おすそ分けの煮物

母が病院に行った。膝にたまった水を取るために1ヶ月に1度通うが、その量が年とともに多くなってきた、とため息をつく。わたしも「困ったねえ」とため息をつく。

タクシーを使っているが2時間は帰ってこないので、「さて」と読みかけの本を開いたらお勝手のドアがほとほとと叩かれた。お隣のおばさんだ。いや、「おばさん」などではない。近所にはもっと年取っていて、わたしが子供のころから「おばさん」と呼ぶひとがまだ何人もいるので、わたしと10歳ほどしか違わない彼女は「おねえさん」である。

「あらっ、がびちゃん。また帰っていたの?」
しまった。まだ挨拶に行っていなかった。
「あ、2−3日前に帰ってきたんで…(と後を濁すが実は先週からすでに来ている)」
「まだ少しの間いるんでしょ?遊びに来てねっ」
「あ、もちろんですっ。ご挨拶にも行かないで…(とまた後を濁しながら持っていくお土産をすばやくアタマの中で整理している)」

「これ、ツマラナイものだけど、卯の花。今作ったばかりなんでお母さんと一緒に味見してね」
普段独り暮らしのわたしの母のために、おねえさんは時々こうしておすそ分けを作って持って来てくれるが、微笑んだ彼女の目は決して「ツマラナイもの」とは思っていないと語っている。

unohana

だって年季の入った彼女の煮物は本当に美味しいのだ。
もちろん煮物だけではなく、毎日の食事はほとんど全て手作りだ。一度手開きで頭と内臓を取っただけの小アジをじっくりと丸揚げにして持って来てくれたが、いや、あまりの美味しさにのけぞってしまった。絶対自分でも作るぞ、と固く決心してオーストラリアに戻ったが、アジ自体が冷凍の輸入モノしかないということに気づき挫折したのは去年のこと。

おねえさんは信州からお見合いで隣の「おにいさん」に嫁いだが、おしゃべりでクルクルとよく働きながらすでに孫までいるトシになった。おにいさんはそれでも酒が入るとおねえさんを褒めまくり、今でもゾッコン惚れていることをさらけ出す。彼の亡くなった父親はわたしの母のハトコに当たるので、実は遠い親戚でもある。

昔は母もよくこうしたおすそ分けをしたものだが、今では自分の食事がやっとという生活で、おねえさんが持ってきてくれる煮物は本当にありがたい。昔のように小鉢ではなくプラスチックの使い捨て容器を使うのは、洗ってまた何か入れて母が返しに来ないように気遣っているからだ。

今は隣に誰が住んでいるのか知らない生活が増えているだろう。周りに気を遣わない日々は快適だと思うが、東京の実家ではまだこうした近所のひととの繋がりが残っている。
卯の花はおねえさんの優しさと同じようにほんのりと温かく、なぜかほっとしてしまうのだった。

 

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