がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

休暇の考え方の違い

やることは沢山あるが、あえてやらずに日曜日の夕方まで残しておく。日曜日の西日が射してくるころになると、どうせじりじりとわたしのオシリにも火がつくのだ。

そんなわけで、今回の土曜日は買い物を済ませたあと何もしない。
嫌がるゆきちゃんにブラシをかけ、あとはゴロゴロとわたしも一緒に寝そべって本を読んでいただけである。

金曜日には4時半まで学校に残って月曜日の準備をしていたのだが、「ああ、休みがほしいっ」と同じく残っていた同僚教師が叫んだ。
教師は学生とともに休暇がたくさんあって羨ましいわあ、などと言うひとたちは、わたしたちがほとんどの週末を費やして授業の準備をすることを、忘れているようだ。数えてみたら、わたしは週50時間以上学校の授業とその準備に時間を費やしている。

休みと言えば、教師でなくとも1年にいっぺんは長期休暇をとるのが、西洋人の考え方である。
わたしも日本から出るまでは、休暇と言うのは、箱根の温泉にでも一泊して、観光もして、カラオケも歌って、土産物をサンザ買い込んで、日曜日の晩に疲れて帰ってくるものだと思っていた。海外旅行に来る日本人も皆、秒刻みのスケジュールをこなしているではないか。

しかし、違うのだ。
最低2週間同じ場所でゆっくりしなければ、彼らは「休暇」とは呼ばない。
普通、日常の疲れと仕事のストレス、または「やるべきこと」から完全に思いが離れるのは、休暇の1週間が過ぎてからである。1週間過ぎれば、段々と気持ちや身体も休暇モードに切り替わる。周りの景色が楽しめるようになる。本がゆっくりと読める。夜更かしをすることが、快感になる。酒や食事がゆっくり味わえるようになる。
そして仕事に戻る1−2日前から段々と来週からの仕事に思いを馳せるようになり、「ああ、休暇ってなんて短いんでしょう」とぶつぶつ言いながらも、リフレッシュした心と身体で日常に戻ることができるのだ。

わたしのバンコクへの「里帰り」は、だから「休暇」ではない。
自分のウチとオフィスに帰るのは、ひとつの「日常」からもうひとつの「日常」に横の移動をすることであり、リフレッシュするという言葉とはほど遠い。
来月のバンコク行きチケット予約確認のメイルが、旅行代理店から来ていた。
その最後の言葉が「よい休暇をお楽しみください」だったので、小さなため息が出る。

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脂肪分の極端に少ないクリーム(脂肪3%以下)というのが、こちらではスーパーでも手に入る。それを使って、今晩はトルテリーニのソースを作った。
マッシュルームと玉ねぎを刻んで炒め、白ワインを入れて半分になるまで煮つめる。ついでに少々くたびれたホウレンソウも刻んで入れた。それにスープとクリームを加え、茹でたトルテリーニにさっとかけて出来上がりだ。
見た目は普通の脂肪分40%以上のクリームとさして変わらないが、味は少々さらっとしている。これなら胃にもたれる心配もないのが、嬉しい。
しかし、さらっとしているからまあいいかと残りの白ワインを開けてしまったので、「低カロリーディナー」のモクロミは泡と消えた。

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