多少の縁なきゃ袖も振り合わん国

学校の帰りにショッピングセンターに寄ったら、大学のときにツルんで遊んだ同級生に偶然バッタリと出会った。
ばっちいTシャツにばっちいジーンズ、髪は長めでピアスもしているひとだったが、いや何とネクタイなんかしめているではないか。
「私立男子校の教師だからねえ、厳しいんだ。今はまだ暑いからシャツにネクタイでも許されるけれど、冬は背広だぜー」と言っていたが、さっぱりしてしまって見違えるようだ。就職する場所によって、服装も変わるもの。
彼と鉢合わせしてビックリしたあと、「抱き合って再開を祝福した」(なんとオーバーな)のだが、ハグだけかなと思っていたら、フランス式に三回も頬をスリスリされてしまう。仏語圏ベルギー人だったのを忘れていた。
ここのところそうした挨拶を交わす機会がなかったので、頬を合わせ始めたときに「はて、何回すればいいんだろう」と相手の出方を伺ってしまった。
スイスドイツ語圏では、左右(または右左)の2回から始まり、フランス寄りになるに従って、左右左(または右左右)の3回、丁寧なひとは右左各2回ずつの4回だ。男性同士以外は全て、これだ。
オーストラリア人は親しいひとの間だけで、頬に一回チュッとキスする。ただし、頬へのキスは異性同士だけだ。女性同士、男性同士ならハグ(軽い抱擁)が一般的である。
これが東欧になると、がっしり肩をつかまれて右頬にぶちゅう、そして左頬にもぶちゅうとやられる。肩をつかまれているから、どんなにジュウシィなキスを受けても逃げられない。
反対にスイスでもフランス語圏の影響をかなり受けている「年配の婦人たち」は、白粉と口紅がつかないように、頬は触れるか触れないかの位置に留まる。ハタで見ていると、顔を背け合って右、左、右と優雅な体操をしているようで面白い。
わたしが一番慣れ親しんだ挨拶は、右左右のフランス式で頬と頬を触れ合わせる一般的なものだ。スイスに帰ると、友達の間ではほとんどこれである。女性同士もこの挨拶なので、何組かカップルが集まるときなどは、最初の5分ほど相手を次々と代えてキスと挨拶に専念しなければならない。
ところが、握手から始まってキスにいたるまで、知り合ったが最後必ずと言っていいほど「肌を触れ合う」西洋と違い、日本では知り合うまでは「肌を触れ合って」も気にしないのが習慣になっているらしい。
1月の帰国で久しぶりに繁華街の駅に行ったとき、週末で大変混んでいたのだが、プラットフォームで右から左からよくひとにぶつかられるのだ。そして、ぶつかられたわたしのほうが謝っていた。皆、そんなわたしを無視してせかせかと去っていく。
多少空いている電車の中でも、急いで降りるひとは周りのひとを押しのけて出て行くが、謝ることはない。
もっと混んだ電車は、すでにそんなことに慣れていないわたしにはマカ不思議な空間である。
周りが斜めに押し寄せてきて、自然にイモ洗い状態のまま電車に流し込まれる。全くのアカの他人同士だというのに、こんなにびったり身体ごとくっついて平気でいられるのは、「仕方ないね」の習慣なのか。そしてふと気づいたのだが、もしここにわたしの友達が一緒にいたら、わたしたちは1cmでも離れようと努力するのではないか。恋人同士でもないかぎり、満員電車で友達や親戚とこんなふうにくっついているのは耐え難いと思うのだ。

モールス信号はボーイスカウトの基本だった

パースに帰ってきたら、嘘のようにむくみがひいた。バンコクに滞在中、指輪も靴もはいらないほどむくんでいたので、風邪もさることながら「身体の調子が悪い」ような気がしていたのだ。これも、タイの気候のせいだったのか。

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「オトナ語」に四苦八苦したこともある

歯医者に行った帰り、ちょうどお腹もすいたので日本風ラーメン屋の暖簾をくぐる。タイ語なまりの「イラシャイマッセー」の声に送られてカウンターまで進み、近くにあった週刊ポストだかゲンダイだかをつかんで読み始めた。「紙に書かれた日本語の活字」には、いつも飢えているのだ。
糸井重里が、「オトナ語」がどうのこうのと対談をしている。
社会人たちが会社や取引先で極めて当たり前のように使う言い回しを、オトナ語と名づけたらしい。さっそくオフィスに戻ってからネットで検索してみると、「ほぼ日刊イトイ新聞」に詳しく載っていた。
「物理的にむずかしい」「実際問題、こうこうです」「そういった意味では」「xxするという方向で検討してみたいと。。。」「とりあえず一度かたちにして、それからですね」
何年か前日本でのビジネスがあったとき、わたしはその「オトナ語」に悩まされたことがある。
微妙な気遣いや含みのある言葉遣いは、日本で働いたことのないわたしには「漠然と理解」していても、実際には使うことができない。だから、クライアントであるスイス人社長がいる席での日本企業への通訳は、「わたしのほうこそ現代語訳のできる通訳をつけて欲しい」と思ったほど難しかった。
ましてや、旧態依然としたその製品業界の大会社には、「御用聞き」である仲立会社がコバンザメのようにびっしりくっついている。専門用語と独特の言い回しが、どんな会話にもふんだんにちりばめられた世界だったのだ。
わたしは日本語を流暢に話すし、姿カタチも完璧な日本人だ。ところが、ビジネスの言い回しに関しては新卒の紺スーツ以下である。そりゃあ、相手を立て、なんとか円満に自分の意思を伝え、また相手の意思も汲み、なんてことは、年の功と常識でどうにでもなる。だが、外来語の短縮形を混ぜた「含みのある」会話となると、もうお手上げだ。
わかったようなフリをしていたが、実際には「たぶん、こんなことを言っているんじゃないかなあ」と推測したことも多く、冷や汗をかいた覚えがある。
改めてこうして活字になったもの(本ではなくて、サイトに置かれた原型のことだが)を読むと、本人たちはマジメに使っているのだろうなと思われて、大笑いしてしまうほど可笑しい。
若いひとたちの言葉が乱れているなんて豪語しているが、社会人のオジサン、オバサンたちだって外には通じない言葉を無造作に使っているのだ。当たり前が当たり前でなく「面白い」と受け取られてしまう事実は、日本語をちょっと立ち止まって意識してみるのにちょうどいい。笑うことは身体にもいいし、ね。