デラシネの呟き: 2008年1月アーカイブ
東京最後の晩、母と妹と一緒に近くの焼肉屋に行った。つい1週間ほど前に開店したところだから、何もかも清潔で新しい。まだ早い時間だったので、あまり客もいない。注文した品は十分とたたないうちに次々と運ばれてきた。「こちら、カルビと上ミノになりまーす」と元気よく言われて、「ほう、じゃあ今はまだ変身してないんだ」と呟いたわたしは、母に膝をつねられそうになる。妹は、鼻をもごもごとさせて笑いをこらえる。
そして、がび家三人の女たちは、ハタと気づいた。
男がいない。
実は、世の男性たちが「僕の趣味は、料理です」と堂々と言える時代に逆行するかのように、わたしと血の繋がった男たちは実の弟も含めて、料理がまったくできない。その、テーブルについたとたんに料理が次々と出てくるわ、ビールが注がれるわ、という生活に慣れたケシカラン男たちが唯一文句も言わずにするのが、焼肉やすき焼き、なべ類などのテーブルを囲んでつくる料理なのだ。これは、母方の親戚でも同じ。従兄弟たちは、わたしたちが箸を持って待ち構えている前で、このときとばかり甲斐甲斐しく「料理」する。その前の下ごしらえや食器など全て準備ができているのだから、当たり前だが(と、がび家の女たちは考える)。
それなのに、今回は頼みの綱の弟もいない。三人でちらちらと目を合わせているうちに、年齢順ではドン尻の妹が渋々とトングを取った。そして、わたしもこれまた渋々と手伝う。母は、決して手を出さない。出すのは、口だけだ。
「向こうの焼けてるから、取って。こっちからだと熱いよ」「火が出ちゃったじゃなーい。そこにある氷で消してよ」「あ、それもうひっくり返さないとダメ」
煙の出たテーブルを囲みながら、女たちはひっきりなしにカシマシイ。そして、誰もが「焼肉は、やっぱり男に黙って焼いてもらってゆっくり食べるのがイチバン」と心の中で毒づく。
久しぶりに、山手線に乗った。母は膝をかばって杖をついているので、ひとつだけ開いていたすみっこの席に座らせ、わたしは隣に立つ。母の席の隣に、ちょこんとこんなボックスが。「ランプがついているときはご使用いただけます。」
この表示には、一瞬「トイレかっ」とひっくり返りそうになった。そんな、まさか。
気を取り直して、今度は「この緑のボタンを押せば、簡易椅子が出てくるのかしら」と考えた。そして、やっと一駅分かかって気づいた。「これって、わたしの母がすでに座っているシートのこと?」
満員電車のときは、緑のランプが消えて立つ場所が増えるんだ。へえ。
たまにしか日本に戻らないと、驚くことが結構あるものだ。
ゆうちゃんは今年十八歳になる。人間の年齢ではすでに百歳以上になる老犬だ。名前を呼んでも聞こえないし、目も見えない。鼻も利かなくなっている。足腰さえ弱くなっているので、オシッコをするときにも腰を支えていてあげないと尻餅をついてしまう。歩く姿はよろよろとおぼつかなく、すぐにころぶ。そして、ゴハンのときと排泄のとき以外はほとんど寝ている。
去年里帰りをしたときには、まだ餌ボウルの前で立ったまま食べることができた。だが、今年はもう鼻さえ利かないので、ボウルまでたどり着くのが容易ではない。鼻先まで持っていってやると、顎だけ上げて頭ごとボウルにつっこんで食べ始める。力の入らない足は、うつぶせ大の字に開いたままだ。
オシッコは、もう自分ではどこでやっているのかわからないようだ。だからほとんど自分のハウスのそばでやってしまう。周りに厚く新聞紙が敷き詰められているのはそのためだ。
そのゆうちゃんの世話をするのは、喜寿のわたしの母だ。餌をやり、新聞紙を取替え、医者に目薬と栄養剤をもらいに行き、一ヶ月に一度は美容院にも連れて行く。手作りの寝床はダンボールをきれいに貼り合せたもので、天井には電気毛布がサカサマに貼り付けてある。昔使っていた犬用ハウスは大きすぎて寒いらしい。
何ヶ月か前には、「安楽死させてやったら」という伯母(母の姉)の言葉に怒り、いい年してものすごい姉妹喧嘩をしたらしい。よぼよぼにはなっているが、ゆうちゃんはまだ歯もしっかりと全部あるし、心臓も強い。亀のような姿勢で食べるが、食欲も旺盛なのだ。「病気で苦しんでいるわけじゃないのに、世話がかかるからってコロセとは何よっ」まあまあ、お母さん。
しかし、父の死後、ひとりと一匹は寄り添って十年間生きてきたのだから無理もない。わたしたち子供はすでに家を出ていたし、たったひとりで残された母はゆうちゃんがいなければひきこもりの生活に入ってしまったからもしれないのだ。「ワンワン」と鳴けば「うるさいわねっ」と小言を言い、「クンクン」と甘えれば「なあに」と撫でてやる。そんな日常が、ささやかではあるが母を支えてきた。今ではもう甘えることもなくただひたすら寝るだけだが、ゆうちゃんはそれでも母の大事な家族なのだ。
お茶を飲んでいると、ゆうちゃんがくぐもった声で「ワンワン」と吼えた。寝ていたと思っていたので、びっくりしてハウスを覗いてみる。
「夢見ているみたいよ」と母が言う。「時々、寝ながら前足と後ろ足を両方動かして、走っているみたいなカッコもするのよ」
「若くて、まだ全速力で走れて大きな声で吼えていたときのこと、夢みているんでしょうねえ」
ため息をついた母の姿も、ずいぶん小さくちぢんでしまったことに気づく。
(写真は、母に抱かれた去年のゆうちゃん shot by 弟)
新年、明けましておめでとうございます。
正月が明けてから、日本に里帰りしている。こないだ来たばかりのような気がするのに、もう一年たってしまったということだ。月日の過ぎるのは、はやい。
日本を離れている間に年号が「昭和」から「平成」になり、「成人の日」が一月十五日ではなくなった。確か、昭和天皇の誕生日は「みどりの日」になったはずだ。
新聞(実家では、わたしが物心ついたときから毎日新聞だ)を開いて、初めて今年が「平成二十年」だと知る。成田に向かうリムジンバスの窓から、騒音も飾りつけもない喪に服した繁華街の風景を見たのは、もう二十年も前のことだ。
一年に一度戻る日本は、変わってしまったものたちを確認する旅でもある。
それでも、実家の中だけは昔ながらの「正月」だ。母の手作りのおせち料理を口にし、鶏肉のはいったおすましのお雑煮をすする。古い玄関には、小さなしめ飾りと門松が添えられている。仏壇には、これまた小さなお供え餅がでんと載せられているし、父の写真の前には赤ワインの小瓶がある。
一年に一度戻る日本は、ほんの少しの哀しさをともなって、忘れ去られようとしている日々を確認する旅でもある。
「がびのテラス」を始めたのは、2001年の正月だ。当時はブログなどというものはなかったから、手打ちのHTMLでページを作っていた。七年という年月の中で、わたしの文体も多少変わり、写真も増え、何度か更新が止まり、そしてまた再開した。そのたびにもう少し定期的に書こうかなと決心だけはするのだが、生来「筆不精」なので自らため息をつくのみ。
だから、皆様にたまに思い出していただければ、こんなに嬉しいことはない。
今年も、どうぞよろしくお願いします。
正月が明けてから、日本に里帰りしている。こないだ来たばかりのような気がするのに、もう一年たってしまったということだ。月日の過ぎるのは、はやい。
日本を離れている間に年号が「昭和」から「平成」になり、「成人の日」が一月十五日ではなくなった。確か、昭和天皇の誕生日は「みどりの日」になったはずだ。
新聞(実家では、わたしが物心ついたときから毎日新聞だ)を開いて、初めて今年が「平成二十年」だと知る。成田に向かうリムジンバスの窓から、騒音も飾りつけもない喪に服した繁華街の風景を見たのは、もう二十年も前のことだ。
一年に一度戻る日本は、変わってしまったものたちを確認する旅でもある。
それでも、実家の中だけは昔ながらの「正月」だ。母の手作りのおせち料理を口にし、鶏肉のはいったおすましのお雑煮をすする。古い玄関には、小さなしめ飾りと門松が添えられている。仏壇には、これまた小さなお供え餅がでんと載せられているし、父の写真の前には赤ワインの小瓶がある。
一年に一度戻る日本は、ほんの少しの哀しさをともなって、忘れ去られようとしている日々を確認する旅でもある。
「がびのテラス」を始めたのは、2001年の正月だ。当時はブログなどというものはなかったから、手打ちのHTMLでページを作っていた。七年という年月の中で、わたしの文体も多少変わり、写真も増え、何度か更新が止まり、そしてまた再開した。そのたびにもう少し定期的に書こうかなと決心だけはするのだが、生来「筆不精」なので自らため息をつくのみ。
だから、皆様にたまに思い出していただければ、こんなに嬉しいことはない。
今年も、どうぞよろしくお願いします。


