懐かしい母のカレーライス

妹が母の介護のため正社員の職を辞した。
フルタイムの夕方からの仕事をしながら、昼間は母の病院へ付き添い、毎晩夕食をつくってから出社し、週末は母を風呂に入れ、ケアマネージャーと話し合い、様々な手続きと書類を提出し、睡眠時間は毎日5時間を切っていた。わたしはずっと彼女の身体のほうが心配だった。

そんな妹がよくつくっていたのがカレーライスだ。これなら、温めるだけで母も食べることができる。

先日も「カレーライスをつくったよ」と電話(Facetime)で話し、そう言えば和風のカレーなんてここ何年も食べていなかったな、と気づいた。本格的なインド料理店には足を運ぶが、和風カレーはちょっと違うのだ。

母も昔はよくカレーをつくった。乱切りの玉ねぎ、ジャガイモ、ニンジンに、角切りの豚肉。バーモントカレーの板チョコのようなブロックを、少しずつ折りながら最後に加える。わたしが東京に住んでいた10代のころは、まだそうしたインスタントカレーのCMもテレビではさかんに見られた。いつごろから、そうしたCMが全く出なくなってしまったのだろう。

さっそくアジア食品店でバーモントカレーを見つけ、中辛を買い求めた。

ひとくち口に含むと、懐かしい味が広がる。中辛だというのに、激辛タイ料理やインド料理に慣れた今のわたしの口には、甘くて優しい。
ご飯はカレーに使うバスマティ米ではなく、いつも食べている自作五穀のカリフォルニア米。日本のカレーにはこちらのほうが似合う。

母がよくつくってくれたもので覚えているのは、このカレーライスと豆腐入りの豚肉生姜焼き、そしてハンバーグ。とっておきのご馳走はちらし寿司かあんまり甘くない稲荷ずし。子供のときの母の料理は今でもよく覚えていて、そうだ、あのころは母とわたしたち姉弟4人で食卓を囲むことが多かったっけ。亡き父はあのころ毎晩遅くまで仕事か、または飲んで帰ってきていた。

母はもう今では指があまりよく動かなくなってしまい、料理は電子レンジで何か温めるぐらいしかできない。昨日食べたものも忘れることが多くなった。でも昔のことはハッキリと覚えているので、次の1時帰国では「お母さん、今日はお稲荷さんにしようよ。分量を教えてくれれば、わたしがお母さんの味でつくるから」と言ってみよう。

もうひとくちカレーを口に運んだら、昔の食卓とわたしたちに背を向けてカレーをつくっている母の姿がはっきりと目の前に浮かんだ。懐かしさで手が止まってしまった。

母はあと5日で88歳になる。

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カートを押す母にタクシーは止まるか

わたしの母は85歳になった。

もちろん85年間も使ってきた身体は「修理」をすることも多くなり、今では弱い膝と腰のせいで何となく前かがみの姿勢だ。外出には折りたたみの椅子にもなるカートを押している。カートがなければほとんど歩けない。杖ではバランスが悪くてほとんど進めないのだ。

そんな母の交通手段はタクシーだ。段差の多い地下鉄やバスにはもう乗れない。
病院に定期的に行かなければならないので、タクシーは行き帰りにはかかせない。

今日は昔からの整形外科で痛む膝に注射を打ってもらう日だが、「いつものことだから付き添わなくてもいいからね」と言うので、タクシーを呼んでひとりで行かせた。

ところが、何時間も帰って来ない。心配になってきたところようやく電話があり「どうしたのよ」と訊くと「タクシーが来ないし、来ても止まってくれないのよ」と言う。「行きはよいよい、帰りはこわい」だ。その小さな病院にはタクシー乗り場もなく、外に出て大通りで流しのタクシーを拾わなければならない。
その後やっと止まってくれたタクシーの運転手はとても親切で、カートをトランクに入れてくれたりと色々世話を焼いてくれたらしい。ほっとした。

「運転手さん、どうして他の運転手さんたちは止まってくれないんでしょうね。わたしがカートを押すオバアサンだからでしょうかね」
「いや、年には関係ないけれど、このごろではお年寄りが増えて、どこに行くにもタクシーに乗るでしょう。ほとんど基本料金の距離で、しかも降りてカートを載せたり降ろしたりしなくちゃならないんで、めんどくさいってひともいるんでしょうね」

その話を聞いて「回送だったとか、ひとが乗っていたってことだってあるでしょ」と笑って言ったら、今度は「いくらオバアサンだからって、そのぐらいは読めるし見える」と怒りだしたので、黙ってしまった。

日陰だったとはいえ、30度以上の4車線道路の隅で20分もタクシーを待っていた母。そして、カートにちょこんと座って「空車」のサインを見るたびに必死で手を振る母。そんな母を無視するタクシーだけとは思いたくないし、わたしだって親切な運転手に遭遇することは多い。

手軽にタクシーを使うお年寄りがこれからも増え続けることを考えると、この年齢限定の乗車拒否が「巷の常識」にならないことを願うばかりだ。

 

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「介護」という名の新しい生き方

母が「要介護1」と認定を受けた。
今まで「要支援2」だったので、ひとつランクが上になったわけだ。介護保険被保険者証が新しくなり、デイサービスの内容も広範囲に渡る。それが喜べないのは、結局母が衰え始めたということだからだ。

そして、わたしは海外住まいで、日本の高齢者福祉については何も知らない初心者だ。今回、こうして介護休暇をとって母の世話をしつつ生活しているが、勝手の違う「日本の」家の家事だけではなく「介護」に関しても新しく学ぶことが多い。

母は普段は「独居高齢者」なので、居宅サービスが受けられる。
そのために、先週に引き続き、今週は4人ものひとたちが実家を訪問し、すでに設置してあった様々な手すりの他に、新たにもう3つの手すり、そして風呂場の浴槽グリップ、浴槽内と浴槽外に置くそれぞれ形の違ったいすなどについて話し合った。福祉用有料借与か1割負担の購入かは、器具によって違う。
こうした介護支援器具は、見積もりを出してもらい、デモ用の器具を使ってみて具合を試し、最終的に自治体から許可をもらって設置となる。

例えば、手すりをつけてもらえる「入口」はひとつだ。勝手口と玄関両方につけたくても、許可はおりない。「両方使わなければならない理由」が必要とされる。

そういう話が延々と続き、母はもうそれだけで疲れてしまい、椅子に座ってため息をつく。だから、ほとんどの話はわたしが代わって手続きをし、母には夜になってから少しずつ説明した。

そして次の日、診察で手術後の傷口の化膿が発覚し、母は再入院。青天の霹靂。

そんなわけで、いまだ入院中の母のために、毎日病院に行き、洗濯物を持って帰り、家事をし、犬の世話をし、電話をかけ、銀行に走り、自治体に行き、書類を書き、母が動きやすいように自宅の「ありすぎるモノ」を片づけ、そして介護支援事務所からの訪問にも応対しなければならなくなった。介護とはそんな「設定」のためのマネージメントでもあると、初めてわかった。母は身体機能が衰えてきただけではなく、そうした身の回りの管理も難しくなっているのだった。

「でも、いいですよ。家族がこれだけ心配して遠くから来れるのだし」とスタッフのHさんは言う。彼女が訪問する独居高齢者たちには、家族と疎遠になりもう数十年も電話さえないひとたちも多い。そんな高齢者たちには入院の際の保証人さえいない。
「時々、病院から保証人になってくれと頼まれるんですが、そんな責任を負うことは介護サービスの事業所としてはできないんです」

そうした居宅サービスを受ける独居高齢者が増えているにもかかわらず、介護講習を終了した若いひとたちはそのほとんどがデイサービスに勤める道を選ぶという。
「居宅高齢者サービスは9時から5時までの仕事ではないし、、毎日ひとりひとりの家を回らなければならないし、あまり興味が持てないんでしょうねえ」とHさんはため息をつく。「だから、このごろではアシスタントとしてどこの介護サービスでも何人か外国人がいますよ」

外国人アシスタントは、実際の介護講習で認定を受けたスタッフではない。まだ日本語も片言のひとが多く、大半は補助的な仕事を担うそうだ。母の通う病院でも何人かいると、Hさんは言う。そうでもしなければひとが足りない。サービスを願う高齢者は増えているのに、実際の介護スタッフは減っている。

「でも、わたしはこの仕事に生きがいを感じているんですよ。実はわたしも家には非介護者がいるんです。主人の母ですけど。88歳で要介護5。つまり、もう腰から下は全く動きません。居宅サービスも受けているし、受けられないときはわたしが介護の責任者ですよ」

国のケア施設に入居するためには、要介護5の認定が必要だ。そして、それでも待つ。Hさんの場合も複数の施設に願書を提出しているが、すでに3年どこからも音沙汰がない。
わたしの伯母は認知症を患っていて現在特別養育施設にいるが、ネットで確認しただけでもその施設に入居するためには280人待ちという数字が出ている。

有料ホームはどんどん新しくつくられているし、彼女の事業所にもパンフレットが来る。が、2000万円近い入居費と月40−60万円を払い続けられるひとがそれほど多いとは思えない、とわたしたちは顔を見合わせてため息をついた。

「わたしが介護を受けなければならない年齢になるころには、さらに独居高齢者が増えて、さらに介護者が少なくなりますよね。年金は下がり、介護費は上がるんですから、もうどうやって生活していけるのか、考えたら怖くなります。明日は我が身、どころか明日の状況は悪くなりそうですから」

Hさんはそんなふうに言って、時計を見て「あら、話し込んじゃった」と照れ笑いをし、次の老人の家へと颯爽を自転車を走らせて行った。