仕事の鬼のマドレーヌ

バンコクに「里帰り」すると、待ってましたとばかりにたまった仕事をどっさり渡してくれる秘書がいます。

実は会社を興したときからいる古株で、実際の肩書きは総務マネージャーなのですが、細かいところに手の届く配慮と「雑用の手配」の上手さでは右に出るものがいません。特にわたしとパートナーの世話となると、2人いる若い秘書には任せておけないとばかりに動き回り、残業は家に持って帰って仕上げてくるという有難い存在なのです。
今回の里帰りは、体調がすぐれないこともあって、仕事というより「療養休暇」となってしまいましたが、文句ひとつ言わず短期入院の手配をしてくれたのも彼女です。
そんなある日、午後からオフィスに戻ってみると、小さなマドレーヌがふたつ、西からの日差しを受けて薄桃色に輝くカーテンの前に置いてあります。
そして、とんとんと軽くノックの音をさせて、彼女がそっとオフィスに入ってきました。「子供にせがまれていたんで、久しぶりに作ってみたんですけど。」何を隠そう、「仕事の鬼」の趣味はお菓子作りなのです。

「マドレーヌは柔らかいし、レモンの代わりにライムを使ってみたんで、さっぱりして食べやすいかもしれません。」普段はあまり仕事以外の話はしない彼女ですが、お菓子の話をするときはとても優しい顔になります。
勧められるままにマドレーヌを手にとると、甘いバターとほんのりと爽やかなライムが香り、焼きたての暖かいぬくもりが手のひらに伝わります。
ひとくち齧ったわたしの顔を見て、にっこりとうなずいた彼女が引っ込むと、やがて隣のオフィスからいつものようにとてつもなく速いタイプの音が響いてきました。

(初出:メルマガ「AVANCE!」 No. 132, 26/07/04)

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