ヨーク:バイクの騒音と破産したホテルと歴史的ゴシップの町

ヨーク(York)はパースからだと約97km離れている。スワン川沿岸にコロニーができてから2年後の1831年に入植が始まった内陸部では一番古い町だ。エイボン川の周りの地形が故郷イギリスのヨークに似ていることから、この名がついた。
先のトゥージェイと同じようにやはり刑務所があり、軽い刑の囚人たちがここで農業に携わっていたらしい。

エイボン川は町の中心地を流れている。この川の先はスワン川に合流してパースにたどり着いているのだ。

ヨークの町は今まで見てきたトゥージェイやノーサムとは違い、やはりもう少し観光に力を入れている。iPhoneにダウンロードできるアプリまであり、観光地・史跡の写真をクリックすると音声解説がついている。これはとても便利。

食事はヨークで一番古いホテルのパブ・レストランにした。1873年創業だそうで、なるほど古めかしい建物で天井が高い。…が中に入れば普通のパブでメニューもよくある「パブめし」だ。サイダー(リンゴから作った発泡酒で、ビールと同じぐらいのアルコール量)のドラフトがあったので、それとハンバーガーを注文した。サイダーは悪くなかったが、ハンバーガーはパンがフワフワで食べ始めたらボロボロこぼれる安物、中のハンバーグもつなぎが多すぎて肉を噛んでいる気がしないしろものだった。ビールを混ぜた小麦粉をはたいて揚げたポテトは美味しかったけれど。これで20ドルは高い。観光客料金だなあ。

トイレに行こうと席を立ったが、奥には沢山のドアがありどれがどれだかわからない。さらに奥に行くと、ピンボール台に寄りかかってカップルがものすごいラブシーンを展開していた。ひゃあ、と思ったが、きびすを返す前に、女性のほうがキスしていた男性を首筋に追いやり「トイレだったらソコよ」と指差してくれた。男性のほうはそのまま首筋に唇を這わせ、手は胸へ。なんで家に帰ってからやらないんだ。

さて、パブの周りだけではなく、メイン道路には爆音を響かせた大きなバイクが尋常ではない台数で行ったり来たり。なんだ、何があるんだろうと思ったら、次の日(4月2日日曜日)に「チャリティー・ライド」というイベントがあり、そのためにバイカーたちが皆集合してきているらしい。

広大なオーストラリアには僻地への「空飛ぶ医者」サービスがある。その資金を募るための寄付イベントで、自分のバイクを見せたりひとのバイクを見たりのショーがあり、野外ミュージックがあり、外には屋台が出たり、かなり楽しそうだ。しかしこれだけ大きなバイクが集まると圧巻ではある(そして騒音がスゴイ)。

まずはインフォメーションセンターのあるタウンホールへ。

ここでアプリの説明とどこに行けるか教えてもらい、外に出た。ほとんどの博物館やギャラリーは3時で閉まってしまう。時計を見たらすでに2時近い。ぶらぶらと歩くぐらいで終わってしまいそうだ。

まずはそのタウンホールの向かいにあるホテルから。2014年まで営業していたそうだが、赤字が続いて破産宣告。長いこと続いていたヨークのジャズフェスティバルのキャンセルが観光にもこのホテルにも響いたらしい。1880年代から営業していた古いホテルで、豪華に改装されたにもかかわらず最後にはパブにも日に15人ほどの客しか集まらなかった。Saleの文字が悲しい。

中を覗いてみると、まだパブのカウンターもそのまま残っていた。

インフォメーションセンターのスタッフによると、「一応百万ドル(約9千万円)で売りたいらしいけれど、80万ドルまで下げるらしいですよ」とのことだが、それでも買い手がつかないらしい。パース中心地のマンションでも百万ドルするところが続々と建てられているのに。内陸部の田舎の町で、しかも毎年の目玉だったジャズフェスティバルがキャンセルになってしまっては、もうどうしようもないということか。

しかし、そのままメイン道を歩いているとポツポツと借り手を探す店もあり、これは何とかしないとヨークはこのまま観光地としてはさびれてしまうのではないか。歴史的な建造物もそのまま残っているのに惜しい。

ひと通り見たが、バイクの爆音ばかりが行き交うのでどうにもうるさく、そのまま車で中心部から外れた「レジデンシー博物館」に向かった。

「Residency Museum」はその名の通り長くヨーク群の治安判事邸だった家で、現在ではヨーク一帯の歴史、生活、住民などの資料館兼博物館となっている。実はここがかなり面白い。

博物館と言っても個人邸宅を改造しているので、ひとつひとつの部屋は小さい。

ヨーク地元の有名人というのもいたようで、それがまた歴史的ゴシップ談として興味深い。

例えばアイルランドの貧民救済施設からオーストラリアに送られた19歳の貧しい女性。服役囚たちはもちろん男性ばかりなので、その花嫁候補としてこうした女性たちも送られていたらしい。彼女もそうした服役囚のひとりと結婚したが、その後夫はまたも羊を盗むという罪を犯し、今度は牢獄に繋がれる身となった。その間途方に暮れた彼女を助けたのは夫の友人だった男性だった。結局比較的裕福だった彼と一緒に住み始め、同棲ながら6人の子供をつくり、そのままヨークで一生を終えたという。彼女はカソリック、夫の友人はプロテスタントだった。宗教の違いも彼女が頑として再婚に首を縦に振らなかった理由で、後々まで語られることとなった。

また、移民としてヨークに移り住んだある中国人兄弟。名前もあるが「お兄さん」と「弟さん」として知られていた。野菜の栽培で生計をたてていたが、その後彼らが102歳と95歳になったとき、ヨーク市民の寄付で中国に一時帰国できることになった。上海近くの小さな村だったが、凱旋の模様は新聞でも伝えられ、中国では一躍有名人として脚光を浴びることになった。
弟のほうは2年後に他界したが、兄のほうは114歳という高齢で1986年に亡くなったという。

中国人と同じくヨーク周辺に移り住んだのは1920年代ヨーロッパ・アルバニアからの移民だ。最初は中国人の野菜栽培を手伝う形で生計をたてていたが、その後は独立した野菜栽培でパースへの供給を引き受けるようになり、戦後には中国系を凌駕して実にヨーク群の70%を占めるまでになった。

説明の写真や看板や家具、そして衣装などを見ていると、その時代の人びとの暮らしがうかがえてかなりおもしろかった。

奥の部屋に行くと、そこはキッチンで色々な台所用具が置いてある。
これは物々しく頑丈な鉄製脱水機。

これは19世紀後半から使われていたという木製洗濯機…だがどうやって使うのかわからず、持ち上げて中を見てみたかったが重すぎて持ち上がらず。

でも、誰でも疑問に思うのは同じとみえて、後からきた男性客が持ち上げていたところをパチリ。

ははあ…水と洗剤と衣料を入れてフタを閉め、取っ手を前後に動かすと中でこの円盤が回転して洗うということか。しかし、毎回この重い木製のフタを開けたり閉めたりするのは重労働だ。

もうひとつ、わたしの目を引いたのはこのバター撹拌機。まるで福引のガラガラのような風情だが、1920年製で酪農農家で実際に使われていたものだ。

こんなふうに手回しで、週に12キロから15キロというものすごい量のバターを作っていたというのだから驚く。

最後の部屋には大量の19世紀末風のドレスやスーツや帽子があった。これは訪問者が着て、昔の雰囲気で写真を撮るための部屋だ。着てみたかったがもうすぐ閉館時間だ。取りあえず花が沢山ついた麦わら帽子とそれに合うドレスを当ててみた。見たひと誰もが笑う一品に仕上がったが、どう考えても全然似合っていないのでボカしておいた。しかし残念。もっと色々試してみたい衣装が沢山あったのに。

管理人の中年女性はおしゃべりで(というよりガラーンとした博物館で退屈していたのかもしれないが)気さくに色々と教えてくれたが、実は地元のひとではない。バッセルトンの出身だということで「あら、わたしは2週間前に1日ドライブであちらに行ってきたんですよ」と言ったら、とても喜んでもっとおしゃべりになった。
「バッセルトンは観光客が多すぎてうるさくて」というのが10年前に移住してきた理由らしいが、わたしにしたらバッセルトン自体がすでにひなびた田舎町なので、こういうひとはパースには絶対に住みたくないだろうなあと思った。

さて3時半までという閉館時間ぎりぎりに博物館を出ると、もうあとは一直線にパースへ。まだ午後の日差しが強く、180度に広がる青空は圧巻だ。

途中で羊の群れがいたので写真を撮ろうと近づいたら、1頭だけ群れから離れていた羊に不審そうにじっと睨まれてしまった。

その辺りからどうもキナ臭い…と思ったら、すでに煙が見え始めた。左のほうで小さなブッシュファイヤーが起こっているらしい。ただし警報看板も何も出ていなかったので、そのまま進んだらすぐに煙は後方に消え去った。キナ臭さだけがしばらく車の中にこもっていたが。

ヨークからこの先はMundaring State Forestという州管轄の森林地帯になる。つまりこんな感じの森林ばかりが午後の日差しをさえぎり、ちょっと退屈な時間が1時間以上も続いた。

パースの近郊に入るとさすがにまた家並みが増え始め、夕方の強い逆光を浴びてパースの高層ビルの影が目の前に現れた。

今回の小さな旅は西オーストラリア州の内陸部の小さな町探検、田舎の普通の町の普通の人間たちの歴史と暮らしが垣間見られて楽しい1日となった。

 

トゥージェイ:西オーストラリア入植の歴史と小麦ベルト地帯

Toodyay(トゥージェイ)には以前にも行ったことがある。
実は、愛猫あいちゃんが生まれたブリーダーの家があるのだ。わたしが無知だったせいもあるが、こんなひどいブリーダーに当ってしまったのは災難だった。それでも一度家に迎えた子猫はわたしの家族だ。ましてや「あの」ブリーダーだったらあいちゃんはたぶんそれほど長く生きてはいなかっただろうと思うと、まあ、これは運命だったのだと思うことにしている。もらったばかりのころ(2011年2月)の話は「あいちゃんねる」に詳しい。

さて、当時はかわいいあいちゃんを見に一直線にそのブリーダーの家に向かっていたのでトゥージェイの町や史跡などには目もくれなかった。もう少し足を伸ばせばYork(ヨーク)という西オーストラリア内陸部で初めてイギリス人の入植地となった歴史的な町がある。

そんなわけで、今回の小さなドライブ旅行は内陸部に向かうことにした。

トゥージェイはパースから東へ85km。車で約1時間の距離だ。
歴史は1836年の入植から始まり、今ではヨークと並ぶ史跡の多い小さな町である。

最初に来たのはNew Castle Geol Museum(ニューカッスル刑務所博物館)。ほんの少し町の中心部から離れているだけで、土曜日午前中の周辺はしーんと静まり返っている。車もひとも犬もいない。青い空だけがやたら美しい道沿いに車を停めて、中に入ると入場料は手のひらに載るほどの小さな鍵付き金庫だ。ずいぶん不用心だが、誰もこんな小銭を盗むひとなどいないのだろう。「大人3ドル」と書いてあるだけなので、二人分の5ドル札と1ドル硬貨を小さな穴に苦労して押し込んでから中庭を歩く。

ユーカリの花が美しい。牢の前ではイチジクがまだ固い実を風に揺らせていた。

ここは「何度も脱獄した囚人」として有名なムーンダイン・ジョーが「何度も囚人として収監されていた刑務所」でもある。Bushranger(ブッシュレンジャー、脱獄した流れ者の意)として実は本にもなっていて、現地ではお祭りでも彼の格好をした男たちが練り歩く有名人だ。

中庭に面して監房が並んでいる。
ここには重罪人はいなかった、と管理人が話してくれた。どちらかと言うと軽い犯罪で服役している囚人たちで、朝は町に町民の店や工場や農場に働きに出て、夜になると官房に戻るという生活をしていたらしい。前述のムーンダイン・ジョーも、イギリスでの窃盗(パン3斤、ベーコンひとつ、チーズひとつにその他もろもろキッチンの食べ物)の罪で10年の流刑、ここトゥージェイの刑務所に送られた。つまり、脱獄も比較的簡単だったとみえる。

殺人などの重罪人になると、フリーマントル刑務所に送られたという。フリーマントル刑務所のほうが、もちろん観光客の数も違うのでかなり充実しているが、こちらも州の指定文化財となったのでもう少し開発とリサーチが進んでほしいところだ。

博物館を出て町の中心部に入ると、それでもひとが少ない。パースから来ると車とひとの騒音がないメイン通りというのはとても珍しいのだ。

こちらはConor’s Mill(コナーズ・ミル)と呼ばれる製粉所だ。1853年に囚人として送られてきたダニエル・コナーズは、恩赦後しばらく行商人として働き、この土地を買って製粉所にし、事業を大きく拡大した。囚人から成功者へ。

中には製粉関係の機械が歴史順に並んでいて、どのように小麦を製粉していたのかがわかってとても興味深い。

トゥージェイ周辺は海に面したパースと違って内陸部のなだらかな丘陵もあり、西オーストラリアのWheat Belt(小麦生産地帯)に当たる。余談だが、西オーストラリアは小麦生産量では全オーストラリアの50%を占め、そのうち95%がアジアと中近東に輸出されている。日本で作られるウドン用小麦粉はそのほとんどがオーストラリアからの輸入で賄われているのだ。

雨量による違いはあるが、小麦は大半が雨の多い冬(南半球の冬は日本の夏に当たる)に育ち、小麦列車と呼ばれる鉄道でフリーマントル港に輸送される。
トゥージェイからの主要道は途中から線路と平行しているため、数えただけで40台もの貨車が延々と繋がって走っているのが見えた。壮観である。

遥か彼方まで続く線路は一本だけだ。客車と違って貨物車、それも一回の輸送で何千トンも運ぶので、それほど1日の本数があるわけではない。一本で十分なのだろう。

トゥージェイからヨークに続く道沿いには、巨大な製粉工場のサイロ(小麦倉庫)が並び、裏には線路が引かれていて直接パースに輸送できるようになっている。
CBHグループのこのサイロの大きさにビックリした。他にも色々な工場があるが、この会社のものは群を抜いている。ひとつのサイロだけで高さ36m、幅11m。それが15本だ。

2015年に完成したサイロ上に描かれた絵画は740リットルもの絵の具を必要とし、総計470時間かけて完成した。今では州道120号線のトゥージェイ、ノーサム間の名物ともなっている。

ヨークに行く途中、ノーサムという小さな町を通った。
なぜかここでは迂回道となっていきなり車の混雑が見られ、一体何が起きているのかと思ったら、どうやら小さなキットカー(キットで作る自家製スポーツカー)のラリーが行われるらしい。

正午になろうかという時間帯だったので、まだランチには早い。
予定にはなかったが、ちょっと立ち寄ってみようと迂回路に沿ってグルグル回ったあと、やっとのことでお目当ての広場近くに駐車した。

小さいけれど手入れの行き届いた車が何十台もあちこちに並んでいる。ラリーは午後からとのことでそれまでいる気はなかったけれど、様々な形のスポーツカーらしき小型車をぶらぶらと見ているのも楽しい。

広場には土曜日の朝市がたっていたが、ちょうど正午で終了らしく皆片付け始めていた。

アクセサリーや手芸品、庭用の植物の出店が多いのはどこも同じらしい。ただし、パースの市場に多い珈琲や軽食を売る店が全くない。もう片付けてしまったのか、または広場から1−2分のメイン通りに出て買うひとが多いからか。

もう少し町を見てみたかったが、ラリーのための迂回路が多すぎて土地勘のないわたしは右往左往。結局そのまま町を出てヨークに向かう。(続く)

バッセルトンへの日帰りドライブ旅行:Capel Valeワイナリー

夏休み(注:オーストラリアでは12月と1月)が終わって新学期が始まってから、まだ一度も遠出をしていない。「ちょっとお出かけ」というのはストレス解消にもってこいなのに、ここ2ヶ月どこにも出かけていないとは何ということだ。
とは言っても、ここはギネスブックにも載る「世界で一番孤立している都市パース」だ。つまりどこに行くにも遠い。2時間ぐらいならまあ大丈夫だろうと探してみたら、バッセルトン(Busselton)があった。ここには南半球で一番長い1.8キロという木製桟橋があり、その終点の海中観測所ではサンゴ礁も見られる。

決めた。

高速道路をパース近くだったら100キロでぶっ飛ばし、郊外になったら110キロにスピードを上げれば2時間半の道のり。日帰りで行けるぎりぎりの距離だと思う。

日曜日に早く起きることもないよね、と8時半まで寝坊し、珈琲を入れた魔法ビンを持って出発したのが9時半だった。
さて、どれだけパースの「外」が田舎かというと…車の前方はこんな感じ。

左を見てもこんな感じ。

サイドミラーで後ろを見てもこんな感じ。

つまり、真っ青な空と低木がぽつんぽつんと見えるだけの平坦な広野以外、何にもないのである。これがほとんど2時間半の間延々と続く。今日は日曜日だから比較的車もないが、平日だとロードトレインと呼ばれる全長10メートルにも及ぶ連結された列車のようなトラックが走っていることもある。

今回はバッセルトンだけではなく、以前行ったことのあるCapel Valeというワイナリーでランチを取った。2年前、マーガレット・リバーに行く途中に寄ったワイナリーだ。

ここのリースリングがふくよかなシトラスの味わいで美味しかったのを覚えていたので、また12本1ケースを購入。今回は会員登録もしたので20%引きだった。ランチはここのレストランの特色であるワインの種類にマッチしたメニューから、またリースリングマッチを選んだ。もちろん、リースリングも1本。ほんの少し変わっているのは海老が帆立貝になったこと。

以前と変わらず美味しいワインと食事なのだが、ローズマリークリスプと呼ばれる長いカリカリのスティックパイ。塩を間違えて入れたのではないかと思うくらい塩辛くて、とても食べられない。他のものが美味しいのに惜しい。一応スタッフには伝えておいたが、去年から新しいシェフが入ったらしく、味も変わってしまったのかもしれない。それにしてもこんな塩のかたまりのようなクリスプは、自分で食べてみればすぐわかるだろうに。

ワインを郵送してもらう手続きをして外に出ると、ワイン畑の上に低く雲が広がっていた。

駐車場に続く小径は花が咲き乱れていて、香りがさらりと鼻をくすぐる。

さて、ここからバッセルトンまでは30分ほど。ジェッティーのチンチン電車と海中観測所のパックはすでに予約してある。十分に時間の余裕をみてワイナリーを出発した。