がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

宝くじの見果てぬ夢

こちらでもロトなる宝くじは庶民の夢を煽り、毎週土曜日ともなると売店の店先では鉛筆を舐め舐め数字を埋めるひとでにぎわう。
えんえんと続く数字の羅列を選ぶという行為は、あのコワレモノを包むエアシートのぷちぷちをつぶすのにも似て、最後までつぶせず結局タオルのようにしぼってしまうわたしには、出来ない。したがって、買うのはいつもコンピュータではじき出された番号の並ぶシートである。
そ して、土曜日の夜ネットで当たり番号をチェックしたりもしない。月曜日にまた売店に持っていくと、シートをマシーンにつっこむだけで、当たりかはずれか確 認できるからだ。亡くなった父は、当選番号発表と同時に、新聞と自分の宝くじと交互ににらめっこするのが好きだったから、当然こんな夢のない確認方法は無 視しただろうが。
しかしその娘ともなると、それどころか何枚ものロト券を冷蔵庫にマグネットでとめたまま、一ヶ月に一度くらいまとめて売店に持っていくことも多い。

では何故わたしは、それでもロトを買うのか。だって、当たっているひとはそこら辺のフツウのひとびとなのだ。
先週の新聞では、70代の男性が普段は買わないのに「たまたま」買ったら当たってしまって、約6億円を手にした。その金で最初に買ったものは、新しいパジャマと中古の車。ああ。。。。欲のないひとだ。
実は、わたしが当選番号確認を怠るのは、毎回毎回あまり真剣にロトに夢を託すと、ほんとは当たらないんじゃないか、という言わば逆ジンクスを信じているからなのだ。ふん、当たらないよ、そんなのわかってんだから、とうそぶくほうが、当たりそうな気がするからでもある。
だ から、さも気にしてないよ、とのフリをさらに「生々しく」するために、もっと確実な貯金箱まで買ってしまった。オーストラリアの50セント硬貨は、まるで CD-ROMのように大きくしかも重いので、財布がとんでもなくふくらんでしまう。その硬貨をいつもじゃらじゃらと貯金箱に落とすわけだ。
大きな貯金箱は、今ではすでに片手では持ち上がらないほど重くなりつつある。

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