情けは人のためにならないのか

夕暮れの街を走っていて、遠くにパースの高層ビルが見えているのを写真に撮ってみた。パースは東京と違い、まだ空が大きい。

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「情は人の為ならず」ということわざがある。

現代では間違って使われていることが多く、文化庁の調査では実に75%以上のひとたちが「ひとに情けをかけることは、結局そのひとのためにはならない」という意味で使っているという。実際の意味は「ひとに情けをかければ、結局は巡り巡って自分のためになる」で、全く違う場面で示さなければならないことわざだ。

元々は仏教の教えで、「善因善果・悪因悪果・自因自果」という因果の道理から来ている。結果には必ず原因があるし、原因が「善」ならば善い結果となり、「悪」ならば悪い結果になるのは当然、自分の結果(=未来)は自分のしてきた行為がつくりあげたもの、というのが因果の道理である。

ことわざには時に全世界共通の言い回しで、言語が違えど同じ意味を持つものがかなりある。

英語では普通「A kindness is never lost」だの「Charity brings its own reward」だのというが、最近では「Pay forward」というのが同じような意味で使われているような気がする。「Pay forward」は文字通り「先払い」の意味だが、つまり「親切の先払い」として、例えば持ち帰りの珈琲を買ったときにホームレス用の「珈琲貯金」にコインをひとつ入れたりする。そうすると、店のひとが近くに来たホームレスのひとに「Pay forwardの珈琲があるから、飲んで行きなよ」と言うわけだ。

パースではPay It Forward Perthという団体がフェイスブックのページを作っていて、そこでは様々なひとたちが主旨に賛同して見知らぬ人たちへの支援とプレゼントを勧めている。壊れたコンピューターを修理して、買えないひとたちにプレゼントするひともいれば、子どもたちに絵本をあげるひとたちもいる。ちょっとしたお菓子を作って見知らぬ老人へのささやかなプレゼントとするひとたちもいる。

親切は巡り巡って何かの拍子に思いがけないところから自分に戻ってくるという、優しさの先払いとそこにこめられた希望。コミュニティー、社会共同体としてのあるべき姿をそこに見てはいけないだろうか。

日本ではこのごろ「自己責任」という言葉が横行し、ベビーカーの母親や高齢者に舌打ちをし、それどころか助けを必要としているのに見ないふりをするひとがいる。「ひとに情けをかけることもない」となったということか。それなら、「情けは人の為ならず」を全く反対の意味に解釈するひとが増えたのも当然かもしれない。

今の世相を暗示しているようで、わたしにはとても笑えないのだった。

あ、あのひとは日本人かも…

日本を出てからすでにン十年たってしまった。
その間に日本人かどうか見分けるのはかなり上手になった。そりゃたまには間違えるが、わたしが遭遇する日本人は下記のいくつかを身につけていることが多い。

膝を曲げたまま歩く。
前回、正月に帰国して思ったのだが、若い世代のひとたちはずいぶん背が高くなり、足も長くなった。そして、たとえ正月でも着物を着るひとが少なくなった。それなのに、「下駄・つっかけ歩き」がいまだに多い。膝を曲げたまま、靴を引きずってスタスタと歩く。または、ミニスカートにハイヒールで、すらりとしたお嬢さんの足が「くの字」に曲がったまま歩を進める。下駄や草履を履かなくなって久しいのに、とても不思議なことのひとつだ。

服装が地味できちんとしている。または、極端なほど派手な格好をしている。
日本人の服装は清潔で嫌味がなく、きちんとしていることが多い。かなり地味なので、一度見ただけでは思い出せないほどに。しかし、最近ではこのタイプが崩れ始めた。付けマツゲまでつけて、肌を露出した娼婦並みの服装のお嬢さんたちが出現したからだ。目を逸らせたくなるほど派手だ。ところが、話し始めると子どもっぽい。仕草はまるで幼稚園児だ。このギャップにとまどうのはわたしだけではない。

煙草を吸う。
世界的に嫌煙の風潮が渦巻くなか、日本人にはまだまだ喫煙家が多い。空港の小さな喫煙室でモクモクとやるひとは、半分以上が日本人だ。いや、わたしも長年煙草を吸っていたので、気持ちはわかる。ただし、外国に行ったら「喫煙できる場所のほうが少ない」と知るべし。オーストラリアでは、パブもバーもレストランの中庭テラス席も禁煙だし、17歳以下の未成年者のいる車中で吸うと、罰金を取られる州もある。

笑うときに口に手を当てる。
これも、タモトを口に当てていた前世紀の名残りなのだろうか。それとも、出っ歯、ミソッ歯、金歯などの多かった大昔、それを隠そうとしていた名残りなのだろうか。いずれにせよ、現代白い歯がもてはやされていて、歯の矯正技術も進んだというのに、その綺麗な歯並びを隠すような仕草は、とても奇妙にうつる。笑うときは、ガハハと歯を見せようよ。

写真を撮るときにチョキを顔の横に貼り付ける。
日本の姉妹校に送った短期留学生は、初めて見るこのチョキに全員ビックリする。元々ピースマークが発祥だと思うが、そんなのは70年代だ。いまだに使っているのは日本ぐらいだと推測する。ただし、このチョキはかなり強烈なインパクトをオーストラリア人の10代の子に与えるらしく、帰国した生徒に日本滞在のときの写真を見せてもらうと、全員チョキにした手を顔の横に貼りつけている。それも全員。外国でもこのチョキはよく見るが、もちろん日本人観光客だ。習慣なのだろうかと思っていたら、なんと「小顔に見えるから」という理由なのだそうだ。でもグループ写真で全員やってしまったら、相対的に小顔に見えるなんて不可能ではないのか。

会話の最中に、うなずき続ける。
最近では、携帯の普及にともなって大声で話をするひとや電話で話しながらお辞儀をするひとも少なくなったが、面と向かっての会話ではやはりうなずきは日本語の一部だ。英語の挨拶でもちょいとうなずくひとがいるし、イエースと言いながらガクガクとうなずくひともいる。やはり第一言語の癖というものは残るのだなあ、と感心する。
ちなみに、英語や他言語を話すひとたちが押し黙って、相手を睨んでいるわけではない。うなずく代わりに、「あは」だの「うふ」というあいづちを打つ。まあ、日本人のうなずきは「イタリア人の派手なジェスチャー」のように国民的特徴としてうつるだけだ。

会話の最中に、イエスが多い。
これは先ほどの「あは」と「うふ」に通じるのだが、「Yes」は実は日本語の「はい」ではない。日本語の「はい」にはふたつの意味がある。「肯定」と「相づち」だ。英語の「Yes」は最初の「肯定」だけである。「相づち」の意味がないということは、会話で実際にイエスを「相づち」のように頻繁に使うと、「聞いているよ!」というやや嫌味な感じになる。こちらのひとたちは、日本人が「あは」と「うふ」の意味で使っているのを知らないのだから当然だ。そして、「了解した」という意味にとられることもあるので、商談のときにも気を付けなければならない言葉だ。

とは言うものの、わたしだって日本に帰れば(というより日本語を話すときには)ひとの言うことにガクガクとうなずくし、「はい」を連発する。しないのは、アヒル歩きと喫煙と「チョキマーク貼付け」かもしれないなあ。

あ、もうひとつあった。
オーストラリアで日本人教師たちと会うと、やっぱりお辞儀をして別れている。こういうのを見た同胞たちは、「ああ、あれゼッタイ日本人だよ。お辞儀してらあ」と思っているんでしょうな。