デラシネの呟きの最近のブログ記事
実家にチワワの子犬がやってきてから、はや1週間。
やはり心配で毎日のように電話をしているが、老いた母の「新しい相棒」は小さいながら元気がいいらしい。部屋の中を全速力で駆け回り、オモチャを噛んで振り回し、ケージに戻って水を飲み、また走り回る。
「アタシはもう大奥の奥女中のようにスリ足で歩いているのよう。あまりにも小さくて速いから、踏んづけちゃいそうでさ」と、母は「楽しそうに」ため息をつく。
有名なペットショップのチェーン店はアフターケアも徹底していて、数日置きに電話までしてくるらしい。母が「もう走り回っちゃって、すごい元気なんですよ」と言うと、「まだ人間の歳では3歳から4歳ですから、あまり疲れさせないように」だとさ。「人間のおヒイさまのようだねえ、まるで」と電話で二人で笑ってしまった。
水は湯ざまし、餌は「徹底的にふやかせた」ドライフードに様々な「ふりかけ」をちらして子犬用ミルクで混ぜたもの、だそうで、以前のシーズーだって血統書つきではあったが、これほど世話はかからなかった。すごいなあ、チワワって。
思い出せば、わたしが小学生のころ飼っていた雑種犬なんて、人間サマのご飯の残りものを食べていたんだった。だからと言って、決して栄養失調だったわけではなく、家族の一員として大切にされ、元気いっぱいペット生活を謳歌していた。狂犬病の予防注射はかかさなかったし、玄関の表札の下には区の登録票である「犬」のシールも数限りなく繋がって貼ってあった。わたしたちは自他ともに認める「動物ダイスキ」な家族で、家にペットがいることは物心ついたときから当然だった。
人間の食生活が豊かになるに従って、犬の食生活も「ペット産業の一環として」商売になると見直され、晩ごはんの残りものは捨てるべきであって、ペットの餌にはならなくなった。犬たちは、犬用に開発された様々なビタミンやら缶詰やらドライフードを口にするようになり、雨が降ったと言ってはレインコートを羽織って散歩し、定期的に動物病院を訪問し、うつ病になって抗うつ剤を提供される。犬と人間の関係も「一段下のイキモノ」ではなく、対等の関係になってきたのかもしれない。いい意味にせよ、悪い意味にせよ。
母にとっては、前のペットだったシーズーを飼い始めたときからだったと思う。猫は別として、それまでの犬は全て外の犬小屋で飼われていたが、この犬は座敷で育てられたからだ。皮膚が弱くて夏になるとブツブツができ、ソファから飛び降りて股関節を脱臼した。毛が長いから2ヶ月おきには美容院に行き、「アタシより美容院に行く回数が多い」と母に言わせた。2ヶ月以上カットに行かないと、顔の毛が伸びすぎてまるで「おたふく風邪にかかったお下げの女の子」みたいになってしまうからだ。母は自分の髪の毛を染めに行くのを忘れても、ゆうちゃんの美容院通いだけは忘れなかった。
かなり手のかかる犬だったが、それでも対等で大切な相棒だっと思う。
「今度のゆうちゃんはねえ、頭がものすごくよくて、トイレもほとんどシートでできるんだよ」と母は言う。前の犬はトイレのしつけに何ヶ月もかかったからだ。
だが、待てよ。「お母さん、何でまたゆうちゃんなの? 今度の犬は女の子でしょ?」
「ゆうちゃん」は本当は「裕次郎」というイサマシイ名前で、石原裕次郎のファンである母の命名だった。
「いいのよう。今度の名前はゆうこなんだからっ。もう登録もしちゃったよ」
へええ。「ゆうちゃん」と呼びたいがためにコジつけたとしか思えないが、ま、いいか。
やはり心配で毎日のように電話をしているが、老いた母の「新しい相棒」は小さいながら元気がいいらしい。部屋の中を全速力で駆け回り、オモチャを噛んで振り回し、ケージに戻って水を飲み、また走り回る。
「アタシはもう大奥の奥女中のようにスリ足で歩いているのよう。あまりにも小さくて速いから、踏んづけちゃいそうでさ」と、母は「楽しそうに」ため息をつく。
有名なペットショップのチェーン店はアフターケアも徹底していて、数日置きに電話までしてくるらしい。母が「もう走り回っちゃって、すごい元気なんですよ」と言うと、「まだ人間の歳では3歳から4歳ですから、あまり疲れさせないように」だとさ。「人間のおヒイさまのようだねえ、まるで」と電話で二人で笑ってしまった。
水は湯ざまし、餌は「徹底的にふやかせた」ドライフードに様々な「ふりかけ」をちらして子犬用ミルクで混ぜたもの、だそうで、以前のシーズーだって血統書つきではあったが、これほど世話はかからなかった。すごいなあ、チワワって。
思い出せば、わたしが小学生のころ飼っていた雑種犬なんて、人間サマのご飯の残りものを食べていたんだった。だからと言って、決して栄養失調だったわけではなく、家族の一員として大切にされ、元気いっぱいペット生活を謳歌していた。狂犬病の予防注射はかかさなかったし、玄関の表札の下には区の登録票である「犬」のシールも数限りなく繋がって貼ってあった。わたしたちは自他ともに認める「動物ダイスキ」な家族で、家にペットがいることは物心ついたときから当然だった。
人間の食生活が豊かになるに従って、犬の食生活も「ペット産業の一環として」商売になると見直され、晩ごはんの残りものは捨てるべきであって、ペットの餌にはならなくなった。犬たちは、犬用に開発された様々なビタミンやら缶詰やらドライフードを口にするようになり、雨が降ったと言ってはレインコートを羽織って散歩し、定期的に動物病院を訪問し、うつ病になって抗うつ剤を提供される。犬と人間の関係も「一段下のイキモノ」ではなく、対等の関係になってきたのかもしれない。いい意味にせよ、悪い意味にせよ。
母にとっては、前のペットだったシーズーを飼い始めたときからだったと思う。猫は別として、それまでの犬は全て外の犬小屋で飼われていたが、この犬は座敷で育てられたからだ。皮膚が弱くて夏になるとブツブツができ、ソファから飛び降りて股関節を脱臼した。毛が長いから2ヶ月おきには美容院に行き、「アタシより美容院に行く回数が多い」と母に言わせた。2ヶ月以上カットに行かないと、顔の毛が伸びすぎてまるで「おたふく風邪にかかったお下げの女の子」みたいになってしまうからだ。母は自分の髪の毛を染めに行くのを忘れても、ゆうちゃんの美容院通いだけは忘れなかった。
かなり手のかかる犬だったが、それでも対等で大切な相棒だっと思う。
「今度のゆうちゃんはねえ、頭がものすごくよくて、トイレもほとんどシートでできるんだよ」と母は言う。前の犬はトイレのしつけに何ヶ月もかかったからだ。
だが、待てよ。「お母さん、何でまたゆうちゃんなの? 今度の犬は女の子でしょ?」
「ゆうちゃん」は本当は「裕次郎」というイサマシイ名前で、石原裕次郎のファンである母の命名だった。
「いいのよう。今度の名前はゆうこなんだからっ。もう登録もしちゃったよ」
へええ。「ゆうちゃん」と呼びたいがためにコジつけたとしか思えないが、ま、いいか。
「さびしいのよう」と言って、電話口の母は泣いた。
母の愛犬シーズーは三年ほどかけて少しずつ弱っていき、今年2月満19歳という高齢で死んだ。目はほとんど見えなかったし、鼻も利かなかった。足腰は立てないほど弱っていたから、19年間使っていたボウルにあごを乗せ、四つ足を開いたまま亀のように餌を食べた。排泄も自分ではできないようで、おむつをあてていた。そして、アルツハイマーまで患い、昼も夜もかまわずいきなり鳴き出した。どこが痛いわけでもないから、母が抱くと安心しておとなしくなる。そんな生活を長いこと送っていたのだから、母の苦労は並大抵ではなかった。80に手が届こうという母の、自分も持病をかかえながらの「老犬介護」だ。「早く楽にしてやろうか」と思ったこともあった。そのたびに、「今まで、相棒として尽くしてくれたのに」と考え直した。
しかし、いざいなくなってみると、母はどうしていいかわからないほど淋しくなった。無理もない。父が亡くなったときに、たったひとりになった母を支えてくれたのは他ならぬゆうちゃんだったからだ。10年以上も「ふたり」だけで生きてきたのだ。
泣く母をなだめながら、「じゃあまた犬を買ってあげようか?」と言ってみる。
「ゆうちゃんじゃなきゃイヤ、え〜ん」
「また新しい子を子犬から育てる自信なんかないもん、ひっく」
だだっ子のように口をとがらせている母が目に見えるようだ。
今回の学期休み(冬休み)に、そんなこともあって1週間だけ東京に里帰りをした。前後に2日ずつバンコクの滞在をはさんで、「駆け足里帰り」だ。東京はちょうどお盆。大喜びの母と、何年ぶりかの墓参りも済ませた。夏に帰国したのはもうほとんど10年ぶりだが、冬のパースから駆け足でバンコクを通り過ぎ、東京に着いてみたら梅雨の名残で蒸すこと、蒸すこと。おまけにちょうど伯母は入院から退院へかけての時期で、面会の都合がつかず、こちらのほうは来年1月の帰国にあらためて計画することにした。
実家にいる間、里親探しのページで、かわいいキャバリエ・スパニエル(成犬)を見つけ、メールで打診してみる。買うよりは、引き取り手のいない成犬でもいいんじゃないか、と思った次第。結果はボツだった。「ひとり暮らしの80に手が届こうという方は、元気なこの子には無理ではないかと思います」とのことだった。オーストラリアでもそうだが、犬の里親になろうと思うと結構審議がキビシイ。かたや、ペットショップではそうした審議なしにその場で買えることを思うと、そのギャップにビックリする。
1週間しかいなかったので、その返事が来て母がガックリするまで見届けると、もう成田行きだ。
近くにあるペットショップのHPでどのような子犬がいるか調べて、「ちょっと行ってみたら」と教えておいて結局名残惜しくもバンコクに戻ってきた。
膝の弱い母のことを思って、今度はシーズーはやめた。元気だし、散歩が必要だからだ。それよりももう1サイズ小さいチワワはどうか、と一応母には言っておいた。
ところが、行ってみたらシーズーの男の子がいたらしい。どうしても欲しかったらしいが、母はいつものようにゲンキンだから、ここ3年ぐらいのゆうちゃんしか覚えていない。その前の10年以上毎日散歩に行っていたことをすっかり忘れてしまっているのだ。持ち上げるのさえ大変な7キロほどの体重も問題だ。「無理だよ」と言ったのに、今度はいっしょに見に行った妹まで「かわいくって、アタシが欲しいくらい」などと無責任なことをのたまう。ああ、このふたりは似ていたんだった、と天を仰ぐ。
バンコクからの電話で説得したら、結局「そうだねえ」ということで、もう一度ペットショップへ。三日ほど、わたしの妹といっしょに毎日通いつめて、チワワの女の子に決定した。色は淡いグレーで、先っぽが黒い。変な色だが、これは子犬だからであって、成長するに従って淡い茶色になっていく。フォーンと言われる色だ。わたしの飼っていたペキニーズがまったく同じだった。
手のひらにはいるくらい小さな子犬だ。成長してもせいぜい3キロ。これなら、母にも世話ができるしシーズーのように毎月美容院につれて行くこともない。長毛ではあるが、あまりにも小さいので台所の流しでシャンプーさえできる。家の中で遊ばせるだけで、散歩する必要もない。
今日手続きを済ませてきたそうで、もう母はウキウキとして電話をしてきた。引き取りは月曜日にして、これから子犬を迎える支度をするとはずんだ声だ。これなら、大丈夫。できれば一度子犬のうちに見てみたかったなあ、とわたしも思うが、こればかりは仕方がない。母さえ元気になってくれれば、と願うばかり。
母の愛犬シーズーは三年ほどかけて少しずつ弱っていき、今年2月満19歳という高齢で死んだ。目はほとんど見えなかったし、鼻も利かなかった。足腰は立てないほど弱っていたから、19年間使っていたボウルにあごを乗せ、四つ足を開いたまま亀のように餌を食べた。排泄も自分ではできないようで、おむつをあてていた。そして、アルツハイマーまで患い、昼も夜もかまわずいきなり鳴き出した。どこが痛いわけでもないから、母が抱くと安心しておとなしくなる。そんな生活を長いこと送っていたのだから、母の苦労は並大抵ではなかった。80に手が届こうという母の、自分も持病をかかえながらの「老犬介護」だ。「早く楽にしてやろうか」と思ったこともあった。そのたびに、「今まで、相棒として尽くしてくれたのに」と考え直した。
しかし、いざいなくなってみると、母はどうしていいかわからないほど淋しくなった。無理もない。父が亡くなったときに、たったひとりになった母を支えてくれたのは他ならぬゆうちゃんだったからだ。10年以上も「ふたり」だけで生きてきたのだ。
泣く母をなだめながら、「じゃあまた犬を買ってあげようか?」と言ってみる。
「ゆうちゃんじゃなきゃイヤ、え〜ん」
「また新しい子を子犬から育てる自信なんかないもん、ひっく」
だだっ子のように口をとがらせている母が目に見えるようだ。
今回の学期休み(冬休み)に、そんなこともあって1週間だけ東京に里帰りをした。前後に2日ずつバンコクの滞在をはさんで、「駆け足里帰り」だ。東京はちょうどお盆。大喜びの母と、何年ぶりかの墓参りも済ませた。夏に帰国したのはもうほとんど10年ぶりだが、冬のパースから駆け足でバンコクを通り過ぎ、東京に着いてみたら梅雨の名残で蒸すこと、蒸すこと。おまけにちょうど伯母は入院から退院へかけての時期で、面会の都合がつかず、こちらのほうは来年1月の帰国にあらためて計画することにした。
実家にいる間、里親探しのページで、かわいいキャバリエ・スパニエル(成犬)を見つけ、メールで打診してみる。買うよりは、引き取り手のいない成犬でもいいんじゃないか、と思った次第。結果はボツだった。「ひとり暮らしの80に手が届こうという方は、元気なこの子には無理ではないかと思います」とのことだった。オーストラリアでもそうだが、犬の里親になろうと思うと結構審議がキビシイ。かたや、ペットショップではそうした審議なしにその場で買えることを思うと、そのギャップにビックリする。
1週間しかいなかったので、その返事が来て母がガックリするまで見届けると、もう成田行きだ。
近くにあるペットショップのHPでどのような子犬がいるか調べて、「ちょっと行ってみたら」と教えておいて結局名残惜しくもバンコクに戻ってきた。
膝の弱い母のことを思って、今度はシーズーはやめた。元気だし、散歩が必要だからだ。それよりももう1サイズ小さいチワワはどうか、と一応母には言っておいた。
ところが、行ってみたらシーズーの男の子がいたらしい。どうしても欲しかったらしいが、母はいつものようにゲンキンだから、ここ3年ぐらいのゆうちゃんしか覚えていない。その前の10年以上毎日散歩に行っていたことをすっかり忘れてしまっているのだ。持ち上げるのさえ大変な7キロほどの体重も問題だ。「無理だよ」と言ったのに、今度はいっしょに見に行った妹まで「かわいくって、アタシが欲しいくらい」などと無責任なことをのたまう。ああ、このふたりは似ていたんだった、と天を仰ぐ。
バンコクからの電話で説得したら、結局「そうだねえ」ということで、もう一度ペットショップへ。三日ほど、わたしの妹といっしょに毎日通いつめて、チワワの女の子に決定した。色は淡いグレーで、先っぽが黒い。変な色だが、これは子犬だからであって、成長するに従って淡い茶色になっていく。フォーンと言われる色だ。わたしの飼っていたペキニーズがまったく同じだった。手のひらにはいるくらい小さな子犬だ。成長してもせいぜい3キロ。これなら、母にも世話ができるしシーズーのように毎月美容院につれて行くこともない。長毛ではあるが、あまりにも小さいので台所の流しでシャンプーさえできる。家の中で遊ばせるだけで、散歩する必要もない。
今日手続きを済ませてきたそうで、もう母はウキウキとして電話をしてきた。引き取りは月曜日にして、これから子犬を迎える支度をするとはずんだ声だ。これなら、大丈夫。できれば一度子犬のうちに見てみたかったなあ、とわたしも思うが、こればかりは仕方がない。母さえ元気になってくれれば、と願うばかり。
昨年11月末、ゆきちゃんは手術で右目を失った。以前から赤い血疣が時々目頭に出来ていて、街の獣医のところで簡単な手術をしてもらっていた。が、大学病院の精密検査の結果、癌とわかったのだ。その後の検査では、さらに目の後ろにも細かい癌細胞がかなりあったので、眼球摘出ということになった。猫のようにごく小さな頭では、眼球を残しての手術は不可能だという。早朝、ケージに入れたゆきちゃんを連れていって、看護士に渡したとき、じっとふたつの目でわたしを見つめている彼女の姿に涙が出た。
三日後、引き取りに行ったとき、以前の簡単な手術とはわけが違い、へなへなとわたしのほうが床にへたりそうになるほど、ご面相が変わっていた。毛は剃られ、おまけに内出血の後が大きく黒々と浮かんでいる。切開は右目の辺りから鼻にまで及んで、もちろん糸で縫われている。
しかし、うちに帰ってきても、全くものを食べない。何をやっても、である。水さえ飲まない。じっと隅に横になっているだけである。ゆきちゃんの大好きな鶏肉をやってみてもダメだ。病院に電話すると、流動食を与えなさい、と言う。さっそく病後の食事用の缶詰をもらってきて大きな注射器で与えたが、いやいやをして逃げる。それも、体力がないからよろよろと逃げる。食べてよ、と言いながら、また涙が出た。
涙声で獣医の携帯に電話をすると、「おかしいなあ。フツウの猫は、ウチに帰ればさっそく食べ始めるものなのに」と言う。入院していたときは、しかし口を使って食べていたわけではない。管を通して、直接胃に落としていたらしい。「手術では口や内臓には触っていないし、食道や鼻にもだ。ということは、正常な生活を送れるはずなんだけど」
その後もゆきちゃんは全く食らしきものを口にせず、3日後にはまた病院にあずけられた。脱水症状が出ていたのだ。次の日、検査中に鼻から大出血。鼻の下を切り開いて呼吸できるようにしたが、ほとんど危篤状態。ようやくそれを脱して数日間、ほかの部分の癌の可能性とやらのため、様々な検査をされていた。食事は、喉に開けられた穴から食道にチューブを挿入され、注射器でどろどろの流動食を流し込む、という方法だ。検査の結果は、全て良。大出血の原因は不明。
「うちに帰ったほうが、彼女も普段の食事に切り替えやすいと思うよ」という獣医の言葉に、首から太いチューブをぶらさげているゆきちゃんをうちに連れて帰った。今度は、鼻の脇から口にかけて、また縫ってある。大出血のときの処置だった。口の周りにはたくさんのカサブタ。
「本来なら食べられる状態なんだから、フツウの食事も試すように」
だから一応いつもの食事を置いておいたが、一切口をつけない。仕方なく6時間おきに流動食を用意する。水と混ぜたその病院食缶詰をザルで濃し、とろとろにしてから大きな注射器で80cc。それから抗生物質をもう少し小さい注射器で流し込む。最後は、チューブが詰まらないように、40ccの水をそうっと注入する。急に入れてはいけない、と言われているので、全て終わるまで20分はかかる。片手で注入しながら、ゆきちゃんを優しく撫でているので、彼女はとてもおとなしい。終わると喉のチューブにキャップをはめて、ゆきちゃんをテーブルからおろす。
この6時間おきというのは、結構大変だった。学校はすでに休みにはいっていたから好都合ではあったが、何しろ朝六時、正午、夜六時、夜十二時の4回だ。支度にも時間がかかるから、この当時2週間ほど、わたしの睡眠時間は5時間を切っていた。
うまい具合と言ってはなんだが、ちょうどタイ・バンコクの国際空港が政争の勢いで占拠されてしまったため、バンコク行きのフライトは1週間延期にした。だが、その延期した期日が近づいても、ゆきちゃんはまだ何も食べない。食べたいという気持ちはあってオネダリさえするのに、食べ物に口を近づけてから顔をそむける。おかしい。
ほとほと困って、実は虫眼鏡で彼女の顔をくまなく見てみた。まだ抜糸していないから、目は縫われたままだ。鼻のところの糸は抜糸の必要のないもの。そして、その下の口をくまなく眺めていたら、上唇に沿ってかなりたくさんのカサブタがまだ残っている。これじゃないのか、と気づいた。食べようとして口を動かせば、カサブタがつれる。それがいやで、口を開こうとしないんじゃないのか。
次の日、強引にアポをとって病院に連れていった。カサブタを取ってあげてください、と頼んだ。またついでに血液検査もした。そして、また前肢の静脈の部分で内出血だ。「これも、今度検査してみなくてはねえ」と言うが、当分もう検査しないでください、と頼んだ。やりすぎだ。さて、3時間たって迎えに行くと、抜糸がしてありカサブタはきれいに取ってもらっていたが、前肢二本とも内出血した部分にゴム製の包帯が巻かれている。ゆきちゃんの肢は長毛でふっくらとしているのだが、ぴったりした包帯のせいで、その部分だけやけに細い。おまけにマッサオな色の包帯だ。こりゃ、ひどい。なんだかもう、病院に行くたびに、彼女の姿は無残になっていく。
「2時間たったら、取ってもいいですよ。出血は止まっているから大事をとって2時間ってこと」と言われて、ほっとした。
家に戻って、またゆきちゃんの好物カンガルーの生肉とドライフードをあげてみる。そうしたら、いきなりちょんちょんとつまんだ。ほんの少しだったが、口をつけて自分で食べた。今度は嬉しくて涙が出たが、ゆきちゃんはそれほど感激しているわけでもなく、またすぐに隅のほうに行ってごろんと横になった。一日目は、たぶん50gぐらいか。食道への流動食はまだ続けていたが、日に日に自分で食べる量は多くなっていった。
そして、ついにいつもと同じ量を食べたときには、すでにわたしの出発は2日後にせまっていた。猫ホテルは予約したあるのだが、心配だった。で、しつこくもまた獣医に電話する。
「センセイ、わたしフライトをまた延期したほうがいいでしょうか」
「いや、その心配はないでしょう。今日来てくれれば、チューブをはずしますから」
はずしてもらったら、今度は首に5ミリほどの穴が黒々と開いている。
「センセイっ、穴まだひらいてますけどっ。いいんですか、このままで」
「時々、この消毒液をちょんちょんとコットンでつけとけば、大丈夫。絆創膏を貼っちゃうと、直りが遅いからね」
2日後、猫ホテルに連れて行った。事前に何度も電話をしておいたが、担当のオネエサンが飛んできた。
「わたしのプリンセスちゃんっ」
この猫ホテルは、正式には猫愛護団体が経営している非営利のホテルだ。宿泊料金は、ほかのところと同じぐらいとるけれど、個室でタタミ1畳ほどもあるし、世話も行き届いている。働いている人たちは全て「猫イノチ」のボランティア、「猫ッ可愛がり」も尋常じゃない。ダーリンだの、かわいこちゃんだの、マイラブだの。。。ゆきちゃんはここでは色々な名前で呼ばれているらしい。
「大丈夫よ、何かあったらわたしが車で大学病院まで連れていくから」
その言葉に安心して、全ての電話番号を書き付けたメモを渡した。わたしの友人が一応、責任を持って「もしも」の支払いを請け負ってくれるし、いざとなったら引き取って面倒も見ると約束もしてくれた。
それでも心配で、タイから、そして日本からも何回かインターネットからホテルに電話した。そのたびに、「よく食べてますよ」とか「毛がだいぶ伸びましたよ」と報告してくれて、やはりここにあずけてよかった、と安心したものだ。
一月にパースに帰ると、ゆきちゃんの目の周りの毛はふさふさと元に戻り、真ん中が少々くぼんでいるだけだった。12月当時はまだ腫れがひいていなかったため、盛り上がっていたのだ。皮をひいて縫い合わせてあるから、右の口端は手術時より下がったとはいえ、それでも上に向かって引きつれている。下唇にかぶさらないから、右の歯も少し見える。
片目だとバランスがとれなくないかなあ、と心配していたが、これも今ではどこへでもジャンプできることがわかってほっとした。テーブルの上ぐらいなら、昔のように一発でひらりと飛び乗れる。食欲もある。
時々、どうかすると左を上にして寝ていたりして、彼女の右目がないことを忘れてしまうが、ごろんと寝返りをうつと、やっぱり右側の少々美しくない半分が現れる。まじまじと見てしまうが、ゆきちゃんは「何だよう」という顔でわたしを片目でじっと見つめ返す。でもね、ゆきちゃんはやっぱりわたしのゆきちゃんなのだ。
ほかの人が見たら、たぶんびっくりするような顔になってしまったかもしれない。でも、癌は全て摘出できた。獣医の言ったように、これで彼女はまだまだ10年以上「猫生」を謳歌できるだろう。
そういえば、顔に関しても、獣医は大真面目な顔でこうつけ加えた。
「いや、彼女には見えませんからね。別に、気に病んだりなんかしませんよ。本人(本猫)が気にしてないんだから、いいじゃないですか」
そうだよねえ、ゆきちゃん。
先週、扁桃腺炎のためかかりつけのクリニックに行った。熱もあったが、何しろ待たされること、待たされること。予約時間の三十分も前に着いてしまったのもあって、一時間も待合室の固い椅子に座らされることになった。最初のうちは、隣の子供がどたどたと走り回り、その母親の注意する声が子供のより大きいとあって、眉間のシワが深く深くなりつつあったのだが、ようやく子供が診察室にはいってほっとしたからかもしれない。
寝てしまった。しかも、眉間のシワより深く。
肩をたたかれて「おお」と目が覚めたのだが、前の席に座っている人たちがじっとわたしを見ていた。実は、西洋ではこの「人前で寝る」ということが大変珍しいのだ。
毎年姉妹校に交換留学生を送っているが、帰ってきた彼女たちの話に必ず「電車で熟睡している日本人」に驚いたというエピソードがはさまる。もちろん、そうした写真もかなりたくさん撮っているらしい。
そういえば、老いも若きも、携帯電話をいじる以外は皆ほとんど目を閉じる。目を閉じているだけのひともいれば、もちろんコックリコックリと眠りこけるひともいる。だんだんと口がぽわんと開き、後ろの窓ガラスに頭をごつんとぶつけて、はっと目が覚めるひともいる。隣の人の肩にそろそろと頭をもたせかける迷惑なひともいる。「皆、疲れているんだなあ」、そして「なんて無防備なんだろう」と、一年に一度しか帰国しない半分ガイジンのわたしは思う。何のことはない、車窓の景色と前に座ったひとたちを見るのに飽きると、わたしだって目を閉じるんだけれど。
電車の中で安心して目を閉じられるのは、日本がほかの国々に比べるとまだまだ安全、ということを意味しているのかもしれない。
だから、RAKUDAITAの真伊さんが「フランスの電車で熟睡して、終点で声をかけられた」という話を読んで、あ、やっぱり日本人だねえ、とにやり。
寝てしまった。しかも、眉間のシワより深く。
肩をたたかれて「おお」と目が覚めたのだが、前の席に座っている人たちがじっとわたしを見ていた。実は、西洋ではこの「人前で寝る」ということが大変珍しいのだ。
毎年姉妹校に交換留学生を送っているが、帰ってきた彼女たちの話に必ず「電車で熟睡している日本人」に驚いたというエピソードがはさまる。もちろん、そうした写真もかなりたくさん撮っているらしい。
そういえば、老いも若きも、携帯電話をいじる以外は皆ほとんど目を閉じる。目を閉じているだけのひともいれば、もちろんコックリコックリと眠りこけるひともいる。だんだんと口がぽわんと開き、後ろの窓ガラスに頭をごつんとぶつけて、はっと目が覚めるひともいる。隣の人の肩にそろそろと頭をもたせかける迷惑なひともいる。「皆、疲れているんだなあ」、そして「なんて無防備なんだろう」と、一年に一度しか帰国しない半分ガイジンのわたしは思う。何のことはない、車窓の景色と前に座ったひとたちを見るのに飽きると、わたしだって目を閉じるんだけれど。
電車の中で安心して目を閉じられるのは、日本がほかの国々に比べるとまだまだ安全、ということを意味しているのかもしれない。
だから、RAKUDAITAの真伊さんが「フランスの電車で熟睡して、終点で声をかけられた」という話を読んで、あ、やっぱり日本人だねえ、とにやり。
彼女から携帯に電話がかかってきたとき、誰なのかわからなかった。震える涙声は早口だし、意味をとらえるのにとても長い時間がかかってしまった。そして、ようやく彼女が何を言っているのかわかって、初めて愕然とした。
トニーは、昨日の午後ハーレイダビッドソンに乗ってパースに向かっていた。そして、パースから南東38kmほどのアルバニー・ハイウェイ上で対向車と正面衝突し、即死したのだった。
彼女の携帯にメールが送られてきたのは、昨日午後三時。「今、途中の店でコーヒーを飲んでいるところ。パースから、また電話する」
朝になっても、電話はなかった。
警察に電話した彼女は、初めて事故のことを知ったのだった。パースから南へ400km、アルバニーに引っ越したのは今年の6月だ。まだ、住民票を移してはいなかったため、警察からの連絡が遅れていたらしい。トニーは、パースに住むバイク仲間とのツーリングを楽しむため、久しぶりにハーレイに乗り、引っ越してから初めてパースに戻る途中だった
「警察が原因を調査中」と新聞には出ているが、彼女の話では、どうやら追い越し中の車がトニーのいた対向車線に入って、事故を起こしたらしい。
見上げるほど背が高くて、灰色の髪がさらりと額にかかっていた。60を過ぎててもまだまだ若々しく、その楽しげな笑い声と乾いたイギリス風ユーモアが、わたしは大好きだった。トニーから電話がかかると、その少々鼻にかかった独特のアクセントですぐに彼だとわかった。
「暮れには、彼女を連れてイギリスに三ヶ月ぐらい戻ろうと思っているんだ」
彼女は退職した高校の歴史教師だ。やはりすでに60を越しているが、今まで一度もオーストラリアを出たことはない。
「初めてパスポートをとったから、うれしくって」という彼女から電話があったのは、先月のことだ。
「ヨーロッパをバイクで回るのもいいな」
「何言ってるのよ、冬じゃない。バイクなんて冗談じゃないわっ」
「じゃあ、安い車でもあっちで手に入れるか」
トニーもほかの部屋で電話をとっていたらしい。電話はいつのまにか三人のおしゃべりになっていた。
トニーに最後に会ったのは、彼らがアルバニーに引っ越す前、自宅の広い庭で開いたささやかな結婚パーティーだ。30人以上の招待客がいたが、わたしもほかの招待客もてっきり「さよならパーティー」かと思っていた。誰にも知らせていなかったらしい。どちらもすでに孫がいる年だ。離婚もしている。15年以上同棲のままだったが、引越しを機会に結婚することにしたのだった。今年の3月のことだ。
「何をしようが、こうやって突然終わってしまうものなんだ」
トニーを知る別の友人は、わたしが電話をとるやいなや、こう言った。
「これから起こること、葬式、花、様々なカードや涙。そんなものは、もうすでにトニーには全く関係のないことなんだ。彼は、終わってしまったんだから」「僕は葬式には行かないよ。みんなとトニーの思い出なんか語りたくない。ヤツの棺おけを前にして、みんなが泣くのなんか見たくないんだ」
わたしが何か言おうとしたら、「ごめんね」とすばやく言っていきなりプツンと電話を切ってしまった。
そして、わたしは書いている。何をしていいのかわからないから、こうして書いている。突然の死には、誰もがその痛みにどうやって耐えたらいいのかと途方に暮れる。
トニーは、昨日の午後ハーレイダビッドソンに乗ってパースに向かっていた。そして、パースから南東38kmほどのアルバニー・ハイウェイ上で対向車と正面衝突し、即死したのだった。
彼女の携帯にメールが送られてきたのは、昨日午後三時。「今、途中の店でコーヒーを飲んでいるところ。パースから、また電話する」
朝になっても、電話はなかった。
警察に電話した彼女は、初めて事故のことを知ったのだった。パースから南へ400km、アルバニーに引っ越したのは今年の6月だ。まだ、住民票を移してはいなかったため、警察からの連絡が遅れていたらしい。トニーは、パースに住むバイク仲間とのツーリングを楽しむため、久しぶりにハーレイに乗り、引っ越してから初めてパースに戻る途中だった
「警察が原因を調査中」と新聞には出ているが、彼女の話では、どうやら追い越し中の車がトニーのいた対向車線に入って、事故を起こしたらしい。
見上げるほど背が高くて、灰色の髪がさらりと額にかかっていた。60を過ぎててもまだまだ若々しく、その楽しげな笑い声と乾いたイギリス風ユーモアが、わたしは大好きだった。トニーから電話がかかると、その少々鼻にかかった独特のアクセントですぐに彼だとわかった。
「暮れには、彼女を連れてイギリスに三ヶ月ぐらい戻ろうと思っているんだ」
彼女は退職した高校の歴史教師だ。やはりすでに60を越しているが、今まで一度もオーストラリアを出たことはない。
「初めてパスポートをとったから、うれしくって」という彼女から電話があったのは、先月のことだ。
「ヨーロッパをバイクで回るのもいいな」
「何言ってるのよ、冬じゃない。バイクなんて冗談じゃないわっ」
「じゃあ、安い車でもあっちで手に入れるか」
トニーもほかの部屋で電話をとっていたらしい。電話はいつのまにか三人のおしゃべりになっていた。
トニーに最後に会ったのは、彼らがアルバニーに引っ越す前、自宅の広い庭で開いたささやかな結婚パーティーだ。30人以上の招待客がいたが、わたしもほかの招待客もてっきり「さよならパーティー」かと思っていた。誰にも知らせていなかったらしい。どちらもすでに孫がいる年だ。離婚もしている。15年以上同棲のままだったが、引越しを機会に結婚することにしたのだった。今年の3月のことだ。
「何をしようが、こうやって突然終わってしまうものなんだ」
トニーを知る別の友人は、わたしが電話をとるやいなや、こう言った。
「これから起こること、葬式、花、様々なカードや涙。そんなものは、もうすでにトニーには全く関係のないことなんだ。彼は、終わってしまったんだから」「僕は葬式には行かないよ。みんなとトニーの思い出なんか語りたくない。ヤツの棺おけを前にして、みんなが泣くのなんか見たくないんだ」
わたしが何か言おうとしたら、「ごめんね」とすばやく言っていきなりプツンと電話を切ってしまった。
そして、わたしは書いている。何をしていいのかわからないから、こうして書いている。突然の死には、誰もがその痛みにどうやって耐えたらいいのかと途方に暮れる。


