映画の愉しみ: 2005年5月アーカイブ
「スターウォーズ・シスの復讐」を観てきた。
平日だと言うのに、いや混んでいること。もっとも、パースあたりの「映画館が混んでいる」という表現は、自分の「好みの場所に座れなくて、端のほう、またはものすごーくスクリーンに近いところにしか席がとれなかった」という意味であって、日本のように立ち見が出るわけではない。
さっそく「サイズ小」(タイの映画館では「サイズ大」に当たる大きさ)のポップコーンと、喉につまらせた際にうるおすためのミネラウォーターを買って、前から8番目のよい席を陣取る。
ジョージ・ルーカスは、この連作サーガの最初のほう(いや、正確には後のほうか。ややこしいが、わたしの指しているのは70年代後半のイチバン古いスターウォーズ4から6のことだ)でとんでもない額の収入を得た監督で、そのずば抜けたアイデアとCGを駆使したスクリーンで映画史上(=市場)に名を残したひとでもある。スターウォーズ4のあの戦闘場面は、当時豆粒ほどの会社だったインダストリアル・ライト・アンド・マジック(ILM)の駐車場で撮らざるをえなかった。つまり、おおがかりなセット場所を借りる余裕がなかったからである。
その上、続編を作る予算に自分の監督手当てを全部当てちゃったため、「それじゃあ、フランチャイズにして、いろんなものをスターウォーズの名のもとに売っちゃおう。そんで、もうけちゃおうっと」などと考えて、またもやとんでもない額の収入を得た金儲けの天才でもある。
しかし、いくらヒラメキとアイデアと金儲けがじょうずでも、残念ながら彼には登場人物に感情移入できる才がない。ひとの愛と苦悩が全く観客に伝わってこないのだ。陳腐な台詞には毎回天を見上げる思いをするし、ユーモアの無さにも辟易する。
確かレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーだったと思うが、ジョージ・ルーカスの演技指導を「とてもやりにくかった」と評している。「うん、とてもいいよ」か、「もうちょっと感情を出して」しか、コメントしてくれなかったと言うのだ。こりゃ、あんまりだ。
しかし、前回から登場した主役のひとりであるヘイデン・クリステンセンのデクノボー演技を見ていると、やはりルーカスの演技指導が変わっていないことがよくわかる。眉をひそめて下からじいいいっと見つめれば苦悩が表現できるというなら、わたしだってハムレットができちまう。
下から見つめるだけで人の心を捉えたのは、古くはローレン・バコール、比較的新しいところではプリンセス・ダイアナくらいのものだ。ヘイデン・クリステンセンには彼女たちにそなわっていたカリスマ性がないから、そんなポーズをとっても何も伝わってこない。
もっとも、CG使いすぎのために、ほとんどの演技がブルースクリーンの前で行われたらしいから、キャストたちは映画が公開されるまではほとんど何が自分たちの後ろに現れるのかわからない。こんな状況で陳腐な台詞満載の台本を渡されたら、たとえわたしの大好きなユアン・マクレガーやサムエル・L・ジャクソンがいくらがんばってみたところで、大して効果がないのは明らかだ。
CGはもちろん70年代後半のものよりはるかに技術が進んでいるが、最近の映画自体がほとんどCGを使っているので、感動するべきところもあまりない。オープニングの戦闘場面は確かによかったが、共和国(のちの帝国)のクローンたちはあいかわらず「あらぬ方向」を撃ち続けて絶対にまっすぐに主人公たちを狙わないし、オビワンとアナキンの一騎打ちはいいかげん長すぎて、飽きた。
実は、その戦いのあたりからもう席を立ちたくなったのだが、突然画面から何かが伝わってきた。ダース・ベイダーの誕生する場面とパドメが双子の兄妹を出産するくだりだ。「悪」と「新しい命」の誕生が交差し、台詞のほとんどない情景の中、パドメは命を落とす。同じころ、帝国の手術室で生命維持装置である輝くヘルメットを顔にかぶせられたアナキンは、ダース・ベイダーとしてお馴染みの姿で立ち上がる。
遥か彼方の宇宙で繰り広げられる壮大なドラマは、こうして25年前の作品へと余韻を残していたのだった。
だがね…この宝石のようなシーンは、これでもかこれでもかと見せ付けられたCG戦闘シーンに比べたら、わずか10分くらいのものなのだ。
これを観るためにわたしは120分もトイレを我慢していたのかと思ったら、なんだか悲しくなった。
まだわたしがとても小さかったころ、「奥様は魔女」というアメリカのコメディドラマがあった。もちろん吹き替えで、「奥様の名前はサマンサ…」で始まるそのドラマは、アメリカという国がまだ遠い彼方であったころのわたしに、若くしがないサラリーマンさえ立派な一戸建ての大きな家に住み、わたしの部屋より大きなキッチンを持てることを教えてくれた。
玄関のドアを開けるとすぐに居間があるという米国式の家も目新しかったが、ちょっと上を向いた鼻をもごもごと動かして魔法を使うサマンサはとてもチャーミングだった。
今晩、友達と三人で中華の焼鴨にかぶりついていたとき、その中のひとりが鴨からにじみでる油で唇をてらてらと光らせながら言った。
「ねえねえ、今度ニコール・キッドマンが "Bewitched"のサマンサ役をやるんで、鼻をもごもごさせる練習をしているんですって」
「へええええ、懐かしいドラマだ。僕が子供のころのテレビドラマだよね。まだ、白黒だったし」
"Bewitched"(魔法にかけられて)ってなんだろう、なんだか聞いたような話だな、と考えたときにちょうど思い出した。「奥様は魔女」だ。
「あ、知ってる知ってる、それ。奥様の名前はサマンサで、旦那様はダーリンって言うんだよね。わたしも小さいときに見たよ」
「ダーリン?」友達が二人とも、変な顔をしてわたしを見た。
「うん、ダーリンでしょ? サマンサがそう呼ぶのが可愛かったよね」
「それさあ、ダーリン(Darling)じゃなくって、ダーレン(Darren)でしょうが」
「はあ?」
そして、わたしはウン十年目にして初めて、そのサマンサの旦那様の名前がDarlingではなく、Darrenだと知ったのだった。
いくら小さいからと言って、Darlingが「あなたぁ」ってな愛をこめた呼びかけであることくらいわかっていたから、サマンサが甘い声で彼を「ダーリン」と日本語で呼ぶとき、コメディだからそんな名前の旦那様なんだ、と信じきっていた。そして、それはその当時「奥様は魔女」を見ていた日本の視聴者たちにとっても同じだったろう。
ああ、こんなところにもRとLの違いのない日本語の限界が横たわっていたのだった。
友達に説明すると、二人とも腹をかかえて笑い出した。
「でもさあ、ドラマの中でそのダーレンの会社の上司やその奥方や友達だって、彼のことをダーリンって呼んでいたわけでしょ。可笑しいと思わなかったの?」
そう言われりゃあ、変だよなあ。


