父の十三回忌にそら豆を茹でる

初モノだの旬のモノだのが店頭に並び始めると、何だか嬉しくなってしまう。雨の多い冬だったパースが青空ばかりになってきた春は、特にウキウキするものだ。

現在はすでに初夏なので、新鮮なそら豆が行きつけのマーケットに出現した。これは見逃せない。ビニール袋にぱんぱんになるほど詰めてうちに帰り、さっそく大きなさやを剥きはじめた。ご存じのようにそら豆はほとんどがさやなので、剥いてしまったら悲しいほどカサが減る。大きめの椀に一杯、つまり量は1/3ほどになった。

こちらのサラダや煮物などに入っているそら豆は、実は薄皮を剥いていない。初めて見たときビックリしたが、白人たちは何事もなかったように皮ごと食べちゃっているではないか。そう言えば、彼らは葡萄の種さえガリガリと食べてしまう。巨峰のような大きな葡萄でさえ、皮ごと種ごと、だ。そういう習慣のなかったわたしが丁寧に取り除いて皿の隅にまとめていると、「なんだかウサギのフンみたいだよねえ、どうして吐き出すの?」といつも不思議そうに訊かれたものだ。あんな苦いものを一緒くたに食べてしまうほうがわたしには不思議だったのだが、たぶん「面倒くさい」という単純な理由なのだろうな、と思っていた。

さて、今回のそら豆は料理に使うわけではなく、ただシンプルに塩茹でにしただけだ。だから薄皮はつけたまま、食べるときに剥く。これが一番美味しいそら豆の食べ方だと昔から思っているし、気をつけないと食べ過ぎてしまいそうになるくらいだ。

亡父もそら豆が大好物だった。糖尿病で母が厳しい食事制限をしていたから、小鉢にちょこんといくつか入った塩茹でのそら豆を見ると、父の顔はいつもほころんだ。そして、自分の晩酌の分を食べてしまうと、家族の食事が始まる前に他の小鉢からそら豆をちょいとつまんでしまうことも多かった。わたしはいつも知らん顔をしていたが、父の子供のようにうそぶいている態度がおかしくて、ついにやにやしてしまったものだ。

茹であがったそら豆をざざっとザルにあけ、一握りほどを小鉢に盛る。まだほかほかと湯気をたてているそら豆の隅をかじり、そこからそら豆をにゅると舌の上に押し出す。こりゃあ、父のような酒飲みにはたまらない味だったろうなあ、と思い出しては白ワインをすする。

11月3日は父の命日。今年は旧暦で十三回忌にあたり、今日土曜日はその法事だ。
出席できない海外住まいの長女は、父の写真を見ながら供養のそら豆を食べている。

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