がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

東京の片隅:井戸のある風景

実家の前には古い井戸がある。祖父が1920年にそこに住み始めたときにはすでに古かったというから、100年以上そこにあるのかもしれない。
わ たしが小さかったときにはまだ「土管」が埋まっていて、ふたをそっとずらすとはるか下のほうに自分の顔が映るのが見えた。その後今のような小さなポンプだ けになったが、それでも隣近所のいわゆる「井戸端会議」の場所として、井戸はいつも生活の中心だった。若かった母は、ここでポンプを上下させながら、近所 のオバサンたちと話をし、何かをいつも洗っていた。梅雨には青い梅を梅酒と梅干のために洗い、冬には沢山の白菜を漬物のために洗う。餅つきの杵と臼も、大 掃除のときの障子の桟もここで洗った。わたしたちの学校の上履きも学校が休みに入るたびに、真っ白になるまで洗った。夏にはきりっと気持ち良く感じられる その地下水は、冬には身を切るほどの冷たさとなり、母の手は水仕事のあといつも真っ赤になる。

今回身内の急用で取り合えず数日の予定で帰 国したが、東京の実家は、隣の家の改築工事のせいで、湿度を増すほどの騒音に囲まれていた。夕方やっとドリルの音がやんだので、外に出てみる。大工さんが 井戸にかがみこんで手と足、そして首回りを洗っていた。そう言えば、帰国のたびに井戸の前を何度も通るのに、そこで何かを洗うひとも、ポンプのがちゃんが ちゃんと上下する音も聞こえなくなって久しいことに気がついた。どこのうちにも大型洗濯機があり、餅もつかなくなり、梅や白菜を大量に洗うはずもなく、そ うしてたまに打ち水を汲まれる以外の用途を失って、井戸はそこにある。
でもね、と母は笑う。掃除したり布巾の水受けを替える「井戸当番」はまだ回ってくるのよ、と「井戸当番」と筆で書かれた古びた木の札をわたしに見せた。

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