がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

眼鏡をかけて「知的」に

わたしは「ド近眼」である。
コンタクトレンズをつけていないときには、眼鏡はわたしにとって「アクセサリー」でも「小道具」でもなく、純粋に「必需品」であり、「外付けにされた体の一部」であると言ってもよいくらいだ。

だから、テレビや映画で眼鏡が安易に使われているのを見ると、いやーな気分になるのだ。

だいたい、二十代の見目麗しき男女がコンピューターに向かうときに眼鏡をかけたり、あるいは何かの研究をしているときにかけていた眼鏡をはずしてから誰かと話し出すというのは、実に不自然である。

近眼というのは、「遠く」が見えないのだ。だから、わたしが中学生のときに眼鏡をかけはじめたのはあくまでも黒板を見るためだった。そして本を読むのにも必要になってからは、もっぱらコンタクトレンズだ。これなら起きている間は不自由な視野から開放される。

近くのものを見るためにかける眼鏡は、読書用、俗に「老眼」と呼ばれる目のためのものだ。わたしも、長時間コンピューターに向かうときにはその種の眼鏡をかける。
そして、二十代の俳優がまさか読書用眼鏡を必要とするとは思えない。

じゃ あ、あのどのドラマにも出てくる不自然な場面は一体何なんだろう。学校の先生、研究者、有能なキャリアウーマン、医者などなど、小道具として眼鏡が使われ ないときはほとんどない。カキモノをしたり、知的作業をしたりするときだけ近眼用眼鏡をかけるという時代は、すでに過去のものだと思っていたのだが。
そして、その知的作業をするときにかけていた眼鏡を、彼らが車の運転の際にかけることもほとんどない。どうしても「軽い近眼」という設定を守りたいなら、車の運転には絶対必要だということを覚えておいたほうがいい。

まあ、どうひっくり返しても「知的」に見えない俳優を、せめてそれらしく見せるための知恵なのかもしれないが、それじゃ眼鏡をかけることが知的だと信じているらしい監督だか助監督だかの「知性」と「常識」も疑いたくなってしまう。

とにかく、実際に眼鏡を必要としているひとたちは、眼鏡をかけることが「カッコいい」とか「知的に見える」なーんて考えたこともないのが普通じゃないのかなあ。。

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