センセイの放課後の最近のブログ記事

「オーストラリアの生徒たちを教えるのってどうですか?」とよく訊かれる。実は、わたしは日本で教えた経験が全くないので、はるか彼方のン十年前の自分の「生徒としての経験」を苦労して思い浮かべて比較するしかない。そして、現在の日本の中学/高校が一体どんなふうなのかもよくわからない。だが、交換留学生として来ている日本人の生徒やネットなどからの情報と比較してみると、日本の教室はやはりかなり違った雰囲気だということは想像できる。

オーストラリアはほとんどの学校が中学・高校一貫教育なので、このエントリーでわたしが「学校」と呼ぶ機関はこれを指す。

わたしが初めて「西オーストラリア公立学校」に足を踏み入れたのは、教育実習のときだ。最初の日「へええ、こういうとこなんだ」とまるで物見遊山に来たように、珍しそうにキョロキョロしたものだ。教育実習は、その学校の日本語教師が実習生の指導者となる。その日本語教師に連れられて、オフィスを紹介され日本語教室に連れて行かれた。オーストラリアの学校は、普通科目ごとに教室が決められていて、生徒たちは授業ごとにその教科の教室に行く。その日本語教室は、まあポスターなどが数枚貼られていて、何となく「日本語を教えている教室だな」とわかる程度には飾られていた。
ところが、その隣の小さな部屋に制服を着た警官の姿が見える。不信に思ってその日本語教師に訊いてみたら、「ああ、あの警官は8時から3時まで常駐しているのよ。去年、ナイフで生徒が教師を傷つけるという傷害事件があったから」とさらっと言われた。正直に告白すると、わたしはこの時点で、バンコクに戻りたくなった。

それでも気を取り直し、実習生として授業を始めてみると、その騒がしさに茫然とした。授業にならない。ひとりひとりが勝手におしゃべりをする。喧嘩が始まる。いきなり立って歩き回る。こういうものか、と思い、深く息をすうと一喝した。そして、その後は皆が気味が悪くなるほどの静かな声で諌め、脅かし、授業を始めた。まあ、こういうことが数回。わたしは、実際疲れきってしまった。
そして、大学側からの審査の日。あろうことか、指導する日本語教師が「用事がある」と消えてしまった。そして、日本語教室の設備交換とかで追い出され、科学教室を与えられる。そんな。科学教室は、普通の教室と違い様々なものが置いてある。日本語教師を探しに行く暇もなく、わたしは何とか生徒たちをまとめようと必死。ひとりの男子生徒が奇声を上げて、教科書を略奪し始め、それを受け取ったもうひとりの悪ガキが大きな洗面台にそれを投げ込み、水道の蛇口をひねる。女生徒たちは一角にかたまって、お化粧をしたりおしゃべりをしたり。わたしは、あっけに取られた。そして、教室の片隅を見ると、そこにはやはりあっけにとられた大学からの指導教授の顔が。

その後「こんなひどい学校に実習生を送るなんて言語道断」とアタマから湯気を出した指導教授の決断で、わたしの審査は保留、もうひとつの学校(実習は二校で審査される)で二度審査されるということになった。大学がそれ以来二度と実習生を送らなくなった学校は、数年後また刃傷沙汰があり、荒廃校のひとつとして今も名を馳せている。

これは、まあ、あまりの特別なケースだろうけれど、それでも教室のマネージメントは重要なポイントだ。ハッキリ言って、授業での日本語指導よりはるかに重要なのだ。
そして、これが日本人教師たちの致命的な弱点でもある。教室内の騒音に愕然として、立ち尽くす。子供たちは、残酷だ。このセンセイは何をやっても大丈夫だ、とみくびられると、もうそれだけで違うイメージを与えようがない。クラスはますます騒々しさを増し、収拾がつかなくなる。言葉の問題もある。子供たちの早口が聴き取れない。ある程度英語に自信があるひとでも、子供たち30人以上とひとつの教室に閉じ込められると、どうも上手く言葉が出てこない。今までは自分を主張せずとも何とかやってこれたのに、教室ではひとりぼっちだ。そして、自分の言っていることを子供たちが理解してくれない。笑われる。そうした様々な出来事で、心身ともに疲れきってしまう。これはこうした教室マネージメントに慣れていない日本人だけではなく、若いオーストリア人教師にも言えることなのだが、真面目なひとほど深く真剣に考え込み、どんどん自分を追いつめ、結局「自分には向いていないのだ」と教えることから遠ざかってしまう。
残るひとより、やめるひとのほうが多い、と言われる世界だ。わたしと一緒に机を並べたディプロマコースの外国語教育専攻では、二十五人が教員免許を取得している。現在も教師としてパースで働いているのは、フルタイムではわたしひとり、パートタイムでは四人しか残っていない。これが今日の実情だ。

わたしのように人生でもビジネスでも世界中で荒波にもまれ、「わたしをナメるには10年早いよ、バーカ」と全身で表現しているオバさんでさえ、最初はたじろいだくらいだ。クラスにもよるが、最初のころは、放課後になるとぐったりと疲れて何もしたくなかった。それでも次の日、またもそうした悪ガキたちのクラスでテンテコマイになる。本気でやめようかと考えたこともあった。

日本の高校では、せいぜいちょっとおしゃべりをして注意され、あとは早弁と携帯メッセージとヨダレたらして本気でぐうぐう寝るぐらい、というから、大して騒音にもならない。中には荒れた学校もあるだろうが、大抵は授業の妨げになるほどの特殊なケースはあまりないらしい。そうした環境の教育現場からいきなりこちらの教室に立たされたら、面食らうどころかカルチャーショックでしばらく立ち直れないのもうなずける。こちらでは、教師は押しが強くなくては生き残れない。英語で堂々と子供たちを叱り、ぐうのネも言わせない態度と言葉が必要だ。

まず教室に入る前に、「野球帽をとれ」「教科書持って来たか確認しろ」「そのずり下がったズボンを上げろ」「うるさい、静かにしろ」と行ってから、「センセイが先っ」と言ってまずわたしが教室に入ってから、生徒たちを通す。間髪を入れず、日本語で丁寧にお辞儀をして挨拶。「センセイ、こんにちは」「みなさん、こんにちは」
すでに隣の子たちと話し出す生徒、数人。そいつらを黙らしてから、さて練習帳を出させ前回のオサライのひらがな。その間に、教室を回って、やってない子をおどしつけ、携帯を取り上げ、持って来なかった子に代わりのプリントをやり、おしゃべりを黙らせ、ガムを噛んでいる子に「すぐゴミ箱のとこに行って吐き出せ」といい、出席をとり、今日の授業のスタートだ。文法の説明をしている間にも騒々しいヤツがいる。名前を呼び、黒板の隅に名前を書く。これが三回重なったら、昼休みにバケツとでかいピンセットを持ってゴミ拾いの罰則だ。わたしは1度やると言ったことは、必ずやる。子供たちは、言うだけで罰則を与えない教師を軽く見るからだ。説明をしている間も、問題でひとりひとり当てながら、教室を回り、話しながらも携帯を黙って取り上げ、おしゃべりしている子を目でにらみつけ、ぼうっとしている子にとんとんと指でページのどこをやっているか知らせる。

それでも薄ら笑いをして、おしゃべりをやめなかった男子生徒がいた。わたしは、「今度うるさかったらお母さんにも来てもらって放課後話をしなければね」とその前のクラスで言っておいた。そしてまた薄ら笑い。で、わたしが何をしたかと言うと、やにわに携帯電話を取り出し、教室で彼の母親に直接電話をかけた。教室、しーん。少し話してから彼に携帯を渡す。しどろもどろの彼の言葉を見逃すまいと、教室の静寂は続く。その後、彼の態度が改まったことは言うまでもない。目には目を、歯には歯を。

もうひとつのクラスの悪ガキは、わたしよりアタマひとつ大きかった。で、うるさい。すぐにまったく関係のないことを大声で、しかも教室のハシにいるやつに話しかける。ちょうど形容詞を教えているときで、「ナントカはかわいいです」に「はい」と「いいえ」で答える練習をしていた。で、ヤツに訊いてやった。「センセイはかわいいですか」ヤツはちょっと考え、めんどくさそうにとりあえず「はい」と言った。わたしは満面の笑みをうかべ「ありがとう」と言った。教室中笑い声でうまり、ヤツは何のことかわからずマッカになった。
次のクラスで、またうるさいヤツに今度は「センセイはこわいですか」と訊いてやった。ヤツは、もうその手には乗らないぞ、とにやにやしながら「いいえ」と言った。バカめ、似たような言葉だが意味は天と地ほども違う。わたしはまた満面の笑みをうかべ「やっぱりセンセイはこわくないんですね。かわいいんですね。ありがとう」とお辞儀までしてやった。クラスがまた笑いにつつまれたのは言うまでもない。
それ以来、形容詞だけはきちんといくつかわかるようになった。また、センセイに引っ掛けられちゃたまらないものね。ヤツが必修科目としての日本語を終って上級生になっても、たまにこの「センセイはかわいいですか」を訊いてやった。「いいえ」と叫び返す。それでもにやにやしている。ヤツはほかの言葉は忘れても、この「センセイはかわいいですか」だけは、いつまでも覚えていることだろう。

このブログの「センセイの放課後」というカテゴリには、少々そうした思い出も記してある。ほとんど前に働いていた公立校のものだが、わたしはそれだけその「うるさくも愛すべきバカモンたちがいる公立校」が大好きだったからだ。今でも、未練がある。現在働く私立女子校でもそれなりに教室マネージメントはあるが、それよりも雑用と書類の数が多すぎて、週七十時間なんてことも少なくない。

実際、教師という職業は好きでなければやっていられない。給料は少ないし、見返りは少ないし、ストレスは多いし、と否定的な事柄を上げ始めたらキリがない。それでもわたしが教え続けているのは、やはり子供たちが好きだから。わかったときの輝く目、試験が終って「よかったよ」と言ったときの恥ずかしそうな顔、「センセイ、ありがとう」と言うときのその感謝の重み。

わかっちゃいるけどヤメラレナイ、と思うのはこんなときだ。そして、そんな気分にさせてくれる子供たちにこちらからも心から「ありがとう」と言いたい。

「わかっちゃいるけどヤメラレナイ職業」なのかもしれない

日本でも同じような状況だと思うが、「教員免許を得る」と「教員としての職を得る」ということは根本的に違う。これから書くことは、あくまでも一番需要のある西オーストラリアの小学校、中学/高校(オーストラリアは中/高一環教育が主体)についてであって、その他の地域とその他の教育機関についてではないことを、あらかじめ記しておく。

西オーストラリアでは教員採用試験はないので、職探しはそのひとの「どこでも教えられます。たとえ火の中、水の中」という熱意とコネと運と能力にかかっている。

「たとえ火の中、水の中」は、前回のエントリで説明した「西オーストラリア教育省のスポンサーシップ」に応募して二年のスポンサーつき労働ビザを取得し、はるか彼方の遠隔地学校に行くことだ。この労働ビザで働いていた日本人教師のひとりは正直に「二年我慢して永住許可証を取ったら、教師なんかやめるわ。わたしには向いていないし」と公言していたが、まあ、そういうひともいるのだろう。
遠隔地というのは、日本人には想像もできないような「何にもない村」だ。郵便局がひとつと何でも売っている小さな店がひとつとレストラン兼用パブがひとつ、これだけあればいいほう。村から一歩出たら、地平線と空の二色が何千キロも延々と続く、なんて土地もある。ほとんど全ての住民が知り合いだし、日本人は、いやアジア人はあなたひとりだ。日本食なんて買えるわけもない。だから、そういう田舎で生活している教師たちは、学期休みになるとパースに戻って、買い出しをしたり中華レストランに行ったりして、また一学期分の英気を養う。

知り合いの歴史教師も田舎に行って三年我慢して、晴れて正教員の資格を得てパースに戻った。この「正教員の資格」については、後ほど述べる。彼女が送られたのは、鉱山村だ。つまり鉱山関係の労働者とその家族が住む村である。人口は千人以下。そこで彼女が住んでいたのは、独身者寮と呼ばれる「男性鉱山労働者で家族のいない者」用のずらっとならんだ長屋だ。キッチンとシャワーのついた簡易アパートのようなもの。どうして、そんな男性独身者のアラクレどものドマンナカに住むんだ、と震え上がるのは間違っている。そのほうがひとりで一軒家を借りるより「はるかに安全」だからなのだ。

さて、前回の田舎で働く熱心な日本人教師さえも、皆一度永住許可証をとったらさっさと都会で仕事を見つけて引っ越すんだ、と希望を持ってがんばっている。そして、もちろんパースなんぞという「世界で最も他の都市から離れている」というギネスブックの項目に載っている州都には、そんなに簡単に日本語教師の口などない。だからと言って、ほかの東海岸地域で見つかるかというとそうでもないようで、かなり西オーストラリアに流れてきているのは、前回も書いた。

西オーストラリアには「正教員システム」という壁があって、1度この正教員になったら、新聞に載るようなものすごいアヤマチを犯さないかぎり、一生教師としてのフルタイム採用が保障されている。これはオイシイ。この「鼻の先のニンジン」を使って、西オーストラリア教育省は「普通だったら誰も行きたくないようなド田舎」に教師を数年派遣する。先にも書いたが、だからといってパースに職があるとは限らないので、仕方なく田舎に残るひとたちもいる。フルタイム採用と収入だけは取りあえず一生保障されているわけだから、まあ安泰だと言えるが。

「正教員」にはもうひとつオイシイ特権がある。「何らかの原因と学校の廃校・方針変更のせいで職を失った場合、またはフルタイムだった授業数が激減した場合」に、最優先の学校変更権が与えられるのだ。つまりほかの学校で「日本語教師の職」があった場合、そのカワイソウな日本語教師のフルタイム職を確保するため、そこで教えていた「正教員ではない契約教師」は契約終了時に見事にお払い箱になる。
こんなことに詳しいのは、その「正教員ではない契約教師」が数年前のわたしだったからだ。詳しくは2005年末のエントリー「学校を去る日」をどうぞ。今思い出しても、腹立たしい。

とにかく、どうしても田舎に行けないという場合を除いては「一生教師として食べて行く気合いがあるなら」この「田舎で教えて正教員になろう」キャンペーンに乗るべきだと思う。

そして、そうでない場合。つまり、わたしのように「絶対やだ」「パースでさえ鄙びた中都市なのに」「バンコクと東京にすぐに行けない」などの理由で、パースに残る決心をした場合。
これは、公立校に関しては契約教師の道しかない。つまりフルタイムであろうとパートタイムであろうと、1年未満の契約だ。オーストラリアの新学期は二月初めで、その前には長い夏休み(こちらの夏は十二月から二月まで)が六週間ほどある。だから、次の年の契約持続が確定していないかぎり(いや、ほとんど確定していてもわたしの場合のようにポシャることもあるが)、たいてい七月にはオンラインで願書を提出し、そのままじっと来年の職が出てくるまで待つ。連絡が来るのは腹立たしいことに十二月が一番多い。つまりそれまでじっと来年の収入の不安を抱えながら教えるわけだ。それでもまったく連絡がない場合もある。毎週、教育省の採用課に電話をして、そのたびに「あったらこちらから連絡します」と肘鉄をくらう。何が何でも仕事が欲しかったら、「週四時間だけど、小学校の仕事があるよ」にも飛びつく。そしてそのあと急に出てきた「フルタイムの、しかも年末までの1年契約」なんてものに変更がきかなくて、泣く泣く週四時間、プラス他の学校でも何時間か教えて糊口を凌ぐ。年の途中でまたパート教師の口が飛び込んでくることもあるだろう。
運がよければ、もちろん毎年なにかしらのフルタイムの職がある可能性ももちろんある。そういうひとも沢山知っている。だが、最悪の場合もあらかじめ認識していたほうがいい。わたしは1時期仕事がほんとうになくて、三校かけもちしていたことがある。車で移動だったが、ひとつの学校からもうひとつの学校まで十五分で行かないと間に合わない日もあり、半年続けてほとんど身体を壊しそうになった。
しかし、まあいくらかの蓄えがあれば、気楽に構えてこういうパート仕事をしてみるのもいいかもしれない。

公立学校はこんなふうに教育省で採用の実権を握られているが、私立校はまた別だ。
こちらは新聞の求人欄に求人広告が出る。普通は百人近い応募があるから、これを書類選考で十人から二十人に絞り、あとはみっちりと面接をする。この時点で不利なのは、1度も教えたことのない新人教師。ディプロマコースの教授以外保証してくれるひとたちがいないからだ。その私立校に知り合いがいる場合は、結構簡単に「面接だけは」してもらえる。わたしは現在の私立女子校の職を得るまでに、公立校で働きながら、あるいは失業しながら、実に四十以上の履歴書と願書を提出していた。そして、その中で面接までこぎつけたのは、知り合いのフランス語教師がいたこの私立女子校だけである。
その後、1度だけ自宅近くの私立校の求人に応募したことがある。すでに現在の女子校で働いていたが、自宅から歩いても十分という距離は魅力的だった。面接して帰ったら、すでに採用の通知の電話があった。現在働いている私立女子校での実績と経験のせいだ。結局、校長と語学科主任の両方に説き伏せられて行かなかったけれど。

そんなわけで、わたしの経験は、まあ、ひとりの教師のもので他のひとたちの経験とは全く違うものかもしれない。だが、教師の職を得るのは、日本と同じように、それほど甘くないということだけは知っておいてもらいたい。

次のエントリーは「教室の現状」。

メールでご質問があったので答えておこうと思う。

「日本で日本語教育能力検定試験に合格したのだが」というのは、オーストラリアでは通用しない。オーストラリアの前にはタイに住んでいたので豪語できるのだが、このふたつの国の日本語教師の需要と供給は全く違う。

タイでの日本語教師は、日本語しかできなくても大丈夫だ。タイ語で日本語を教えられる日本人教師が少ないこともあり、タイ人の日本語教師よりも貴重だとみられているからだ。日本で英語が母国語の教師が優遇されているのと同じ状況かもしれない。
ボランティアで日本語を教える人も多く、日本人だから雇われているひとも含めれば膨大な数の「日本語を母国語とする日本人教師」がいることは間違いない。日本で日本語教師として働いているひとたちの授業はもちろん、直接法と呼ばれる「日本語で日本語を教える方法」だ。外国人たちは様々な国から来ているのだから当然なのだが、タイでも同じ。「タイ語で日本語を教える日本人教師」は数えられるほどしかいない。

日本語熱は依然として高く、タイにおける日本語は英語の次に需要の多い言語だ。大学でも毎年どこかで日本語講師の求人がある。率直に言ってどこでも小遣い程度の給料だが、労働ビザも取得できるし、タイの生活は(贅沢さえ望まなければ)充分まかなえる。あなたが四年制大学の日本語学士課程を修了していたら、必ずどこかで職は見つかる。そして、日本語教育能力検定試験で好成績を残していたら、必ずどこかで職は見つかる。

だが、わたしの書いている「日本語教育」は西オーストラリアにおける中学と高校の必修科目のひとつだ。

日本の中学と高校の英語授業で使われる言葉を英語に限定するのは、不可能に近い。ネットのニュースで「そうなることを望んでいる、または近々そうなるような行動をとる」という記事も数ヶ月前に読んだが、実現にはほど遠いと思われる。オーストラリアの必修日本語教育もまた然り。日本語で授業をすることは不可能に近い。授業の中で日本語を使うのは、たぶんオーストラリア人の日本語教師より多いかもしれない。それでも、文法の説明や試験に関する説明などは全て英語である。そこまでのレベルには達していないからだ。中学1年生から習い始めた英語が、高校を卒業するまでに流暢になるかどうか。「なるよ」や「なったよ」と言うひとだって、そりゃあいるだろう。しかし、「六年間の授業と自習のみ」で流暢になるのはかなり難しい。言葉はコミュニケーションだからだ。

わたしは学校で、十四歳の九年生から高校最終年の十二年生までを教えている。それぞれ週三回から週四回の授業だ。日本語が好きで漫画やアニメが好きで、わたしに変な日本語で話しかける子供たちもいる。そういうときには、極力平易な日本語で答えるようにしているが、外国語必修学年の九年生と十年生のほとんどは、ふだん日本語を口にすることもないだろう。
日本の中学生が日常生活でほとんど英語を話さないのと同じようなものだ。

そういう義務教育での語学教育は、「日本語を勉強したい」または「日本語を勉強する必要がある」成人を相手にする語学教育とは全く違う。どんなに「日本語教師としての日本語力」が高くても、それを子供たちがわかるように「英語で」説明できなければ授業は成り立たないからだ。

ここからはオマケだが、オーストラリアの成人を生徒とする教育機関はどうか。

外国人のための私立英語学校はゴマンとあるが、実はオーストラリア人のための私立外国語教育機関というものは存在しない。TAFEと呼ばれるオーストラリアの専門学校は全て公立で、それぞれの州の教育省に属する。ここではスポーツ、語学、趣味などおよそ考えられる全てのアクティビティーを学ぶことができて、しかもオーストラリア人と永住許可を持った外国人にとっては非常に安い。日本語も外国語のひとつとして提供されている。上級クラスに行けばほとんど日本語の授業もあるだろうが、ここでも英語はかなり使われる。つまり、直接法ではない。

日本ではあまり知られていないが、オーストラリアには39の大学があり、そのうちの二校(一校は西オーストラリアにある)を除いて全て公立大学だ。パースにも公立大学は四つあり、その頂点に立つのが西オーストラリア大学である。どの大学にも日本人の講師または教授がいて、日本語は通常アジア学の一科目として提供されている。語学教室は初級から上級まで多岐に渡り、それによって日本語が直接話される量も違ってくる。

グローバル言語と化した英語圏での外国語教育では、少なくとも初級/中級のレベルにおいて直接法が使われることはまずない、と認識しておいたほうがいいと思う。「なぜ、英語だけが各国でそれも直接法で教えられているのか」または「英語が第一言語の英語教師は英語だけで授業をするのか」については、ここでは関係ないので触れない。

次のエントリーは「教師の職を得る」。
「教師として働く前に」ではなく「働けることが可能になる前にしなければならないこと」について、ここでは述べる。
すでにオーストラリア人との婚姻などで永住権のあるひとには、このエントリは必要ないので読み飛ばしてほしい。

先のエントリで最後に述べた、「オーストラリアの教員免許がなくても働ける方法」は日本で教師として働いたことのあるひとや日本の教員免許のあるひとのためのものだが、これは可能ではあるけれどかなり難しい。
まず、自力で「日本語教師の求人」を見つけなければならない。これが一番難しいのは、3度数ヶ月の失業を強いられたわたしがよく知っている。その難関を突破して、その学校がまずあなたを雇いたい、としよう。そのときにあなたは「実は永住許可証がないんで、わたしは労働ビザが必要なんです」と言う。担当のひとは顔もしかめずに「もちろん、うちで請け合います」と太鼓判を押さなければならない。学校が保証人となって初めてあなたは労働ビザの申請ができるからだ。この審査は気の遠くなるような枚数の書類と気の遠くなるような回数の移民局への「訪問」を含む。それも突破したとしよう。おめでとう、あなたはその学校で働ける。しかし、こういうビザを持つ日本人日本語教師が周りにひとりもいないのも事実だ。

これが嫌なら、もっと手っ取り早い方法がある。永住権の取得だ。
教師としての永住権取得にはふたつの道がある。ひとつは、教員免許を取得する前に、好きなひとを見つけて同棲するか結婚するかという道。これが一番簡単である。愛は全てを可能にするのだ。ちゃんちゃん。

わたしは重婚罪を犯すわけにはいかないので、もうひとつの道を選んだ。技術移民永住ビザと呼ばれる永住権だ。詳しい取得情報は、その他のサイトへ。オーストラリア移住に関するビザあっせん業者はゴマンといるので、そちらのほうが確実だと思う。
ただし、いくつか越せない壁があるので書いておきたい。

まず、この技術永住ビザは申請時に45歳未満でなければならない。年齢によって、若い順から選考基準が厳しくなるのは、「どれだけ長いことこの国で税金が払えるか」にかかっているのだから、素直に従うしかないか。
もうひとつは、さかのぼって二年以内にオーストラリアでの高等教育機関(つまり大学か大学院)で二年以上の何らかのコースを修了し、しかもそのコース修了後六ヶ月以内に申請しなければならない、というややこしい規則がある。つまり、現在のところ西オーストラリアでディプロマコースを修了しても一年にしかならないので、申請に足りないのだ。わたしの申請時には、これがまだ一年だった。
ただし、日本かあるいは他国で申請までの二年の間に十二ヶ月以上の教師職務経験がある場合は、そのオーストラリアでの二年間の留学経験は問われない。
さらに、ここでまたIELTSの試験結果を提出しなければならない。それも一年以内の結果だ。今回は永住権用なのでアカデミック試験ではなく、ジェネラル試験と呼ばれる「普通の日常生活に支障のない英語」のテストだ。こっちも難しいことには変わりないが、使われるトピックスが全く違う。試験そのものより、また何万円も出して試験を受けなければならないのに腹がたったが、規則です、と言われれば黙って払うほかはない。

晴れてこの永住権を取得したら、もうこっちのものだ。医療保障も社会保障も受けられるし、選挙権はないが、それでも自由に職業さえ選べる。教師じゃなくてもいいのだ。ただし、マルチ入国ビザのスタンプはオーストラリアから出入国するために必要で、五年ごとに更新。その時点で五年間で二年以上滞在していないと、事実上永住権は失効する。

「なあんだ、これじゃだめだ。あきらめようっと」......と言うには、まだ早い。
西オーストラリアにはもうひとつ教師になる道がある。それは全ての公立学校を管轄する西オーストラリア教育省に「スポンサー付き技術移民永住権」の申請スポンサーになってもらえる可能性だ。教師という職業が、スポンサーになる西オーストラリア州のState Migration Planに記載されているための特別処置だ。オーストラリアのほとんど半分と言ってもいいくらいの土地を占める、広い西オーストラリア州は、万年教師不足に悩まされている。つまり州都ではなく、そこから何時間も飛行機やバスや電車や車でしかたどりつけないような、遠隔地の学校のことだ。こうした地域の教師不足を解消するため、西オーストラリア教育省は数年前から東海岸地域にも、また「教員免許は取ったけど、一年しか大学院に在籍していないから永住権の対象外になっちゃったガイジンの教師候補者たち」にも積極的にお誘いをかけるようになったのだ。
この制度で、東オーストラリア、つまり都市で言えばシドニー、メルボルン、ブリスベン、キャンベラなどや西オーストラリアの大学で教員免許を取得した日本人教師、または日本で最近十二ヶ月以上の教師経験がある日本人教師が、西オーストラリアに日本語教師として職を得て現在も働いている。数は多くないが、確かに数人わたしも知っている。

こうして二年間、教育省に保障された労働ビザで地方で教師として仕事をしたあと、晴れて技術移民としての永住権の申請ができることになる。楽な仕事ではないし、西オーストラリアの遠隔地というのは日本の田舎とは比べものにならないほど何もない。日本人はたぶんその村でひとりだ。そういう暮らしに耐えられる自覚は必ず持っていなければならないと思う。
わたしは地方の経験がないが、労働ビザで州都から車で五時間の田舎で日本語教師として働いている方を存じている。明るく、元気で熱心な先生で、いつもお会いするたびに頭が下がる。わたしには決してできないからだ。

次のエントリは「直接法で教えたい」。

日本語教師としてブログを書くようになってから数年たった。その間に、ソーシャルネットワークなどでのメッセージも含めて、実に何十回も「どうやったらオーストラリアで日本語教師になれますか?」という質問を受けてきた。そのたびに丁寧に返事を出してきたが、それよりもここで一回詳しく書いておくほうがいい、とようやく気づいた。遅いよなあ、もう。

しかし、これから書くことには前提もある。
わたしが教師として仕事をしているのは西オーストラリア州の州都だ。オーストラリアでは州によって法律も違い、そこには教師の資格と雇用状態も含まれる(と思う)。だから、「それはシドニーでは違うよ」と言われても、わたしは「そうですか」としか言えないのだ。また、「西オーストラリアで教師をやっていたけど、それは違うよ」と言われても、これにも「そうですか」と言うしかない。今年は日本語教師になって九年目。それ以前のことも、また最近になっていきなり変わった事情などにも疎いし、ましてや授業などに関しては教師としての「個人的な経験と感想」であって、全く違うそれを武器に反論されても、それはそのひとの考えと経験であって、わたしのものではないからだ。人生はマルとバツでできているわけではない。
さらに、わたしの経験はSecondary Schoolingと呼ばれる中学高校一貫教育の場に限られ、その後の大学や専門学校での日本語教育には触れない。だから、これには訊かれても「わかりません」と答えるしかない。

前置きが長くなったが、何年もネットを使って発信していると、嬉しいメッセージがあるのと同じぐらいの量の「おかど違いの反論とわたしの知らないことへの質問」もあるので、一応予防線をはっておくのはわたしの常識になってしまったということ。

★資格コースについて★

オーストラリアの大学の学士課程は三年。日本のように教養と専門に分かれているわけではなく、三年間みっちり専門課程で学ぶ。そして、日本のように「教職課程」を科目のひとつとして選択することはできない。
教師になるための資格取得には二つの道があり、ひとつは、専門として教育学部を選択し四年間「教育」を学ぶこと。卒業したあとで「教えるべき科目」はその間に選択科目として取ることになる。もうひとつの道は、学士となりその後大学院に進んで1年ないしは2年の教育学ディプロマを取得することだ。西オーストラリアではまだ1年だが、東海岸ではすでに2年制になったと聞く。このせいで永住許可証に重大な影響が出るのだか、それは後で述べる。大学院に属しているので、研究修士課程と並行してこのコースをとる学生も多い。修士だけあっても仕事にありつけないのは、どこの国でも同じだ。わたしのときには、研究博士課程の学生が4人いたし、すでにPhDで名前の前にドクターのつく学生も2人いた。
わたしはその数年後修士課程に進んだが、同時期に私立女子校でフルタイム勤務になりやむなく休学届けを出した。だから様々な機会に「退職したら趣味として戻る」と言っているのは、まんざら絵空事ではないのよ。うん。

もうひとつ、外国人としての日本人にはオマケの義務がある。
わたしは日本の大学でとった学士資格があるので、三年間の専門課程を飛び越してこの大学院ディプロマコースに直接入学したが、これにも審査がある。西オーストラリア大学では、IELTS (International English Language Testing System) のアカデミック試験で「3科目(読解、聴解、口頭全てを合わせた平均7ポイント以上」だ。研究修士課程の最低限が「平均6.5ポイント以上」だったことを考えると、なんでこっちのほうが高い英語力を要するのかビックリするだろうが、これまた後で述べる。西オーストラリア大学では、これに加えて「簡単な英語エッセイを提出してください」と言われた。お題は「あなたはこの大学で学ぶことによって、大学/講師・教授/学生の三つのグループにどのように貢献できるや?」というものだった。これに英語訳をつけた日本の大学の成績証明書を添付して提出、晴れて入学許可書を受け取ることになる。

コースで学ぶ間に、またひとつ英語試験を受けた。これは外国人だからというわけではなく、「教師予備軍」に対して英語が第一言語だろうが第二言語だろうが、一律に課せられるテストだ。教師は様々な書類を英語で書かなければならないので、これができないと致命的。英文法が欠落した過去二十年ほどの間に教育を受けてきた若者たちの中には、コンピューターの影響で正しいスペルと英文法を使えないひとたちが少なくない。だから、どちらかというと「スペルと文法とコンマと大文字が正しく表記されていて、意味のわかる英語の文章が書けるかどうか」というテストだ。もちろん手書き。IELTS試験の高ポイントがまず入学前の外国人に課せられるのは、こうした「英語を使わなければならない教師」力のうち基本をチェックするためだ。
そう言えば、何度も受けさせられているオーストラリア人の学生が数人いたような気がするし、最終的なディプロマ取得時には百人近くいたこのディプロマコースの学生は2/3まで減った。

英語は重要だ。東海岸では、外国人のためにというより「日本人のための英語授業」を含むディプロマコースがあると聞くが、こうしたものは西オーストラリアにはない。西オーストラリア大学以外では、大学付属の外国人のための英語コースで半年間「大学用語」から「論文の書き方」まで学ぶと自動的に入学できる大学もあるが、その半年間には数多くの試験もあるので日常会話程度の英語力では不可能。
ディプロマコースでも様々な論文を書かされる。筆記試験もある。そして教育実習も。子供たちの英語は容赦がない。「外国人と話すことに慣れた英語教師の英語」と全く違うのは当然なのだけれど。

さてこうしたコースを終了すると、晴れて「教師資格」が与えられるわけだが、それですぐに教師になれるわけではない。あなたが日本人というビザで滞在している外国人なら特に。また、日本で教師として働いていたひと、または教師資格のあるひともここで教えることは「可能」だけれど、わたしの知る教師仲間のうちでは皆無だ。何人か日本でも教師をしていたひとを知っているが、全員こちらでもディプロマを取得している。

次のエントリは「働ける前に、まず」。