鍋で買いに行く豆腐

「なめこ汁を作ってあげるから、お豆腐を買ってらっしゃい」
そう言われて、なんとなく「えーと、鍋は」と考えている自分にふと気づいて笑ってしまった。

そう、大昔は豆腐はアルミ鍋で買いに行くものだった。
そして、鍋と小銭を握ってお勝手口からかけ出していくのは、わたしたち子供の役目だ。近所の豆腐屋に着くと、おじさんに声をかける。
「おじさん、木綿を一丁ね」「あいよ」
おじさんはそれはそれは大きな、中華包丁をもっと大きくしたような長方形の包丁を持ち、水を張ったステンレスの桶からまだ切っていない長い豆腐をふわりと持ち上げ、水の中で切ってくれる。そのまま鍋にそっと入れて水をかぶせる。冬の水槽は身を切るように冷たい水だったと思うが、おじさんの手は赤くならなかった。背の低い腰の曲がったひとだったが、腕の筋肉は盛り上がり、手は無骨でとても大きかった。ものすごく早起きで毎日ああやって腰を曲げて仕事をしているから曲がっちゃったのかも、と小さかったわたしは思っていた。

「あ、おじさん、生揚げもふたつ」
東京では、厚揚げとは言わない。生揚げだ。今では厚揚げというひとのほうが増えたようだが、わたしの母はいまだに生揚げと呼ぶ。そして、その年取った娘であるわたしも。
わら半紙と新聞紙で包んでくれるその豆腐屋の生揚げは、夕方に行くと揚げたてなのだ。大根おろしと醤油をさっとかけて食べると、それはそれは美味しかった。

おじさんはとうに亡くなり、店は流行りの弁当屋になり、今ではたぶんそこが豆腐屋だったことを覚えているひともあまりいないだろう。
そんなことを思いながら、そろそろ混んできた夕方のスーパーで明るい冷蔵品の棚に並ぶ様々な種類の豆腐を見て、途方に暮れた。木綿豆腐だけで、ゆうに10種類はある。そして「ああ、なめこ汁なんだから絹ごしじゃないか」と呟き、最初に目に入った「国産大豆絹ごし豆腐」と書いてあるプラスチックのパックをひとつ、プラスチックの籠に入れた。

 

鏡開きにあべかわ餅を食べる

今日1月11日は「鏡開き」だ。

私が10代のころはまだ父も母も若かったから、実家では毎年餅をついていた。伯父も伯母も従兄弟も来て、全員朝から忙しい日だ。「くんち餅」(29日)はいけないし、「一夜餅」もいけない。だから、うちでは毎年12月30日は1日中「餅つきの日」だった。
大釜で餅米を蒸し、のし板を用意し、あんころ餅用のあずきとおろし餅用の大根おろしもつくる。そして、蒸しあがった餅米を臼に開けたら、餅つきの始まりだ。リズミカルな母の掛け声に合わせて、父が杵を下ろす。杵が振り上がったら、母が水をつけた手で餅を返す。
「はいよー」「もう一丁」「よいしょー」「おっと」「はい、もういっこー」

できた餅をのし板に広げる。ひと臼は、あんころ餅とおろし餅用だ。もう一臼は、鏡餅用にとっておく。みんながあんころ餅をほうばるころには、縁側から居間にかけて全部で20ほどののし餅が広げてあった。

うちでついた餅は、防腐剤もなにも入っていなかったから、1月11日の鏡開きの日になると、鏡餅にはすでにヒビが入ってかなり硬くなっていた。こういう餅はトンカチでカチ割り、そのままでは硬くて焼けないので「あべかわ餅」になる。このきなこをふんだんにまぶした「あべかわ」はわたしの大好物だった。

餅はすでにもう20年以上前から、つかなくなっていた。それでも、餅つき器を使って母は餅をつくっていたが、わたしたちが実家を離れるころには母も市販のもので済ませるようになった。それに伴って、鏡餅も不自然に丸いスーパーで買う小さいものになった。

このごろの市販の餅は柔らかい。それは磯辺焼きをつくるときに顕著だ。つまりあのカリカリとした角がない。焼いてもなかなかパリパリの表面にはならない。そして、四角い餅は全てきちんとした長方形だし、その長方形の餅は角も真ん中もすべて柔らかく焼きあがる。柔らかいだけにすぐにぐんにゃりとしてしまうのは、どうもいけない。カビもつかないし、硬くなったものを水餅にする必要もない。プラスチックのパックになっている餅を取り出すたびに、便利になった代わりに、何かが確実に失われてしまったように思う。

杵も臼もそしてセイロやのし板も、わたしが産湯をつかったタライとともに物置に眠っている。いつか誰かが使うのだろうか。それとも、それはそのまま物置で朽ち果てていくのだろうか。

今日、母は昔と同じように、でもとてもゆっくりと鏡開きのあべかわ餅をつくる。
「ええっ、お母さん。もうお腹イッパイだよう。」
「いやいや、縁起ものだから。ひとつぐらい食べられるでしょ」
渋々と小さな皿を受け取ったが、柔らかく湯がいた餅とその懐かしいきな粉の香りについ箸をとった。

 

ウチの七草粥はすすれない

1月もすでに7日目となり、午前中ゆっくりと買い物に行った母が「七草パック」を買ってきた。
わたしたち兄弟が小さかったころは、何だか大根の薄切りとその葉っぱ、そしてセリの葉が入っていただけのような気がするが、それはあまり余裕のなかった5人家族の台所の「縁起モノ」だったからだろう。それから月日がたち、子供たちは全員家を出て、父が亡くなり、ひとりになった母は手軽な「七草パック」を買う。その小さなパックを使って、母は自分とわたしのためだけに七草粥をつくる。

で、その出来上がった粥を見て思わず笑ってしまった。
「お母さん、汁気が全然ないじゃないの。これじゃお粥じゃなくて、ちょっと柔らかめの御飯みたい」
「だって、ドロドロのお粥って好きじゃないんだもん」

そうだった。母が嫌々ながらも粥をつくるのは1年に1度、この「縁起モノ」の七草粥のときだけだった。

実は、わたしもドロドロ御飯(=おかゆ)はあまり好きじゃない。お茶漬けやオジヤは食べるが、薄く膜が張るような水っぽいお粥は自分でも決してつくらない。
食生活って遺伝するんだなあ、と改めて母の顔をまじまじと見てしまった。