映画の愉しみの最近のブログ記事
毎年一回は日本に里帰りするとはいえ、二十代の俳優はほとんど知らない。だから、彼らが普段はツンツン髪で「わたしにわからない21世紀スラング」を使いながら話すことも知らないし、交友関係で女性誌を賑わせていることも知らない。チョンマゲ姿しか見たことがなかった瑛太という俳優が、「ヴォイス」というドラマ(これもダウンロードしてみた)で、フツウの髪型をしているのを見て、ほうと驚いたくらいだ。
徳川家定を演じている俳優(堺雅人)があまりにも「骨格的」に見て、徳川時代の公家体型なのにも感心してしまった。首が細く顔幅が狭く、しかも痩せ型でなで肩だ。とても品のいい顔立ちでもある。もう、なんだか江戸時代からタイムスリップしてきたみたいだ。こういう人は、現代ドラマではどんな役を演じているんだろう。
そして、井伊直弼役の中村梅雀と島津斉彬役の高橋英樹の所作の美しさ。座るとき、平伏するとき、立ち上がる時。昔、インタビューで高橋英樹が「現代劇で刑事役をやった時、走り方がサムライになってしまって困った」と言っていたことを思い出した。何回やっても、腰を落として背筋をまっすぐ保ったまま「たたた」と走ってしまうそうな。さもありなん、と言うべきか。
そんなわけで、毎回かなり新鮮な思いで見ている。
「大河ドラマがかなりホームドラマ路線になっちゃっている」とか「言葉遣いが江戸時代と昭和・平成がゴチャ混ぜで変だ」とか「江戸時代では絶対あり得ない作法」とか、色々と突っ込みどころは多々あれど、まあ豪華絢爛で楽しいことには変わりない。
「篤姫」各エピソードの率直な感想と堺雅人ヒトスジの楽しいサイトも見つけた。
http://www1.cnc.jp/nico925-foolonthe/sakai/atsuhimetop.html
表紙からは、NICOさん自作の幕末小説も紹介している。
http://www1.cnc.jp/nico925-foolonthe/
ここのところネットから遠ざかった生活をしていたが、楽しみも増えたことだし、これで書き散らしのブログも再開(ということになるかもしれない)。
ヒース・レッジャーが突然ニューヨークのアパートで死亡したことは、記憶にも新しいと思う。彼がオーストラリアのパース出身だったため、どの新聞を開いても、どのテレビのスイッチをつけても、彼のニュースが飛び込んでくる。そして、死因を調査していた結果が最近出た。処方されていた薬の複数摂取が原因だったという。CNNのエンタメ・サイトにはその薬の名前が詳しく出ていたが、睡眠薬、鎮痛剤、精神安定剤など、実に六種類もの薬が処方されていたのだった。それら複数の薬を大量に服用したわけではなく、それら全てを一度に服用したことが彼の死につながったらしい。
彼の実父は「処方された薬物の複数摂取の危険をもっと重視するべきだ」というコメントを残しているが、リストされた薬物はそれぞれ二種類ずつの睡眠薬、鎮痛剤、精神安定剤だ。これらが全て、ひとりの医者から一度に処方されたとは考えにくい。だとすれば、ヒース・レッジャーが自ら複数の医者に出向いて入手したか、あるいは非合法的な手段で手に入れたと見るべきだろう。これを一般的な危険と考えるには、少々無理があるように思う。
美貌と金と才能に恵まれ、幸運でもあると思われたひとたちが、蓋を開けてみれば薬漬けだったことがわかる。わたしたち一般人には考えられないほどの、そして手に入れることのできないほどの量だ。
彼は、果たして何から逃げたかったのだろうか。
ダイ・ハードの一作目が世に出たのは、なんと1988年、ほとんど20年前だ。
スーパーマンのように空を飛ぶわけでもなく、007のようにカッコよくもなく、ただひたすら悪態をつきながら満身創痍で走り回るブルース・ウィリスがとても人間くさかった。そして、テンポのよい息もつかせぬアクションに、ポップコーンを食べるのも忘れて見入ってしまった19年前のワタクシ。
その、ブルース・ウィリスが戻ってきた。
カリフォルニア知事になる前のシュワルツネガーだって、ロボットのくせに皺が深くなった20年後のターミネーターをやっちゃったし、来年には65歳のハリソン・フォードがまたもやインディー・ジョーンズになるくらいだ。ブルース・ウィリスが、額の後退を気にせずにすむ坊主頭で戻ってきても、不思議じゃない。
アメリカの都市としての機能を完全に麻痺させるサイバーテロ集団に立ち向かう、アナログ人間ジョン・マクレーン。エレベーターから墜落しそうになったり、カンフー娘に痛めつけられたり、糸をひかなくてもスパイダーマンのような華麗なる動きをする敵を見事にやっつけたり、カーチェイスではF35に攻撃されたり、それでも生き残る男ジョン・マクレーン。F35が真正面からミサイル撃ってきているのにもかかわらず、だ。
コンピューターグラフィックの技術が進んだため、1と2よりはるかに多用されているのがちょいと残念だ。それがマクレーンを、なんだかスーパーマンのように変身させてしまったような気がする。あまりにも規模が大きくなりすぎて、タダの人間じゃあとても脱出不可能の状況は、「ほう」という感嘆とともに「くすり」という笑いをも誘う。
そのマクレーンの相棒になる、コンピューターおたくの男の子。この童顔はどこかで見たぞ、と思ったら、MacのコマーシャルでさんざWindows(役の役者)を馬鹿にするMac役の男の子だ。その前は、ギャラクシー・クエストでやっぱりコンピューターおたく(というよりTVドラマおたく)を演じていた。こういうのも、タイプキャストというのだろうか。クチの達者な少年というイメージで、親しみやすい顔だ。
この二人がコンビを組んで悪のサイバー集団に立ち向かうわけだが、なんで物足りないのかと思ったら、悪役がどうも情けないのだ。サイバー集団というだけあって、「戦える」のは悪ボスの愛人のカンフー娘(こういうのもタイプキャストだなあ)と、糸なしスパイダーマンだけだ。あとは、みんなカチカチとキーボードを叩いているだけ。華麗なる指さばきで、次々と移り変わるWindowと意味なし文字の羅列に目をこらす。現代的と言ってしまえばそれまでなのだけれど、みな頭デッカチで、目をぎらぎらさせる「悪の権化」的インパクトに欠ける。
だから、見ごたえはあくまでもブルース・ウィリスだ。
超人だろうがハゲだろうが、彼は男くささムンムン、まだまだ現役だ。妻には逃げられ、娘には鼻であしらわれ、しかし最後にはみなの賞賛を集めてしまう傷だらけの男は、彼をおいて他にはいない。五十二歳にして自らのアクションだけで主役をはるのは、並大抵のことじゃないのだ。
あと十年たって、定年間近のジョン・マクレーンが「腰の痛さを押して走るところ」をまた見たい。
今回いつものように山のような郵便物を開いていたら、新しい日本のDVDショップの号外が入っている。さっそく、邦画と韓国映画にひとつだけタイ映画を入れて、まとめて注文してみた。日本のDVDショップなら、タイ映画も日本語字幕つきだ。
英語タイトルは「Beautiful Boxer」。なんで「ボクサー」を「ボーイ」にしなきゃならなかったのか、邦画の題名にはいつも理解に苦しむ。ボクサーの話なんだからそのままにしときゃいいのにねえ。
とにかく、この「ビューティフル・ボーイ」は、九十年代末から新世紀にかけてタイでかなり有名だった、ムエタイ選手ノン・トゥームの話だ。
厚化粧をしてリングに上がり、勝つと相手選手に「ごめんね、痛かったでしょ」と頬にキスすることでも有名だった。計量のときに、裸になりたくない、と泣いちゃったこともある。要するに、ちょいとキワモノ的な名声のほうが先になってしまったが、彼ははっきり言って強かった。出てきたばかりの十代のころはほとんど全戦全勝、その後ホルモン投薬を始めたあたりから弱くなっちゃたけど。
だから、日本の東京ドームで女子プロの選手と試合をしたあたりは、人気が下降線をたどっていたころだ。
タイ映画には、普段「どうしようもないコメディー」か「どうしようもないホラー」しかないので、こんなふうにマットウな映画が出てくると正直感心してしまう。そりゃあ、苦笑してしまうようなヤラセの場面もあるが、本筋はあくまでも真摯に「オンナになりたかったキックボクサー」を追う。
映画自体は、彼の幼少時代から性転換手術をして女になるまでを、手術直前のインタビューで語ったという形をとっている。タイ北部の映像はとても美しいし、ムエタイの試合もかなり迫力があって怖いくらいだ。
しかし何よりも、強靭な肉体を持つ百戦錬磨のボクサーが「オンナになること」を夢見て戦うという大いなる矛盾。この矛盾をどのようにして共存させ、やがて心と身体を矛盾なきまで変化させるか、ということにわたしは興味があった。しかし、万人受けをねらったためか、あるいは美しい映像を損なわないためか、ところどころに入る彼のナレーション(インタビューという形をとっているためだ)も、苦悩を深く掘り下げはしない。どちらかというと、「なるほどねえ、かわいそうにねえ」というコメントで終わるようなさらりとした告白だ。なんでナレーションだけ英語なんだよ、という疑問も残る。
ノン・トゥームを「有名になるためにオカマちゃんのフリをしたキックボクサー」と思っていたひとたちを感動させ、あらためて彼の強さとその内面の葛藤を振り返らせるには、確かに意義のある映画だと思ったが。
何年か前に、彼女(手術後なのでもう「彼」ではなかった)の実際のインタビューを読んだことがある。そのとき、「もし生まれ変われるなら、男と女とどちらを選びますか」という質問があった。彼女の答えは驚いたことに「やっぱり男がいいです」。
「ただし、今度は心も身体も男になりたいです」と付け加えたのが、大変印象的だった。
「スターウォーズ・シスの復讐」を観てきた。
平日だと言うのに、いや混んでいること。もっとも、パースあたりの「映画館が混んでいる」という表現は、自分の「好みの場所に座れなくて、端のほう、またはものすごーくスクリーンに近いところにしか席がとれなかった」という意味であって、日本のように立ち見が出るわけではない。
さっそく「サイズ小」(タイの映画館では「サイズ大」に当たる大きさ)のポップコーンと、喉につまらせた際にうるおすためのミネラウォーターを買って、前から8番目のよい席を陣取る。
ジョージ・ルーカスは、この連作サーガの最初のほう(いや、正確には後のほうか。ややこしいが、わたしの指しているのは70年代後半のイチバン古いスターウォーズ4から6のことだ)でとんでもない額の収入を得た監督で、そのずば抜けたアイデアとCGを駆使したスクリーンで映画史上(=市場)に名を残したひとでもある。スターウォーズ4のあの戦闘場面は、当時豆粒ほどの会社だったインダストリアル・ライト・アンド・マジック(ILM)の駐車場で撮らざるをえなかった。つまり、おおがかりなセット場所を借りる余裕がなかったからである。
その上、続編を作る予算に自分の監督手当てを全部当てちゃったため、「それじゃあ、フランチャイズにして、いろんなものをスターウォーズの名のもとに売っちゃおう。そんで、もうけちゃおうっと」などと考えて、またもやとんでもない額の収入を得た金儲けの天才でもある。
しかし、いくらヒラメキとアイデアと金儲けがじょうずでも、残念ながら彼には登場人物に感情移入できる才がない。ひとの愛と苦悩が全く観客に伝わってこないのだ。陳腐な台詞には毎回天を見上げる思いをするし、ユーモアの無さにも辟易する。
確かレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーだったと思うが、ジョージ・ルーカスの演技指導を「とてもやりにくかった」と評している。「うん、とてもいいよ」か、「もうちょっと感情を出して」しか、コメントしてくれなかったと言うのだ。こりゃ、あんまりだ。
しかし、前回から登場した主役のひとりであるヘイデン・クリステンセンのデクノボー演技を見ていると、やはりルーカスの演技指導が変わっていないことがよくわかる。眉をひそめて下からじいいいっと見つめれば苦悩が表現できるというなら、わたしだってハムレットができちまう。
下から見つめるだけで人の心を捉えたのは、古くはローレン・バコール、比較的新しいところではプリンセス・ダイアナくらいのものだ。ヘイデン・クリステンセンには彼女たちにそなわっていたカリスマ性がないから、そんなポーズをとっても何も伝わってこない。
もっとも、CG使いすぎのために、ほとんどの演技がブルースクリーンの前で行われたらしいから、キャストたちは映画が公開されるまではほとんど何が自分たちの後ろに現れるのかわからない。こんな状況で陳腐な台詞満載の台本を渡されたら、たとえわたしの大好きなユアン・マクレガーやサムエル・L・ジャクソンがいくらがんばってみたところで、大して効果がないのは明らかだ。
CGはもちろん70年代後半のものよりはるかに技術が進んでいるが、最近の映画自体がほとんどCGを使っているので、感動するべきところもあまりない。オープニングの戦闘場面は確かによかったが、共和国(のちの帝国)のクローンたちはあいかわらず「あらぬ方向」を撃ち続けて絶対にまっすぐに主人公たちを狙わないし、オビワンとアナキンの一騎打ちはいいかげん長すぎて、飽きた。
実は、その戦いのあたりからもう席を立ちたくなったのだが、突然画面から何かが伝わってきた。ダース・ベイダーの誕生する場面とパドメが双子の兄妹を出産するくだりだ。「悪」と「新しい命」の誕生が交差し、台詞のほとんどない情景の中、パドメは命を落とす。同じころ、帝国の手術室で生命維持装置である輝くヘルメットを顔にかぶせられたアナキンは、ダース・ベイダーとしてお馴染みの姿で立ち上がる。
遥か彼方の宇宙で繰り広げられる壮大なドラマは、こうして25年前の作品へと余韻を残していたのだった。
だがね…この宝石のようなシーンは、これでもかこれでもかと見せ付けられたCG戦闘シーンに比べたら、わずか10分くらいのものなのだ。
これを観るためにわたしは120分もトイレを我慢していたのかと思ったら、なんだか悲しくなった。


