デラシネの呟きの最近のブログ記事
テレビのドイツ語放送で、ヒトラーが自殺したあとのベルリンの証言をする老いたひとびとのインタビューを見た。何気なくチャンネルを回していてふと釘付けになり、二時間夕食も忘れて見入ってしまった。すでに自分自身がそれほど若くないことはわかっているが、「若くもない世代よりもっと古い」わたしの両親が生きた第二次世界大戦のことが、頭から離れない。
わたしの母が住む実家の隣、今は小さな木造モルタルのアパートになっている家は、わたしが小さいころはまだ戦前、と言うより大正後期に作られた小さな平屋だった。昭和五年に、母が生まれた家でもある。
畳の部屋がふたつ、引き戸の玄関の上りがまちと小さな台所だけ。戦前の典型的な庶民の家だったと思う。畳の部屋のひとつには、ゴザを貼った板が畳に似せかけて部屋の真ん中にあった。実を言うと、わたしはその一畳ほどの場所が死ぬほど怖かった。畳をぽんと上げるとそこには、真っ暗な洞穴が口を開けていたからだ。ひとが何人か入れるほどの場所がそこにはあったが、まだ幼かったわたしは、なぜそんな洞穴が家の真ん中にあるのか理解できず、その当時その家に住んでいた母の姉、わたしの二番目の伯母の夫に聞いた。
「防空壕だよ」
戦時には憲兵隊のかなり上の地位にいた伯父は、はき捨てるように答えた。「逃げる」や「隠れる」という言葉が死ぬほどきらいな伯父だった。
わたしの周りにいた同級生たちは、隣の二階建ての家(現在のわたしの実家)を見て「このアパートの一階に住んでいるの、それとも二階に住んでいるの?」と、わたしによく聞いたものだ。その当時、わたしの年の友達の中で持ち家のある両親はほとんどいなかったからだ。つまり、その時代にしてはかなり快適な境遇にいたのだと思うが、それでも戦時の匂いのある隣の家がいつも気になっていた。
ある程度本を自由に読めるほどの力がついたとき、わたしは初めて「大人の読む本」を手にとった。第二次世界大戦に関する本だ。
「聞け、わだつみの声」を読み、花森安治が創刊した「暮らしの手帖」から戦争中の暮らしの話を読み漁ったのもこのころだ。そして、二番目の怖さがやってきた。あまりにも戦時中の話にのめり込んだために、真夜中の物音に死ぬほど反応するようになってしまったのだった。それはいつも夜だった。遠くに聞こえる羽田空港に向かう飛行機のかすかな音で目が覚める。ごくまれにあるヘリコプターの音で、いきなり起き上がってしまう。それは実際に経験した爆撃直前の恐怖ではなく、本の行間から立ちのぼった死への可能性への恐怖であった。
そんなとき、いつもわたしの肩をたたき「オシッコに行ってきなさい」とうながしたのは母だった。トイレに行って帰ってきたわたしの頭を、自分も眠いであろうに長いこと優しく撫でていたのも、母だった。
母はわたしの姿を見て、もしかしたら自分が幼かったころ、恐怖に怯えて目が覚めたことを思い出していたのかもしれない。母の恐怖は、想像ではなかったのだから。
飛行機の轟音が聞こえるということは、その後の爆撃と目の前に広がる炎を意味していたし、戦時中夜中に目が覚めるということは、すぐに防空頭巾をかぶり床下の防空壕に入る素早さをうながす。母の生まれた家が焼けもせず残っていたのは、五十メートル先の中仙道から向こうが焼け野原のなってしまったことを思うと、奇跡に近いのだ。
母が戦時の話をすることはもうあまりないが、それでも時にほろりともれる言葉の端々に、幼かったときのわたしの恐怖を重ねてしまうことがある。
わたしは今オーストラリアに住んでいるので、もちろん第二次世界大戦に関して「日本軍の捕虜収容所で死んだオーストラリア人の祖父」や「日本軍と戦ってたくさんの友を失った伯父」の話を直接、または間接的に聞かなければならない機会を持つ。
わたしの教える子供たちの中にも、「わたしの曾お祖父さんは、日本人がダイキライって言ってた」と言う子がいる。そんなときわたしは、真っ暗で狭い防空壕の中で、防空頭巾をかぶってひたすら息を殺していた十二歳の女の子の話をするのだ。
「あなたたちと同じ年だったわたしの母、恐怖におびえて防空壕の中で震えていた十二歳の少女に、六十五年後『あんたなんか、日本人だからダイキライ』って言うことができる?」と。
わたしの母が住む実家の隣、今は小さな木造モルタルのアパートになっている家は、わたしが小さいころはまだ戦前、と言うより大正後期に作られた小さな平屋だった。昭和五年に、母が生まれた家でもある。
畳の部屋がふたつ、引き戸の玄関の上りがまちと小さな台所だけ。戦前の典型的な庶民の家だったと思う。畳の部屋のひとつには、ゴザを貼った板が畳に似せかけて部屋の真ん中にあった。実を言うと、わたしはその一畳ほどの場所が死ぬほど怖かった。畳をぽんと上げるとそこには、真っ暗な洞穴が口を開けていたからだ。ひとが何人か入れるほどの場所がそこにはあったが、まだ幼かったわたしは、なぜそんな洞穴が家の真ん中にあるのか理解できず、その当時その家に住んでいた母の姉、わたしの二番目の伯母の夫に聞いた。
「防空壕だよ」
戦時には憲兵隊のかなり上の地位にいた伯父は、はき捨てるように答えた。「逃げる」や「隠れる」という言葉が死ぬほどきらいな伯父だった。
わたしの周りにいた同級生たちは、隣の二階建ての家(現在のわたしの実家)を見て「このアパートの一階に住んでいるの、それとも二階に住んでいるの?」と、わたしによく聞いたものだ。その当時、わたしの年の友達の中で持ち家のある両親はほとんどいなかったからだ。つまり、その時代にしてはかなり快適な境遇にいたのだと思うが、それでも戦時の匂いのある隣の家がいつも気になっていた。
ある程度本を自由に読めるほどの力がついたとき、わたしは初めて「大人の読む本」を手にとった。第二次世界大戦に関する本だ。
「聞け、わだつみの声」を読み、花森安治が創刊した「暮らしの手帖」から戦争中の暮らしの話を読み漁ったのもこのころだ。そして、二番目の怖さがやってきた。あまりにも戦時中の話にのめり込んだために、真夜中の物音に死ぬほど反応するようになってしまったのだった。それはいつも夜だった。遠くに聞こえる羽田空港に向かう飛行機のかすかな音で目が覚める。ごくまれにあるヘリコプターの音で、いきなり起き上がってしまう。それは実際に経験した爆撃直前の恐怖ではなく、本の行間から立ちのぼった死への可能性への恐怖であった。
そんなとき、いつもわたしの肩をたたき「オシッコに行ってきなさい」とうながしたのは母だった。トイレに行って帰ってきたわたしの頭を、自分も眠いであろうに長いこと優しく撫でていたのも、母だった。
母はわたしの姿を見て、もしかしたら自分が幼かったころ、恐怖に怯えて目が覚めたことを思い出していたのかもしれない。母の恐怖は、想像ではなかったのだから。
飛行機の轟音が聞こえるということは、その後の爆撃と目の前に広がる炎を意味していたし、戦時中夜中に目が覚めるということは、すぐに防空頭巾をかぶり床下の防空壕に入る素早さをうながす。母の生まれた家が焼けもせず残っていたのは、五十メートル先の中仙道から向こうが焼け野原のなってしまったことを思うと、奇跡に近いのだ。
母が戦時の話をすることはもうあまりないが、それでも時にほろりともれる言葉の端々に、幼かったときのわたしの恐怖を重ねてしまうことがある。
わたしは今オーストラリアに住んでいるので、もちろん第二次世界大戦に関して「日本軍の捕虜収容所で死んだオーストラリア人の祖父」や「日本軍と戦ってたくさんの友を失った伯父」の話を直接、または間接的に聞かなければならない機会を持つ。
わたしの教える子供たちの中にも、「わたしの曾お祖父さんは、日本人がダイキライって言ってた」と言う子がいる。そんなときわたしは、真っ暗で狭い防空壕の中で、防空頭巾をかぶってひたすら息を殺していた十二歳の女の子の話をするのだ。
「あなたたちと同じ年だったわたしの母、恐怖におびえて防空壕の中で震えていた十二歳の少女に、六十五年後『あんたなんか、日本人だからダイキライ』って言うことができる?」と。
東京最後の晩、母と妹と一緒に近くの焼肉屋に行った。つい1週間ほど前に開店したところだから、何もかも清潔で新しい。まだ早い時間だったので、あまり客もいない。注文した品は十分とたたないうちに次々と運ばれてきた。「こちら、カルビと上ミノになりまーす」と元気よく言われて、「ほう、じゃあ今はまだ変身してないんだ」と呟いたわたしは、母に膝をつねられそうになる。妹は、鼻をもごもごとさせて笑いをこらえる。
そして、がび家三人の女たちは、ハタと気づいた。
男がいない。
実は、世の男性たちが「僕の趣味は、料理です」と堂々と言える時代に逆行するかのように、わたしと血の繋がった男たちは実の弟も含めて、料理がまったくできない。その、テーブルについたとたんに料理が次々と出てくるわ、ビールが注がれるわ、という生活に慣れたケシカラン男たちが唯一文句も言わずにするのが、焼肉やすき焼き、なべ類などのテーブルを囲んでつくる料理なのだ。これは、母方の親戚でも同じ。従兄弟たちは、わたしたちが箸を持って待ち構えている前で、このときとばかり甲斐甲斐しく「料理」する。その前の下ごしらえや食器など全て準備ができているのだから、当たり前だが(と、がび家の女たちは考える)。
それなのに、今回は頼みの綱の弟もいない。三人でちらちらと目を合わせているうちに、年齢順ではドン尻の妹が渋々とトングを取った。そして、わたしもこれまた渋々と手伝う。母は、決して手を出さない。出すのは、口だけだ。
「向こうの焼けてるから、取って。こっちからだと熱いよ」「火が出ちゃったじゃなーい。そこにある氷で消してよ」「あ、それもうひっくり返さないとダメ」
煙の出たテーブルを囲みながら、女たちはひっきりなしにカシマシイ。そして、誰もが「焼肉は、やっぱり男に黙って焼いてもらってゆっくり食べるのがイチバン」と心の中で毒づく。
久しぶりに、山手線に乗った。母は膝をかばって杖をついているので、ひとつだけ開いていたすみっこの席に座らせ、わたしは隣に立つ。母の席の隣に、ちょこんとこんなボックスが。「ランプがついているときはご使用いただけます。」
この表示には、一瞬「トイレかっ」とひっくり返りそうになった。そんな、まさか。
気を取り直して、今度は「この緑のボタンを押せば、簡易椅子が出てくるのかしら」と考えた。そして、やっと一駅分かかって気づいた。「これって、わたしの母がすでに座っているシートのこと?」
満員電車のときは、緑のランプが消えて立つ場所が増えるんだ。へえ。
たまにしか日本に戻らないと、驚くことが結構あるものだ。


