顔のうえの歴史を思う

ちょっと一息つきたいとき、このごろでは実家の近所の喫茶店に寄る。買い物帰りなど、ネギが突き出たエコバッグを片手にツッカケ履いて寄る店なので、気軽に美味しい珈琲が飲めるのは嬉しい。
余談だが、わたしのエコバッグはもちろんオーストラリアから持って来たものだ。丈夫なコットン製でマチが深く、底がしっかりしているので床に置くとそのまま立つスグレモノだ。しかも日本円にして150円ほど。日本のエコバッグは高いだけで、ふにゃふにゃして小さくて使いづらいことこの上ない。

さて、わたしはここで香りのよい珈琲を飲みながら、母が「がびちゃんのヘンな板」と呼ぶKindle Paperwhiteを読んでいる。時々、顔をあげて周りのひとをざっと見渡したり、外を眺めたり、実家に滞在しているとあまり独りで過ごすこともないので、1日1回は必要だと感じている時間だ。

ひとの顔を見るのは、趣味と言ってもいいかもしれない。
個人の生きてきた軌跡や性格は顔にも現れていて、特に中年を過ぎたあたりのひとたちの顔は興味深い。ため息をつくくちもとや、眉間に時々現れる縦皺、白髪の目立つ生え際、ゴツゴツとした鼻。そのひとつひとつから年輪を取り去り、下がった頬をあげ、額をふくよかにして、若いころはどんな顔だったかなと想像する。腰の曲がった高齢の女性が、尋常小学校のとき、もんぺ姿で勤労奉仕をしていたことを想像する。あちらでムズカシイ顔をして新聞を読んでいるお爺さんは、もしかしたら若いころは素晴らしくハンサムで、詰め襟の似合う学生さんだったかもしれない。

ひとは往々にして、たまに見る老人たちがまるで生まれたときから老人であったかのように錯覚してしまうが、彼らにも子供時代があり、恋愛経験があり、波瀾万丈か、または至って静かな結婚生活があったのである。心をときめかせたことも、幸福に泣きたくなったことも、悲しみに打ちひしがれたこともあっただろう。

そういうひとの歴史を想像してみるのは実に興味深い。時を忘れる。わたしの目の前で口をとんがらせて珈琲をすするお婆さんが、みるみるうちにまっすぐな黒髪になり、皺がなくなり、目が大きく開き、頬がバラ色になる。

逆の場合はそれほどおもしろくはない。つまり、若いひとたちを想像の中で30年ほど年取らせることだ。こちらのほうは、未知数が大きすぎて想像力が追いつかない。

そんなことを考えながら、珈琲を飲み終えて帰宅した。
「ただいま」と言ったら、若いときわたしにそっくりだったという老いた顔が「おかえり」と返した。

 

 

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