デラシネの呟き: 2004年3月アーカイブ

ボランティアという言葉が注目を浴びたのは、日本ではあの阪神大地震のときだったと思う。何かしらひとの役に立ちたくて、関西に向かった若者たちも多かったと聞いた。

わたしがタイへの「里帰り」のたびにゆきちゃんを預けるのも、猫愛護団体のボランティア組織だ。資金をまかなうために猫宿泊施設を併設しているが、ここで猫の世話をするひとたちは、皆猫が大好きなボランティアたちだ。

わたしの友達も、パース郊外の州立プラネタリウムでボランティアの案内役をしていたことがある。週に2日星を眺めて、そうした組織に接するだけで楽しかったと言う。しかし、仕事の関係で2週間ごとにパースを離れなければならないため、プラネタリウムのほうから3ヶ月後に丁寧に断られた。もう来てくれるな、ということである。

こういう話を聞いて憤慨するのは、ボランティアの本当の意味がわかっていないひとたちだ。ひとのために役立ちたい、何かしたいという純粋な気持ちから、タダ働きだとわかっていながらも登録しているのに、ケシカランというわけだ。

しかしボランティアが日常化している社会では、当然解雇もある。たとえタダ働きでも組織に加入したからには「責任」もあり、それを負えないひとたちは周りに迷惑をかけるからだ。
たとえば、あなたが「今日は友達と出かけたいから出来ない」と思っても、猫の世話は待ってくれない。誰かがあなたの代わりをしなければならないのだ。
そして2週間ごとにしかボランティアの出来ないわたしの友達がいないときには、誰かが彼の代わりを勤めなければならない。
自分がしたいときにちょっと「ボランティアしたい」などと思っていては、こういう仕事はできないのだ。

ほとんどの高校では、日本語教師のアシスタントという日本人がいる。ビザの関係でもちろんタダ働きのボランティアである。現地人教師のために教材を作ったり、上級生のクラスでは会話の練習も手伝う。コピーもとらなければならないし、雑用も引き受ける。最初は言葉もままならないから、苦労も多いことだろう。

わたしが接してきた日本語アシスタントたちは、皆若くて明るい女性たちでくるくるとよく働いてくれた。慣れない外国に何ヶ月か滞在し、ホームステイと学校の仕事で友達も作り、楽しい思い出を持って日本に帰国する。あるいはそのまま滞在して、語学学校や大学に進む。

ただ、そうしたアシスタントたちの中には、やはり「ボランティアなんだから、ちょっとぐらい行かなくたって」と思うひともいるようで、無断で休んだり遅刻したり、当てにしているとレッスンプランを直前に変えなければならない事態に陥ることもある。これは、まずい。
わたしの知り合いの教師も、「したくなったら行く、嫌なときにはしない、というのがボランティアだと思っているアシスタントもいるのよ」とこぼしたことがある。

わたしも実は去年「失業していた」ときに、ボランティアで老人ホームの老人たちの話し相手になりたいと思った。そして、断られた。理由は、2ヶ月間働かせてくれるポジションがなかったからである。最低でも3ヶ月、と言われた。「そのくらい長くないと、信頼関係を築くのが難しいから」とのこと。もっともな理由なので、素直に了解できた。

ことボランティアになると、なぜか「したいひと」に優先権があるように思われるが、有給だろうが無給だろうが、仕事は仕事である。一度引き受けたからには責任をもって携わる、そして断られても憤慨しない。

だから、食べていくだけのお金さえあれば、将来白髪アタマのわたしがバンコクのスラムで日本語を教えるのも夢じゃないかもしれない。

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