がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

オセッカイ、再び

わたしはオセッカイである。

近所は、まあ、狭くてゴチャゴチャしていて否応なくほとんど子供のときから知っているひとたちばかりで、オセッカイは相互の助け合いと言ってもいい。独り暮らしの老母が何かあったときに世話になるのはこのひとたちなので、いつもありがたく思っているし、一時帰国の際は必ずお土産を持って行く。

それとは別に、街で何か困っているひとがいるとそのまま見ていられない。

先日、一時帰国中の東京で近所のスーパーに買い物に行ったとき、自分が使っていたカートに杖が挟まってしまい出口で難儀している高齢の男性がいた。わたしはそこから5メートルほど離れたレジで支払いを終わったばかりだったが、その中間にいる沢山の買い物客たちは皆無視して通りすぎて行く。イライラしながら籠をそばの台に置きっぱなしにし、急いで駆け寄って「あ、取りましょうね」と杖をカートから抜き取って渡し、カートを置き場に戻し、自分の籠に戻った。1分もたっていないと思う。あまりの素早さに男性はビックリして「あ」と言っただけだ。礼などいらない。

スカートのジッパーが開いている女性には、駆け寄って「ジッパー開いていますよ」と言ってすぐ離れた。本人が1番恥ずかしいのだから、いつまでもその場にいる必要はない。一度は公衆トイレから出た女性の靴にトイレットペーパーがくっついていたことがあって、それは後ろからこちらが踏んで取ってあげた。本人は気づいていなかったから返ってよかった。
横断歩道を渡ろうとしている盲目のひとには、自分の腕に手を置くかと訊く。「いえ、結構です」と言われればそのままだし、助けを必要としていれば手を置くだろう。

実は別に「いいことをした」と思っているわけではない。わたしだって何回かタイミングを逃して手を差し伸べなかったことがある。そうすると、無視した自分がイヤになり、あとでクヨクヨと悩むことになるのでやっているだけだ。後悔するくらいなら、オセッカイしたほうがまだいい。よけいなお世話と思われても、わたしがほっとするんだから許してほしい。

「オバサンだからできるんだろう」と思うひとがいるかもしれないが、これは遺伝だ。母もオセッカイで、小さいときから見ているからどうしても手が出てしまう。気になってしょうがない。自分も歩行器押しているくせに、口だけはまだ達者だから「あ、そこの赤いスカートのひとっ、何か落としましたよっ」と声を張り上げる。血が繋がっているんだなあと思うのは、こんなときだ。

補足。
わたしは時々自分のことを「オバサン」と称することがあるが、それはゴムのウエストのスカートしか履かないとか、顔が白塗りだとか、下着に金かけないとか、バッグはコットンとか、バーゲンでほかの人押しのけて5つぐらい取りあえず掴んで後から1つ選ぶとか、レジで順番無視するとか、という意味ではない。念のため。

 

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