ちいさな親切、大きなお世話?

時々雨交じりの風が吹いて、いや寒いのなんの。それでも気を取り直して出かけてはみたものの、普段はすいている美術館にわざわざ日曜日にはいりたくはない。

まあ、ちょっとだけ買い物をして帰るか、と駅の構内を抜けてショッピングアーケイドに向かったら、3人ほどの日本人の若いグループがお決まりのようにバックパックをしょって、電車のチケット販売機の前で話し込んでいる。何やら困っているらしい。
近づいて「どうしたの?」と聞くと、やはり買い方がわからないということ。どこまで行くのか聞いてから、これこれこうやって買うのよ、と教えてあげたら、もちろんぽんとチケットが現れ、つり銭も出てきた。
「やっだー、だから言ったじゃない。やっぱりこうすればよかったのよぅ。」「お前だって、こうこうしたからお金もどってきちゃったじゃんかよぅ。」
で、これまたお決まりのようにわたしの存在を完全に忘れている。「それじゃ、もう大丈夫ね」と言うと、「あ、どうもー」とひとりだけがわたしに向かってささっと答え、3人の大声でのおしゃべりに戻ってしまった。

だから、嫌なのだ。

わたしはオセッカイなので、どうも外国で困っている日本人を見かけると声をかけてしまう。そして、3人のうち2人までが、きちんとお礼の言葉を言わない。
「どうもありがとう」という言葉は、一体どこへ行ってしまったのか。「どうもー」はThank youではないし、言わないよりまし、という程度の価値しかない。「どうもすいません」のほうが、まだ可愛げがある。
毎度同じような不愉快な経験を今まで住んだ国々でしてきたから、今度こそ絶対助けてあげないからねっ、と固くココロに誓うのだが、またしてもやってしまった。
オセッカイは遺伝である。煙草は絶てたけれど、これは直らないのかもしれない。

気 を取り直して、ささっと作った夕食はこれ、Caperattiというまあラビオリを大きくしたようなパスタ。ドライトマトとチキンが詰まっているから、皮 を赤くしてあるらしい。昨日イタリア食品店で買った生パスタなので、さっとゆでてから、熱くしたオリーブオイル、にんにく、タラゴンと混ぜ、イタリアンパ セリを散らして出来上がり。サラダを添えて、ついでにワインを一杯くいっと飲む。いいね。

当たっちゃった

しつこく「宝くじ」のことに触れるのには、わけがある。
当たってしまっ たのだ。例のごとく4枚のロトシート(ということは4週間確認していない)を新聞を買ったついでに、売店でチェックしてもらったところ。。。。。「わわわ わわっ、当たっていますっ。当たっていますっ。おめでとうっっっ。いやー、おめでとうっっ」などと売店のおじさんに叫ばれ、いきなり心臓はどきどき、すわ ウン億円かっ、と思ったら、なんと約7000円だった。おじさんが当たった金額を言ったとたん、周りにいた今夜のロトを買いにきたひとびとは、「なんとな く」胸をなでおろしたような風情。そりゃあ、そんな簡単に1m鼻先で大金を当てて欲しくはないわな。
当たったことがなかったので知らなかったが、少ない賞金は売店で即払い戻しになる。新聞に雑誌を数冊、そして今夜のロトも買ったのに、レジからその分差し引いた金額を「もらえる」というのは、さすがにうれしくて笑みがこぼれる。
友人との遅い午後の珈琲のときに、そのことを言ったら「じゃあ、この珈琲はがびちゃんのおごりねっ。では、ケーキも食べちゃいましょう。」
言わなきゃよかった。
「そ う言えば、あなたそういうチマチマしたものは、よく当たるよねえ。去年教えていた学校の昼休みクジ引きでは、2回も当てたじゃない。チョコレートとシャン プーだったっけ?でもねえ、そうやって、あなた大きな運を逃しているのよねえ。10回チマチマ当たるより1回どかん、てのはなかったでしょ。」
言わなきゃよかった。

こ のところ、全く「教える」仕事のオファーがないというのも「運」と言ってしまえばそれまでだが、その分こうしてHPや日記を更新したり、プログラミングと 論文の準備がゆっくりできると思えば、気分は楽になる。チマチマした運に強いわたしは、こうしてほんの少し高いワイン(もちろん、これも当たりロトのせ い)で、ふんわりといい気持ちになる。

宝くじの見果てぬ夢

こちらでもロトなる宝くじは庶民の夢を煽り、毎週土曜日ともなると売店の店先では鉛筆を舐め舐め数字を埋めるひとでにぎわう。
えんえんと続く数字の羅列を選ぶという行為は、あのコワレモノを包むエアシートのぷちぷちをつぶすのにも似て、最後までつぶせず結局タオルのようにしぼってしまうわたしには、出来ない。したがって、買うのはいつもコンピュータではじき出された番号の並ぶシートである。
そ して、土曜日の夜ネットで当たり番号をチェックしたりもしない。月曜日にまた売店に持っていくと、シートをマシーンにつっこむだけで、当たりかはずれか確 認できるからだ。亡くなった父は、当選番号発表と同時に、新聞と自分の宝くじと交互ににらめっこするのが好きだったから、当然こんな夢のない確認方法は無 視しただろうが。
しかしその娘ともなると、それどころか何枚ものロト券を冷蔵庫にマグネットでとめたまま、一ヶ月に一度くらいまとめて売店に持っていくことも多い。

では何故わたしは、それでもロトを買うのか。だって、当たっているひとはそこら辺のフツウのひとびとなのだ。
先週の新聞では、70代の男性が普段は買わないのに「たまたま」買ったら当たってしまって、約6億円を手にした。その金で最初に買ったものは、新しいパジャマと中古の車。ああ。。。。欲のないひとだ。
実は、わたしが当選番号確認を怠るのは、毎回毎回あまり真剣にロトに夢を託すと、ほんとは当たらないんじゃないか、という言わば逆ジンクスを信じているからなのだ。ふん、当たらないよ、そんなのわかってんだから、とうそぶくほうが、当たりそうな気がするからでもある。
だ から、さも気にしてないよ、とのフリをさらに「生々しく」するために、もっと確実な貯金箱まで買ってしまった。オーストラリアの50セント硬貨は、まるで CD-ROMのように大きくしかも重いので、財布がとんでもなくふくらんでしまう。その硬貨をいつもじゃらじゃらと貯金箱に落とすわけだ。
大きな貯金箱は、今ではすでに片手では持ち上がらないほど重くなりつつある。