がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

スマトラ沖大地震・元旦のボランティア

みなさま、明けましておめでとうございます。

「かなりの混乱が予想されるので…」などと昨日書いたが、ドンムアン空港は、各国のボランティアが入り乱れてものすごい騒ぎである。
空港内どこでもフリーパスのカードをもらい、それをつけて到着ロビーにはいると、ほとんどのヨーロッパ各国がヘルプデスクを出して2−3人ずつのボランティアを置いている。プーケットからの飛行機が着くたびに、旗をかざして「xxx人は、こちらで登録してくださーい」と声をかける。とりあえず、プーケットから戻る自国民を登録しておけば、どこかから問い合わせが合った場合に確認ができる。そのためのヘルプデスクなのだが、国内線ロビーは狭い。そこに何十もの国のヘルプデスクがあるものだから、飛行機が着くたびに写真のような混雑になる。

すでに6日目なので、ヘルプデスクにやってくるのは、一緒にいた家族が行方不明だったために、プーケットにとどまっていたというひとたちが多い。

お隣のドイツ大使館デスクに現れた中年のドイツ人女性は、顔に細かな傷跡がたくさんあり、足にも包帯を巻いている。Tシャツの下はまだ水着だ。一番被害のひどかったカオ・ラック(プーケット近郊)のホテルにいたと言う。カオ・ラックの美しい海岸には、リゾートコテージ風のホテルが立ち並んでいたが、10kmに渡って徹底的に破壊されてしまった。死者が一番多いのも、この地域である。
津波が襲ったとき、彼女は読みかけの本をとりに戻る途中だったため、そのままホテルまで流されて急いで2階に駆け上がった。
「まるで、壁よ。水の壁。それも突然現れて何がなんだかわからなくなり、気がついたらホテル唯一の2階部分にあるコーヒーショップにいたわ」
彼女の夫は、すでに海岸にいた。そして、行方不明。幸い彼女自身は軽傷しか負っていなかったため、避難所から次々に病院を探し歩いた。4日目に骨の出るほど重症を負った夫を発見し、ドイツ大使館に連絡をとり、空軍機で直接ドイツへ搬送、それを見送ってから自分はバンコク行きの飛行機に乗ったと言う。
「ツアーだったのよ。23日に一緒に着いたのは、総勢20人。みんなで一緒に食事をしたり、遊びに行ったり、寝そべっておしゃべりをしたり、楽しかったわ。ほとんど見つかっていないのよ、みんな。もう2度と会えないかもしれないのね」
何か話さずにはいられないかのように淡々と言葉を進めるが、顔には表情が見られない。まだショックから立ち直っていないのだろう。しばらくして、ドイツ大使館のボランティアのひとりが付き添い、彼女を国際線ロビーまで送っていった。

津波後6日目なので、直接被害にあったひとたちはあまり到着しない。代わりに多くなってきたのが、行方不明の家族を探すひとたちだ。一応登録を済ませると、もう黙ってはいられないと見えて話し出す。いくつもの病院を回って、直接遺体をひとつずつチェックしなければならなかったこと。それでも、家族の消息を確認できなかったこと。または、偶然確認できたこと。声にふるえが走り、目に涙が浮かぶ。聞いているほうもつらくなる。やりきれなくなる。

そのうちにスウェーデン空軍のジャケットを着たグループが着く。医療チームだ。任務を終えて、あと2時間で着く自国からの空軍機に乗ってヨーロッパに戻るらしい。
混乱のうちに、2時のシフト交代で次のスイス人ボランティアが着き、わたしは帰宅の途についた。

明日はヘルプデスク最後の日らしい。それ以後は各大使館の連絡先だけが到着ロビーに残され、ボランティアのグループは解散となる。わたしは、明日も8時から2時まで国内線到着ロビーでスイス旗を振る。

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