がびのテラス - 軽妙にして辛辣、独断にして優雅に

旧「がびのテラス」より:大量生産される「涙を誘うドキュメント」

今日は11月10日。
28年前の今日、ベルリンで東と西を分断していた壁が崩壊した。

すでに16年前になるが、まだ手打ちHTMLで旧「がびのテラス」をつくっていたころ、テレビについて書いたことがある。ベルリンの壁崩壊についても言及した。

わたしがこの短いエッセイを書いたときから日本のテレビ界はあまり変わったようには見えない。が、ドイツは確実に国内外に変化をもたらしてきた。その始まりを、歴史がつくられる瞬間を、間接的とは言えスイスのテレビを通じて見たときの感想である。

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2001年1月28日

1月の半ばに一時帰国した日本は、大寒波の真っ只中、皮膚がタイ仕様になっているわたしにとって、外に出たくない季節となっていました。
とは言うものの、大寒波だろうが、熱帯夜だろうが、日本に帰ってまずすることといえばTV鑑賞、どのチャンネルもすべて日本語という世界にどっぷり漬かるのが、わたしの楽しみでもあります。

今回気がついたのですが、「視聴者の私生活公開番組」のようなものがずいぶんと増えているようです。
自分の私生活の悩み、夫婦間の問題、三角関係のもつれを公開し、芸能人がしたり顔で意見をするものから、チマタのちょっとよいホロリとする話、または「肉親捜し」のように劇的な出会いを追ったもらい泣きをしてしまう番組など、毎日ゴールデンタイムと呼ばれる時間帯にどこかでこれらのシーンに出くわします。

特に、長いことなんらかの理由で別れざるをえなかった肉親を捜すために、TVというメディアを利用するひとびとと、「演出」する番組制作者たち、そしてそれに涙する視聴者との三つ巴の需要・供給の鎖に、感心してしまいました。

もちろん、自分の隠しておきたい私生活をおおやけにしても、メディアの強大な力にすがって肉親を捜したいと思うひとの気持ちには切実なる決意があるのでしょう。「売名行為」などという言葉のはいりこむ余地もない、悲惨な人生を語るかたたちも登場します。
しかし、その「事実」の重みがはらりと落ちる一瞬の涙以上のものを視聴者にもたらさないのは、「もっともっと」と劇的な出会いを盛り上げるBGM、三文役者を使った再現フィルム、そしてその過剰で安易な演出とにあるのではないでしょうか。

わたしは涙腺がゆるいので、必ず実家では母と一緒に大泣きをしますが、いつもすぐあとには「よかったねえ、会えて」という言葉とともにさっぱりと次の番組に移ります。あまりにも陳腐な言葉と映像で埋め尽くした演出が、「事実」の重みさえ、ツクリモノ的なハッピィエンドとともに忘れ去られてしまう結果を招いているのです。
つまり、大量生産された「感動的な話」は、これまた大量生産の「刹那的感動」しかもたらさないのではないか、ということです。

ドキュメントとニュース画像では根本的に制作のありかたが違うのでしょうが、わたしはこれらの番組を見ていたときに、ひとつの忘れることのできない感動的な場面を思い出していました。
1989年11月のベルリン、ブランデンブルグ広場での壁崩壊のニュースです。当時スイスのチューリッヒにいたわたしは、TVの実況を観ていたのでした。

東西ドイツに分かれていた同じ言葉を話すひとびとが、長い時を隔ててその象徴であった壁の周りに群がり、登り、壊し、笑い、叫び、無料のふるまい酒を浴び、広場はお祭り騒ぎの様相を呈していました。
TVカメラはそのひとびとの間を縫って、そのあふれんばかりの笑顔を撮っていましたが、突如、悲鳴のような声に振り向き、ふたりの抱擁するひとをレンズにとらえたのです。
騒音に時々かき消されそうになるその会話は、20年以上引き裂かれていた老婦人とその東ベルリンの甥のものでした。涙と鼻水をぬぐいもせずかわされる再会の言葉は、その老婦人の妹の死を伝え、広場での偶然の出会いを、圧倒的な真実の衝撃を、視聴者に送っていたのです。

感動的なBGMも解説もなく、あるのはただ騒音とひとびとの群れ、カメラさえゆらゆらとひとにぶつかり、また元に戻り、しかしTVの前で涙したひとはわたしだけではなかったであろうと思います。

ニュース画像には、「偶然」という要素があるのは否定できませんし、またその反対に、ドキュメンタリーとして意図的に制作された作品が、ひとの心をしっかりととらえることもあります。
しかし、そのどちらの範疇にも属さぬ、安易な「涙の大量生産」を目的とした番組のありかたが、ただの「ひとの生活を覗き見する時間つぶし」以外のなにを訴えうるのか、と鼻をかみながらふと考えたのでした。ちん。

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