボレに頼らずとも、どっかと腰を据えて何年でも同じ学校で教えられる。

まだ家族を持たない若い教師たちが、こうして何人も辺境の地に旅立って行く。鼻の前にぶらさがった「ニンジン」の魅力は大きい。
問題はそうして「常勤資格」を与えられて戻ってきた彼らの能力だ。わたしの知るうちにも、何人か高学年の数学や語学を教えられない教師たちがいる。高校と大学で日本語を習って教師の資格をとり、辺境ではもちろん最低限の初級日本語しか教えていない。日本語で大学に行く子供たちなど、そうした土地からは皆無に等しいからだ。
三年たって帰ってきてみると、なるほど教える態度はサマになってきたかもしれないが、肝心の日本語がサビついている。十二年生の採点ができない。中級文法がわからない。助詞の「に」と「で」の区別がつかない。漢字がほとんど書けない。

ある学校では、そうした常勤教師が二年ほどフルタイムで教えていたため、大学入学試験の日本語平均成績がいきなり悪くなった。彼女の机の上に開かれていた上級生の答案を見たら、間違いが半分以上添削されていない。彼女には間違いさえ見つけることができなかったのだ。こういう教師は、それでも解雇されない。あまりにも日本語の成績が全般的に落ちたので、彼女のほうが居心地が悪くなった。「高学年の日本語を教えたくないんですけど」と学校にお伺いを立てる。学校のほうでは「ちょっと無理だったみたいですねえ、では高学年を教えられる非常勤の教師を雇いましょう。そして、あなたフルタイムじゃなくなっちゃうけど、どうしましょ。何か他に教えられるものある?」「大学で一応、外国人のための英語教師の資格をとりましたけど」「あ、じゃあそれいきましょう。うちの学校の外国子女のための英語教室には、確か非常勤の教師がいたから、その職をとりあげましょう。週六時間だから、あなたが教えられる下級生の初級日本語と合わせればちょうどフルタイム。これでいい?」
かくして、彼女は今だにその学校でフルタイムの教師をしている。

教師の「質」は問われない。とりあえず「数」だけはそろえてみても、これでは英国公立高校の荒廃を確実に追っているのではないか。

すっかり忘れていたが、昨日の朝のホームルームの教室で子供たちに言われて気づいた。今日は十二年生の学校最後の日だ。毎年行われている「ドレスアップ・ディ」の日なのだ。

一応十二年生だとて授業はあるのだが、ほとんど授業らしいことはしていない。他のクラスに行ってはいけない、と言われているだけだ。第一「ドレスアップ・ディ」だから、教室に座っているのはいつもの彼らではない。180cm以上あるデカイ熊のぬいぐるみや、、インディアンのねーちゃんや、ダースベーダーや、スパイダーマンや、ニンジャや、マリリン・モンローや、バットマンたちだ。そう、今日は十二年生たちが思い思いの仮装で学校に来る日なのだ。

朝、わたしが学校に来た時間には、すでに「熊」と「あひる」が立ち話をしていたし、後ろからは「イエス・キリスト」が「相撲力士」と歩いてきた。

わたしが担任のホームルームは八年生から十二年生まで総勢二十八人、そのうち卒業する十二年生は五人だ。最初にやってきたのは、頭になが~い羽を三本つけたインディアンの酋長の娘で、あまり羽が長いためドアの上にひっかけてカツラがもげそうになった。次にやってきたのは、60年代調の大きな金髪のカツラをかぶったウエイトレスたちが二人、そしてゴリラと映画のオースティン・パワーズの格好をした男の子たちが教室に入ってきた。

オースティン・パワーズというのはアメリカのコメディ映画の主人公で、黒ブチの眼鏡をかけて派手なスーツ姿をしている。ビロードのマッサオなスーツは結構その子に似合っていた。普段あまりふざけているときには、わたしが一喝することの多い子だった。わたしと冗談を言い合うのが大好きだったが、調子に乗りすぎてはまたわたしに怒られる。わたしもかなり頻繁に冗談を言うが、きちんと大事な情報を連絡しているときはおしゃべりは禁止だ。限度と節度を教えているつもりなのに、ヤツは性懲りもなくハメをはずす。しかし、気分の起伏の激しい子で、しゃべりだしたら止まらないときもあれば、黙って誰とも話さないこともある。あまり勉強ができるとは言えないし、遅刻することも多い。
昨日、「明日の高校最後の日は、このホームルームの全員にハグ(軽く抱きしめること)するからなああああ」と宣言して、下級生たちから「げええええ」とブーイングされていた。

今日は無礼講なので、わたしもあまりうるさいことは言わない。さんざ写真を撮りあった後、教室で皆の前に立ったヤツはこう言った。
「このホームルームの全員にハグするのはめんどくさいので、オマエらは省略してセンセイだけにハグすることにする」
ええっと思ったのもつかの間、わたしより頭ふたつぐらい大きいヤツにがばっと抱きしめられ、背骨が折れそうになった。恥ずかしいから、いきなり乱暴にハグしたらしい。
それでも、小さく「センセイ、ありがとーな」と言っている顔を見上げたら、やっぱりマッカになっていた。

昼から臨時の教師を頼んで、パース南から北の端っこまで大横断の旅。高速道路を使ったらたかが三十分の道のりに「大横断」もないものだが、パースのひとびとにとってスワン川をはさんで「北」と「南」にはかなり感情的な距離がある。

ウィンドウズXPのフォーマットと再インストールの研修があったのだ。時々ある教師用研修会のひとつだ。わたしは、ウィンドウズ98のときにフォーマットに失敗した苦い経験があるので、前から一度くらいきちんと習っておきたいと思っていた。
そうしたら、なーんだ、XPになってからの再インストールって拍子抜けするくらい簡単だ。待ち時間がちょいと長くて退屈だったが、後はほとんど説明にそって順番にクリックしていけば、すんなりフォーマットそして再インストールもできる。ドライバーはほとんどXPで見つけてくれるし。自分のコンピュータで試すのは何となくためらわれたので、まあ、いい勉強にはなったけれどね。

先週、西オーストラリアの教師のアンケート結果が出た。質問は一般的なものだったが、移民の国であるのにもかかわらず、英語以外の母国語を持つ教師は五パーセントにも満たない。そして、教師人口の平均年齢はなんと四十六歳だ。若いひとたちの教師離れが進んでいるが、ここにもそんな事実が見え隠れする。
平均四十六歳でもかまわないのだが、この年齢以上のひとたちはコンピューターに弱いひとが多い。使うのは、メイルと手紙用のMSワードくらいだ。エクセルもアクセスもパワーポイントも触ったことさえない。練習問題のシートを書くくらいはできるが、画像をそこに貼り付けることができない。三次元の世界で「コピペ」をする教師の姿はまだまだフツウなのだ(つまり、ハサミで切ってノリで貼り付けるということ)。コンピューターを使えば時間が短縮できることがかなりあるのだが、そこまで使えないのだ。

今日の講師だった女性は「いやいやながらのコンピューティング」講座も開いて、そうした中年以上の教師たちがもっと授業や雑用などにコンピューターを使うようにと教えているそうだ。だが、まだまだ人数は少ないらしい。

Turkish Delight02.jpg今日は、ボランティアのひとたちが一ヶ月も前から準備していたホスピス・ディだ。

ホスピスと言うのは、日本でももうそろそろ一般に知識が浸透してきたが、癌などの末期症状患者のためのいわゆる介護センターだ。病院という雰囲気は、ない。どちらかというと、リゾートのように美しく開放的だ。治療も最低限痛みを軽減する程度で、最後の日々を穏やかに過ごしてもらおうとするための施設だ。だから、体にとても負担のかかる化学療法も管を体中にくっつけたまま亡くなるということもない。
わたしの同僚である日本語教師のお姉さまも、去年癌のためここで亡くなった。そのせいもあり、彼女は率先してボランティアを引き受けた。わたしの通う公立高校の中庭を開放して、近くのマードック病院付属のホスピスへの寄付を集めるため、チャリティ・イベントをプロデュースしたのだ。今日までの一ヶ月間、チケットを作り、寄付の品々を仕分け、値段をつけ、食べ物の屋台を提供してくれるボランティアや、その他の屋台を担当してくれるひとびとをつのっていた。
わたしがしたのは、家で眠っていた小さな品々を寄付したり、一ヶ月前から十一ドル分買える十ドルのチケットを売るくらいだったが、当日は「客」に早変わりだ。
どちらかと言うと、内輪の催しだから、近所のひとたちや生徒たちとその家族だけだろう、と思っていたら、とんでもない。わたしが着いたのは朝十一時を過ぎていたが、まるでお祭りのように混雑して活気がある。生徒たちが屋台から声をはりあげて、寄付のぬいぐるみや、CD、本、小物などを売っている。せんせええええ、の声に振り向いてみれば、日本語クラスの生徒たちが、中華料理やインドネシア料理のお弁当を売っている。
中庭のステージでは、生徒たちのオーケストラや外からのボランティア・ミュージシャンたちの演奏が始まっている。
天気がいいこともあって、親子連れも子供たちもとても楽しそうだ。

オソロシイことに、もちろんお菓子やケーキの屋台もあった。うちの学校は国際色豊かなので、なんだか珍しいものもあって思わずたくさん買い込んでしまう。まずい。これは、まずい。わたしのダイエットはどうなるのだ。

あまり長居をすると本当にもっと買ってしまいそうだったので、一目散に逃げようとしたら、「ちょっとーっっ」と声をかけられた。副校長だ。
「がびっ、わたしの屋台を素通りする気ぃっ」
引き戻されて、屋台の前に立ったのが運のツキ。彼女はギリシャ系オーストラリア人だ。覗いてみると、ギリシャなんとか、と銘打った不思議なお菓子がたくさん並んでいる。
「わたしのターキッシュ・デライトは最高よ」
そう言えば、トルコとギリシャはお隣同士だったな、と思って、ひとつ四十円ほどのその小さなデライトをいくつか買った。ローズ・ウォーターを使っているので薄いピンク色をしている、ゼリーのようなお菓子だ。市販のものは食べたことがあるが、副校長の手作りはそれよりはるかに美味しい。うちに帰って四つ全部平らげてしまいそうになり、あわてて最後の一個の写真を撮った。(写真は、その最後の一個)
こりゃあ、是非ともレシピを奪わねばならないね。

昼過ぎにはわたしは学校をあとにしたが、催しはまだ続いている。ただ単に寄付集めとして献金をつのるより、それを地域でチャリティー・イベント化してひとを呼び寄せるというのも、オーストラリアらしくてわたしは好きだ。生徒たちも皆誇らしくボランティアを引き受けているし、家族で何かを売っているひとたちも多い。売り上げは全てマードック・ホスピスに行くから、目的もはっきりしている。学校という場所を提供することで、それがコミュニティの媒介ともなっている。
今度こういう機会があったらもっと積極的に参加してみよう、と思った。

about this archive

このページには、2005年10月以降に書かれたブログ記事のうちセンセイの放課後カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはセンセイの放課後: 2005年6月です。

次のアーカイブはセンセイの放課後: 2005年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。