さらば、胆石の日々 1

わたしは20年以上も前から胆石と一緒に生きてきた。
もちろん最初はごく小さなもので、医者も「ありますよ」ぐらいの言い方だった。それもいわゆるサイレントストーンで全く動かない。だから本人は自覚症状もなく、「そうですか」と応えただけだった。

『胆石』メルクマニュアル医学百科
『胆石』メルクマニュアル医学百科

それが段々と大きくなり「1.8cmですよ」と言われたのが10年ほど前。それでも自覚症状さえなかったので、医者も「ある、ということだけは気にしておいてくださいね」と言っただけだ。

ところが、それが変わったのが2年前。ちょうど正月の一時帰国をしていたときだった。東京の実家で飽食三昧をした晩、何だか背中が痛い。変な格好をして本を読んでいたからかな、ぐらいに思っていたのだが寝たらそれがひどくなった。どう寝返りを打っても痛い。とても寝られないほどの傷みで、治まったのは明け方だった。

そして、パースに帰ってからもう一度あった。今度もやはり脂汗をかくほどの痛みで、夜になってから救急病院に駆け込んだ。検査の結果、そのときにはもう痛みも治まっていたので「炎症もないから帰宅していいでしょう」とのこと。そして「もし今度吐き気までするようなときには、絶対に医者に行くこと」と念を押された。

最後にあったのは去年バンコクにいたときだ。これも夜中に激痛が始まり、とても我慢できないほどで救急病院へ。痛み止めを打たれて超音波診断、「炎症はまだ始まっていないようですが、手術で胆嚢摘出はいずれ必要です」と言われ帰宅した。

結局、3度とも胆石が「動いた」だけだったようで、激痛ではあったが治まると何事もなかったように普通の生活に戻った。ただし、その間にも軽い痛みのある晩は増えていたが、痛みさえ消えればあとは忘れている。パースの主治医にも「専門医に行くように」と委任状を渡されていたのだが、何となくそのままになっていた。わたしは、基本的に医者に行くのがダイキライなのである。母や妹は何かあるとすぐに医者に飛んで行くが、わたしはどうしても先へ先へと延ばしてしまう。

そして、それがもちろんよくなかった。

10月5日、バンコクで友達と久しぶりに焼き鳥を楽しんだあと、帰宅したら背中が痛くなってきた。ヤバイ。また胆石が動いたのか。背中から脇腹に移り、今度は胸の下の胃の辺りにまで痛みが広がってきた。我慢していたのだが、今度は吐き気だ。トイレに行って全部吐いてしまってから、これはちょっと以前と違うぞと思い夜中の2時に救急病院へ。痛みはこらえていても呻くほどだ。激痛と言ってもいい。超音波診断では今度は胆嚢が炎症を起こしている。どうも胆石が胆嚢から胆管への出口を塞いでいるらしい。
「これは緊急手術ですね。このまま痛みが続くのを我慢できるなら、パースに戻ってから手術をしてもかまいませんが」と言うが、強い鎮痛剤を血管に直接打ってもらってもまだ鈍い痛みが続いている。
「このままにしておいたら、炎症で膨張した胆嚢が破れるおそれもあります」

手術への恐怖もさることながら、バンコクからの出発の遅れ、来週からの授業への支障などを考えるともう頭がパンクしそうになったが、こうなったら腹をくくらずばなるまい。
「わかりました。手術してください…」

 

あ、あのひとは日本人かも…

日本を出てからすでにン十年たってしまった。
その間に日本人かどうか見分けるのはかなり上手になった。そりゃたまには間違えるが、わたしが遭遇する日本人は下記のいくつかを身につけていることが多い。

膝を曲げたまま歩く。
前回、正月に帰国して思ったのだが、若い世代のひとたちはずいぶん背が高くなり、足も長くなった。そして、たとえ正月でも着物を着るひとが少なくなった。それなのに、「下駄・つっかけ歩き」がいまだに多い。膝を曲げたまま、靴を引きずってスタスタと歩く。または、ミニスカートにハイヒールで、すらりとしたお嬢さんの足が「くの字」に曲がったまま歩を進める。下駄や草履を履かなくなって久しいのに、とても不思議なことのひとつだ。

服装が地味できちんとしている。または、極端なほど派手な格好をしている。
日本人の服装は清潔で嫌味がなく、きちんとしていることが多い。かなり地味なので、一度見ただけでは思い出せないほどに。しかし、最近ではこのタイプが崩れ始めた。付けマツゲまでつけて、肌を露出した娼婦並みの服装のお嬢さんたちが出現したからだ。目を逸らせたくなるほど派手だ。ところが、話し始めると子どもっぽい。仕草はまるで幼稚園児だ。このギャップにとまどうのはわたしだけではない。

煙草を吸う。
世界的に嫌煙の風潮が渦巻くなか、日本人にはまだまだ喫煙家が多い。空港の小さな喫煙室でモクモクとやるひとは、半分以上が日本人だ。いや、わたしも長年煙草を吸っていたので、気持ちはわかる。ただし、外国に行ったら「喫煙できる場所のほうが少ない」と知るべし。オーストラリアでは、パブもバーもレストランの中庭テラス席も禁煙だし、17歳以下の未成年者のいる車中で吸うと、罰金を取られる州もある。

笑うときに口に手を当てる。
これも、タモトを口に当てていた前世紀の名残りなのだろうか。それとも、出っ歯、ミソッ歯、金歯などの多かった大昔、それを隠そうとしていた名残りなのだろうか。いずれにせよ、現代白い歯がもてはやされていて、歯の矯正技術も進んだというのに、その綺麗な歯並びを隠すような仕草は、とても奇妙にうつる。笑うときは、ガハハと歯を見せようよ。

写真を撮るときにチョキを顔の横に貼り付ける。
日本の姉妹校に送った短期留学生は、初めて見るこのチョキに全員ビックリする。元々ピースマークが発祥だと思うが、そんなのは70年代だ。いまだに使っているのは日本ぐらいだと推測する。ただし、このチョキはかなり強烈なインパクトをオーストラリア人の10代の子に与えるらしく、帰国した生徒に日本滞在のときの写真を見せてもらうと、全員チョキにした手を顔の横に貼りつけている。それも全員。外国でもこのチョキはよく見るが、もちろん日本人観光客だ。習慣なのだろうかと思っていたら、なんと「小顔に見えるから」という理由なのだそうだ。でもグループ写真で全員やってしまったら、相対的に小顔に見えるなんて不可能ではないのか。

会話の最中に、うなずき続ける。
最近では、携帯の普及にともなって大声で話をするひとや電話で話しながらお辞儀をするひとも少なくなったが、面と向かっての会話ではやはりうなずきは日本語の一部だ。英語の挨拶でもちょいとうなずくひとがいるし、イエースと言いながらガクガクとうなずくひともいる。やはり第一言語の癖というものは残るのだなあ、と感心する。
ちなみに、英語や他言語を話すひとたちが押し黙って、相手を睨んでいるわけではない。うなずく代わりに、「あは」だの「うふ」というあいづちを打つ。まあ、日本人のうなずきは「イタリア人の派手なジェスチャー」のように国民的特徴としてうつるだけだ。

会話の最中に、イエスが多い。
これは先ほどの「あは」と「うふ」に通じるのだが、「Yes」は実は日本語の「はい」ではない。日本語の「はい」にはふたつの意味がある。「肯定」と「相づち」だ。英語の「Yes」は最初の「肯定」だけである。「相づち」の意味がないということは、会話で実際にイエスを「相づち」のように頻繁に使うと、「聞いているよ!」というやや嫌味な感じになる。こちらのひとたちは、日本人が「あは」と「うふ」の意味で使っているのを知らないのだから当然だ。そして、「了解した」という意味にとられることもあるので、商談のときにも気を付けなければならない言葉だ。

とは言うものの、わたしだって日本に帰れば(というより日本語を話すときには)ひとの言うことにガクガクとうなずくし、「はい」を連発する。しないのは、アヒル歩きと喫煙と「チョキマーク貼付け」かもしれないなあ。

あ、もうひとつあった。
オーストラリアで日本人教師たちと会うと、やっぱりお辞儀をして別れている。こういうのを見た同胞たちは、「ああ、あれゼッタイ日本人だよ。お辞儀してらあ」と思っているんでしょうな。

 

4件のコメント

友達のメンテナンス

冷蔵庫もエアコンもヒーターも車もメンテナンスが大切だ。

実は、人間関係だって同じかもしれない。バンコクで古い手紙類を整理していたら、最近、というより10年ほど疎遠になっている友人がかなりいることに気づいたのだ。わたしがオーストラリアに住むようになり、特にここのところ疎遠になっている友人たち。話し始めれば昔と同じく楽しい時間 が過ごせるし、以前は近い友人だったのを確認できるのだから、めんどくさがらずに「どうしてる?」コールかメールをしなければ…と思いながらはや数年。

このごろでは、そうした「元」友人たちがオーストラリアでも増え始めた。

学生だったころの友達や、最初の職についたころの友達。教職についているひとたちならば、それでも様々な場所でばったりということがあり旧交を暖めることもできるが、教育の場から去っていったひとたちとは、ほとんど交流がない。教育を学んでいたときには机を並べていたが、離婚して現在はイタリアで観光ガイドの仕事をしていたり、結婚して4人も子供を作って今は仕事をしていなかったり、あるいは自営の店を始めたひともいる。皆風の便りに聞いた話ばかりだ。

こんなに時間がたってしまって、すでにわたしのことなんか忘れているんじゃないだろうか。いきなり連絡して迷惑かもしれないし。などなど、言い訳を考え出せばキリがない。

ところが、去年わたしはあるひとから嬉しいメールをもらった。まだフランスにいたころのスイス人の友達だった。5年ほど前までクリスマスカードだけは交換していたが、それ以来何となく連絡が遠のいてしまった。日本への出張があり、当時フランスで仲が良かったひとたちと同窓会を開いて、わたしの話題が出たのだと言う。写真が添えられてあり、年をとってしまったけれど思い出の中の笑顔がそっくりその写真の笑顔と重なって、とても嬉しくなった。すぐに長いお礼のメールを書いて、他のひとたちのメールアドレスももらった。懐かしかった。

今度はわたしの番かもしれない。
連絡が途絶えてしまった国外の友達には、クリスマスカードを送ってみよう。そして、パースで何となく遠くなってしまった友達には、短いメールで近況を知らせてみよう。本当は、迷惑だなんて思うひとはいないはずだ。自分への言い訳で時間を無駄にせず、以前親しかったひとたちに小さな懐かしさを送ろう。

メンテナンスとまでは行かないけれど、わたしがちょっと驚いて嬉しかったことを他のひとたちにもこんなふうにおすそ分けしていけたらいいなと思っている。