庭のミカン

雨期に入った日本はこれからますます暑くなる…というのは1万5千キロ離れた北半球の母国の話で、わたしの住む南半球の国オーストラリアはすでに冬を迎えて寒い日が続いている。

いや、寒いと言っても雪の降らない西オーストラリアの冬はせいぜい5度が最低気温。日本と違って「雨期は冬」の土地ゆえ、ここ最近は毎日風をともなった雨が降る。ただしその合間に真っ青な空と太陽が出ると、気温はすぐに20度を越える。太陽が輝き始めたら、皆上着を脱ぐのもパースならではの日常だ。

さてそんなある日、前庭に植えた「日本のミカン」が2つちょうど食べごろになった。と言うとなんだか毎年豊作のようにみえるが、実は食べられるのは今年が初めてだ。5年ほど前に小さな苗木を植えたのだが、日当たりがよいにもかかわらず、なぜかあまり伸びてくれない。いまはやっと塀にとどくぐらいまでになったので2メートル弱か。白い花は毎年いくつか咲くが、今まで食べられる実がなったことはない。小さいまま固くなってしまったり、鳥に食べられてしまったり、風で落ちてしまったり。

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そんな貴重な2つなので、大きくなるまで心配で食べるどころの話ではない。今まで待ったのは、もう少し大きくなるかなと思っていたからだ。その2つのうちの1つに凹みが出たので、これ以上待ったら熟しすぎて食べられなくなる。そっともいでみた。いい香りだ。こんな強いミカンの香りを嗅いだのは久しぶりだ。
普通に剥いてみたら、種は大きい。口にふくむと、その強い香りとともに甘い汁が口中に広がる。懐かしくて、知らず微笑んでいる自分に気づいた。

 

ナントカを入れて混ぜるだけ

日常の細々とした家事は全てわたしの担当で、好きとは言えない掃除機かけ、から拭き、洗濯、風呂とトイレの掃除、ゴミ出し、庭の水撒きなどを毎日こなしている。

それが終わると、夕方の買い物だ。これは楽しい。
実家の近所には商店街があり、スーパーや100円ショップの間で普通の八百屋や肉屋やお惣菜屋が呼び声を張り上げていて、冷やかしながら「お、今日はキュウリが安い」などと呟いて店先で小銭を数えている。野菜などはこういう小売店で買うことが多いが、その他の日用雑貨やソースなどはスーパーで買い求める。最近改装したスーパーは毎週のように安売りをしていて、家を出る前に買うものを母と入念にチェックまでしている。

いや、何のことはない、主婦の方々には毎日何年もやっていることで目新しくもないだろう。だが、小売店というものがほとんど消滅したオーストラリアに住んでいると、こういう夕方の買い物は懐かしくてウキウキしてしまうのだ。

スーパーに一歩入れば、そういう「オーストラリアにないもの」があふれている売り場はわたしにとってまるで遊園地だ。ありとあらゆる調味料や乾物類、酒、焼酎のほかに、考えられる限りの「いつものお惣菜」がプラスチックのパックに入れられて整然と並び、目がクラクラするほどだ。

さて、今日の晩ゴハンはこのセールの豚肉とキャベツを使って回鍋肉など…と思っていると、目の前には「肉とキャベツを炒めて混ぜるだけ」というインスタントソースがある。キュウリと新玉ねぎとワカメで酢の物を…と考えると、何百もあるインスタントソースの隣にちょこんと「振りかけるだけで酢の物」というパックがある。

ちょっと待てよ、と立ち止まる。

わたしも物珍しさから、そういうインスタントソースは各国で一度は試してみた。どれも同じような味で、まるで個性がない。そして塩辛い。何が何だかわからない添加物も沢山入っている。結局、自分で作っても同じぐらいの時間しかかからないので、ほとんど買ったことがない。

わたしの母には母の味つけがある。その最たるものが「お稲荷さん」だ。わたしも妹も市販のあのイヤに甘くてしょっぱい味のお稲荷さんがあまり好きではない。母のはどちらかというと薄味で甘みも少ないが、それだけにいくらでも食べられる。小さいころは、何かのお祝いごとというと、すぐにわたしたちは「お稲荷さん!」と叫んだものだ。

スーパーの中を見回すと、誰もがお惣菜のコーナーでとんかつを選び、海藻サラダや煮物を手にとっている。味つけは市販の「ナントカの素」か前述のインスタントソース、ふりかけるだけで手軽に焼けるスパイスミックスなどだ。
同じような店で同じ味の同じ惣菜を買う。そこには画一化された味があり、わたしたちはそれを「おふくろの味」だと思い込もうとする。

手軽だから、という理由で自分の味を捨てるのは簡単だけれど、去年セールで買ってみた回鍋肉のインスタントソースはなにかが違っていた。でも何がどう違うのかわからない。それで、次の日に同じキャベツを使って自分の回鍋肉を作ってみた。醤油、味噌、豆板醤、ニンニク、ごま油。
ひとくち食べてみて、ほっとした。もしかしたら、これはわたしの味覚のせいかもしれない。もしかしたら、ほかのひとにはインスタントソースのほうが美味しいのかもしれない。でも、わたしにはこれがいい。毎回、いいかげんな目分量なのでちょっとずつ味がずれているが、それでもわたしの味つけだ。

そんなことを考えながらの帰宅途中、今回の滞在で母に必ず「お稲荷さん」の味つけを教えてもらおうと心に誓った。

 

 

おすそ分けの煮物

母が病院に行った。膝にたまった水を取るために1ヶ月に1度通うが、その量が年とともに多くなってきた、とため息をつく。わたしも「困ったねえ」とため息をつく。

タクシーを使っているが2時間は帰ってこないので、「さて」と読みかけの本を開いたらお勝手のドアがほとほとと叩かれた。お隣のおばさんだ。いや、「おばさん」などではない。近所にはもっと年取っていて、わたしが子供のころから「おばさん」と呼ぶひとがまだ何人もいるので、わたしと10歳ほどしか違わない彼女は「おねえさん」である。

「あらっ、がびちゃん。また帰っていたの?」
しまった。まだ挨拶に行っていなかった。
「あ、2−3日前に帰ってきたんで…(と後を濁すが実は先週からすでに来ている)」
「まだ少しの間いるんでしょ?遊びに来てねっ」
「あ、もちろんですっ。ご挨拶にも行かないで…(とまた後を濁しながら持っていくお土産をすばやくアタマの中で整理している)」

「これ、ツマラナイものだけど、卯の花。今作ったばかりなんでお母さんと一緒に味見してね」
普段独り暮らしのわたしの母のために、おねえさんは時々こうしておすそ分けを作って持って来てくれるが、微笑んだ彼女の目は決して「ツマラナイもの」とは思っていないと語っている。

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だって年季の入った彼女の煮物は本当に美味しいのだ。
もちろん煮物だけではなく、毎日の食事はほとんど全て手作りだ。一度手開きで頭と内臓を取っただけの小アジをじっくりと丸揚げにして持って来てくれたが、いや、あまりの美味しさにのけぞってしまった。絶対自分でも作るぞ、と固く決心してオーストラリアに戻ったが、アジ自体が冷凍の輸入モノしかないということに気づき挫折したのは去年のこと。

おねえさんは信州からお見合いで隣の「おにいさん」に嫁いだが、おしゃべりでクルクルとよく働きながらすでに孫までいるトシになった。おにいさんはそれでも酒が入るとおねえさんを褒めまくり、今でもゾッコン惚れていることをさらけ出す。彼の亡くなった父親はわたしの母のハトコに当たるので、実は遠い親戚でもある。

昔は母もよくこうしたおすそ分けをしたものだが、今では自分の食事がやっとという生活で、おねえさんが持ってきてくれる煮物は本当にありがたい。昔のように小鉢ではなくプラスチックの使い捨て容器を使うのは、洗ってまた何か入れて母が返しに来ないように気遣っているからだ。

今は隣に誰が住んでいるのか知らない生活が増えているだろう。周りに気を遣わない日々は快適だと思うが、東京の実家ではまだこうした近所のひととの繋がりが残っている。
卯の花はおねえさんの優しさと同じようにほんのりと温かく、なぜかほっとしてしまうのだった。