2008年2月アーカイブ
実は、さっき十時ごろに帰宅した。九年生(日本の中学二年生に当たる)の父兄との懇親会があったのだ。九年生の担任は全員出席と言い渡されていたから、覚悟はしていた。七時から九時半までだったので、比較的近くに住んでいる教師たちは、一旦帰宅して食事をしてから戻ってきたようだ。わたしは往復一時間もかけて帰るくらいなら、とそのままオフィスで仕事をしていたがさすがに疲れた。
こんな感じの時間外労働がかならず一学期に何回かある。
今朝の休み時間自分のデスクに戻ってみたら、手のひらにおさまってしまうほど小さな紙の箱がぽつんとあった。開いてみたら、一枚のメモとともに色々なものがはいっている。小さなビー玉、五セント玉、輪ゴム、タコ糸のキレッパシ、チョコレートがひとつ。
メモには、「ストレス撃退キット」とあった。
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1.ビー玉は、あなたがもしかしたら自分を見失いそうなときのために(Losing marbles‐ビー玉を無くす、は慣用句で「自分を見失う」とか「気が狂いそうになる」という意味)
2.五セント玉は、あなたが無一文にならないために
3.輪ゴムは、あなた自身を自分の限界よりさらに伸ばすために
4.タコ糸のキレッパシは、あなたの人生がバラバラになる前に、一個ずつ繋ぎとめるために
5.チョコレートは、いつも誰かがあなたのことを気にかけているってことを思い出させるために
PS: もしチョコレートを無くしちゃって代わりが欲しいときには、いつでもわたしに会いに来てね
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こういう細やかな心遣いをするのは、仏語担当の若いフランス人教師だ。わたしには絶対できそうにない、気の利いたユーモアが詰まった小さなプレゼント。今日懇親会で遅くまで学校にいなければならない語学教師に配っていたらしい。
懇親会前に、帰宅する直前の彼女を捕まえて心からお礼を言った。
キッチンで一番使う器具は何ですか、と問われたら、わたしは即座にモルターとペストルと答えるだろう。これは、わたしがかなり頻繁にスパイスとハーブを使うからだ。台所接続の小さな食料保存室には、粉にしていない丸のままのスパイス類が瓶入りで整理していあるし、庭には使い切れないほどのハーブ類が雑草のようにうじゃうじゃと生えている。石臼と訳していたが、これは本来は小さなすり鉢だ。だが、日本のすり鉢とは違い、重い御影石(みかげいし)でできている。スリコギも石だ。化学の実験などでは「乳鉢」と「乳棒」と言うらしい。そして、使いかたは「擦る」というより「叩き潰す」だ。時々、魚屋で見かける安い鮫肉などを使ってハンペンやガンモドキなんか作ってみたいなあ、と思うのだが、わたしのモルターでは小さすぎる。
今回日本に帰っていたとき、母の伊達巻を食べた。
蒸した白身魚とハンペンをやさしく、ごりごりと擦る。ペーストになったら出汁と生卵を少しずつ入れて、擦る。焼いているときのいい香りは、家中にこもってお腹がすいてくる。小さいときのわたしは、この伊達巻作りの「すり鉢担当」だった。タオルを敷いたお膳の上に大きなすり鉢を置き、母の「ゆっくり静かに擦るのよ、卵がはいるとあふれるからね」を背中に聞きながら、自分の腕ほどもあるスリコギをなるべく静かに、だがリズミカルに動かす。おせち料理を食べるのは二日で飽きてしまったけれど、それを作り始める年末の台所は活気があってとても楽しい場所だった。
そう言えば、今は寝てばかりいる老犬ゆうちゃんも、まだ若いときにこの伊達巻を盗んだことがあった。伊達巻は、温かいうちに巻き簾でしばらく形を整えたら、今度は出して冷まさなければならない。そうして隣の部屋に置いてあった太い伊達巻が、三本とも全て消えてしまったのだ。足の短いゆうちゃんでも届くちゃぶ台に置いたのが、間違いだった。しかし、卵十個以上の伊達巻を食べても、病気にもならずピンピンしていたというからさすがだ。(ただし、汚い話だが「大のほう」はしばらく「伊達巻色」だったらしい)
がんもどきやらハンペンを作るのに、電気式の調理ミキサーを使えばいいと思ったこともある。だが、電気の力で高速に練り上げるのがどうも気に入らない。自分の手で様子を見ながら仕上げたい、とどうしてもこだわってしまうのだ。炒ったゴマだって、プチプチと言わせながら擦ったほうが、いい香りにすぐ気づくじゃないか。それに、かかる時間から見たら大して違わない。使ったあとだって、変にデコボコのあるミキサーを洗うくらいなら、すり鉢を洗うほうが手間がかからない。
ああ、日本のすり鉢が欲しいなあ。
気温が三十度以下に下がってきた。もうそろそろ秋にはいると言ってもいいのだろうが、二十人以上の子供たちとともに狭い教室に詰め込まれていたら、やっぱりまだまだ暑い。だが、冷房の効いた八百屋に行くと、そこはもう「秋」。色々な果物が出てきた。ストーンフルーツと呼ばれる、デカイ種を持つ果物はわたしの好物でもある。桃にネクタリン、プラムにアンズ。葡萄も段々と棚に並ぶようになった。もはや、天国だ。
昨日も、買い物に行ったスーパーで、そんなネクタリンを幾つか籠に放り込んだ。冷蔵庫で保存し、今日の休み時間にひとつ持って行ってガブリとやったら、ああ何ということだろう。いつもならプリプリの皮の下には柔らかくジューシィな果肉が待っているべきなのに、まるで歯ざわりはリンゴだ。そして果汁なんぞ固すぎて出てこない。外側はオレンジ色のベースに鮮やかな赤が刷かれているというのに、中味は似ても似つかぬものだ。大失敗。
捨てるのも悔しいので、今日はそれを使って豚肉の晩ごはんにする。
いつもはリンゴを使うのだが、これだって固さと歯ざわりは同じだ。
バターは使わない。フライパンに油をごく薄く引き、スライスしたネクタリンにシナモン、クーミン、そして砂糖を軽く振りかけて裏表が透き通ってくるまで焼く。取り出してから、また油(わたしはオリーブオイルを使う)を足して、今度は常備しているデュカを振りかけた豚肉のステーキを焼く。これだけだ。
焼いている間に茹でたアスパラガスを添えて、記念撮影。
昔から果物は好きだったが、何年か前に果物をサラダや豚肉料理に使うことを覚え、それからはヤミツキなのだ。豚肉は臭みのある肉だが、果物に漬け込むと臭みがとれて肉も柔らかくなる。今回は漬けこんではいないが、一緒に食べるネクタリンの柔らかさと中近東の香りは大当たり。
生で食べたときにはあんなに失望した固いネクタリンに、ちょっと手を加えただけで「ザマミロ」という気分になるのは、わたしがやっぱり単純だからだね。
腰の具合がかなりよくなったとは言え、お腹にあまり力がはいらないことに変わりはない。血のしたたるような肉でも食べて、精力挽回を図るか……なーんて、実はそんな悲壮な理由があるわけじゃなくって、ただ単に閉店直前に駆けこんだスーパーで「今日食べるんだったら、30%引き」についフラフラと手が伸びてしまったのだった。わたしの晩ごはんは、いつもそうした行き当たりバッタリの思いつきと、どこかで見たうろ覚えのレシピが合体しちゃっただけにすぎない。
だが、ステーキを焼くためには、どんなに腰が痛くたってこれだけは譲れないというものがある。鉄製フライパンだ。テフロン加工のフライパンでは、強火にすると焦げ目がたちどころに表面につくだけ、火を弱めれば時間がかかって硬くひからびるだけ。わたしの好みのミディアムレアには、残念ながら決してならない。
難点は、油をひいてから保存しなければならないことと、鉄製ゆえのトンデモナイ重さだ。「お箸より重いものは持ったことがございませんの」という育ちではないが、片手で自分の肘より上に持ち上げようとすると、腕の筋肉がぶるぶる震えてしまうほどだ。そんなわけで、ふたつある鉄製フライパンは肘ぐらいの高さの棚にしまってある。
今回はどちらにしても腰をかばいながらなので、持ち上げるときは両手だ。
油をうすく引いてから熱し、ステーキをじゅわっと言わせながら載せる。買ってきたときに、すぐ塩コショウ、バルサミコ酢、ニンニクの漬け汁に三十分ぐらいつけておいたものだ。炒め物じゃないので、そのままじっと油の焦げる音を聞きながら数分。ちょいと持ち上げてみて、きれいな焼き目がついているようなら裏返してこちらもじっくり。このフライパンの癖では、表に返したほうの面にちょいと油が浮いてきたらちょうどミディアムレアだ。
ステーキを焼いている間に、庭にすっ飛んで行ってバジルを片手に一杯むしる。洗っててざく切りにしたものをモルター(調理用石臼)に入れ、レモンの皮、ハーゼルナッツ、白コショウの粒、塩、そして最後にたっぷりとレモン汁を絞りいれ、あとはオリーブオイルをたらしながら、がんがんと叩いてつぶす。これはもちろん自動ブレンダーでスイッチをいれながらやってもいいんだけれど、わたしはどうも力まかせにたたきつぶすほうが、ストレス解消にも味にもいいような気がする。
できたステーキは、すぐには切らない。これも鉄則。ローストも同じだけれど、火からおろしてすぐナイフを入れると、肉汁が全部外に出てしまうからだ。アルミホイルにくるんで数分待つ。ステーキを切らずにそのままテーブルに運ぶなら、もちろんそんなことをする必要はない。が、今回はステーキサラダなので。
新鮮なレタスのベッドにスライスしたステーキを置き、上からたっぷりとバジルドレッシングをたらす。きりりと爽やかなレモン風味で、わたし好みに焼けたステーキはさっぱりと仕上がった。
教師になってすでに七年目。オーストラリア生活八年目である。
ビジネスでばりばりやっていたころと比べると、忙しいことに変わりはないが、はるかに気分的に落ち着いたような気がする。
ビジネスだろうが教育だろうが、仕事がらみでひととの関係は始まる。違うのは、ビジネス界ではほとんどがオトナだったが、現在では十代の子供たちのほうがはるかに多くなったことだ。昔は、十代の子供たちなんて、たまに家族も一緒に招待されているレセプションでつまらなそうにひたすら食べている顔を見るくらいだった。
パースで働き始めたころは、正式採用でないためか中学生クラス(八年生から十年生のローティーン)だけだったが、教えるにつれ段々と上級生のクラスも受け持つことになった。2006年末に卒業した子供たちは、わたしが公立高校で最後に受け持った上級生クラスだ。学校を離れたあとも、元同僚の長期休暇によってピンチヒッターとして戻り、半年間受け持った受験クラスでもある。三年に渡って、成長を見てきた子供たちだ。
そして、今も年に何回かクラス会を開く。何故かウマが合うようで、十九人いたクラスから出席しないのはたったの二-三人だ。それも理由があってのことが多い。
前回「今度うちでパーティーしましょう」と何気なく言ったら、みんな目を輝かせていた。十八人前後の若い子たちを呼ぶなんて、、、いや何だかオソロシイことになりそうだが、こういう失言は口の中に戻せない。
私立の女子高に移ってから送り出した卒業生は二回。このごろの傾向で(というより、私立お嬢様学校の傾向なんだろうが)、卒業したあとパースを離れ、「大都会」として憧れるメルボルンやシドニーで大学に行く子たちが多い。一回目の生徒を送り出したときに、パースの大学に入ったのはたった一人だ。時々「いよっ、センセイげんきかーいっ」などと言いながら(漫画の影響ですな)オフィスを訪ねてくる。
去年送り出した日本語クラスの十二年生は四人だ。とても少ないが、それでも一人には偶然中華料理屋で出くわした。わたしを見ると、回りのひとたちが「なんだ、なんだ」と振り向くほどキャンキャンと子犬のように飛びついてきた。まだまだ女学校気分が抜けないらしく、いやはや可愛いものである。。
もう一人はやっと韓国の休暇から戻り、電話をかけてきた。これからはパースの大学生だ。母親は韓国住まい、パースに父親と二人で暮らしている彼女には「センセイって、わたしのお母さんにすごーく似ている」と初めて教えたときに言われた。どこにでもある顔だからそんなこともあるだろう、と思っていたら、一度学校のファンクションで彼女の父親に会って穴があくほど見つめられた。呆然としているその顔から察するに、本当によく似ていたのだろうと思われる。そのせいかどうか、彼女には去年一杯「センセイ、センセイ」といつもまとわりつかれていた。家が偶然近いこともあり、何だかこの子との関係は少しの間続くような気がする。
---------------
実は、教師としての給料は驚くほど安い。拘束時間も長い。八時から三時半まで、そして放課後にすぐ帰れることは、まずない。六時前後に帰宅、そして夕食後も次の日の準備やら、やり残した雑用を片付けることも多い。週末も同じようなものだ。
ビジネス時代も忙しいことは忙しかったが、種類が違う。昼間トイレに行く時間がない、なんてことはまずなかった。学校では、授業のある八時半から三時二十分までの間に、教室を離れることはできないからだ。休み時間は、「休む」というより「雑用」の時間だ。珈琲を飲むのはコンピューターに向かいながら、である。その間にも、なんらかの用事で、教師や生徒たちがひっきりなしに語学オフィスのドアをたたく。そして、放課後はご存知の通り、クラブ活動なんて厄介なものもある。残業手当は教師にはない。
そして、教師をやめる若いひとたちの理由として一番多いのが、これだ。荒れたクラスだろうが、意地悪されようが、どんなに英語のアクセントをからかわれようが、そんな「些細なこと」は自分の心の中で、あるいは教室の中で解決しなければならない。一応サポートがあるにはあるが、実際の助けには程遠い。
「でも、休暇がたくさんあっていいじゃない」というひとがいるが、これはちょいと違う。学期休みの二週間、全ての仕事を放り出して休暇に「専念する」という教師はほとんどいないはずだ。始まって数日間は、残った仕事の片付け。セミナーやらワークショップやらクラブ活動に参加するひとたちもいる。そして、やっと「ああ休暇だったっけ」と思い出し、ほんのちょっと寝坊したり夜更かししたり、友達と出かけて大酒を飲んでみたりする。学校が始まる数日前からは、すでに段々と「スクールモード」に戻って行く。鍵を持っているから、まだしんとしている学校に戻って来学期の準備をする。つまり正味数日の休みにしかならないのだ。
普段の果てしない残業のことを思うと、これじゃあ「休暇」とは言えない。
それでもわたしが教師として残るのには、「ワーカホリックだから」以外にも理由がある。子供たちだ。
毎年、何百人もの子供たちに接する。何人かは、たとえ二十年たってもはっきりとわたしを覚えているだろう。好きだった先生として、またはダイッキライだった先生としてでもいい。
子供たちにささやかな影響を与え、彼らの記憶の片隅に残るんじゃないか、と時々感づくようになった。そして、何人かの卒業生たちからの近況に接しながら、「こういう人生も悪くないね」と思うようになった。
ビジネスでばりばりやっていたころと比べると、忙しいことに変わりはないが、はるかに気分的に落ち着いたような気がする。
ビジネスだろうが教育だろうが、仕事がらみでひととの関係は始まる。違うのは、ビジネス界ではほとんどがオトナだったが、現在では十代の子供たちのほうがはるかに多くなったことだ。昔は、十代の子供たちなんて、たまに家族も一緒に招待されているレセプションでつまらなそうにひたすら食べている顔を見るくらいだった。
パースで働き始めたころは、正式採用でないためか中学生クラス(八年生から十年生のローティーン)だけだったが、教えるにつれ段々と上級生のクラスも受け持つことになった。2006年末に卒業した子供たちは、わたしが公立高校で最後に受け持った上級生クラスだ。学校を離れたあとも、元同僚の長期休暇によってピンチヒッターとして戻り、半年間受け持った受験クラスでもある。三年に渡って、成長を見てきた子供たちだ。
そして、今も年に何回かクラス会を開く。何故かウマが合うようで、十九人いたクラスから出席しないのはたったの二-三人だ。それも理由があってのことが多い。
前回「今度うちでパーティーしましょう」と何気なく言ったら、みんな目を輝かせていた。十八人前後の若い子たちを呼ぶなんて、、、いや何だかオソロシイことになりそうだが、こういう失言は口の中に戻せない。
私立の女子高に移ってから送り出した卒業生は二回。このごろの傾向で(というより、私立お嬢様学校の傾向なんだろうが)、卒業したあとパースを離れ、「大都会」として憧れるメルボルンやシドニーで大学に行く子たちが多い。一回目の生徒を送り出したときに、パースの大学に入ったのはたった一人だ。時々「いよっ、センセイげんきかーいっ」などと言いながら(漫画の影響ですな)オフィスを訪ねてくる。
去年送り出した日本語クラスの十二年生は四人だ。とても少ないが、それでも一人には偶然中華料理屋で出くわした。わたしを見ると、回りのひとたちが「なんだ、なんだ」と振り向くほどキャンキャンと子犬のように飛びついてきた。まだまだ女学校気分が抜けないらしく、いやはや可愛いものである。。
もう一人はやっと韓国の休暇から戻り、電話をかけてきた。これからはパースの大学生だ。母親は韓国住まい、パースに父親と二人で暮らしている彼女には「センセイって、わたしのお母さんにすごーく似ている」と初めて教えたときに言われた。どこにでもある顔だからそんなこともあるだろう、と思っていたら、一度学校のファンクションで彼女の父親に会って穴があくほど見つめられた。呆然としているその顔から察するに、本当によく似ていたのだろうと思われる。そのせいかどうか、彼女には去年一杯「センセイ、センセイ」といつもまとわりつかれていた。家が偶然近いこともあり、何だかこの子との関係は少しの間続くような気がする。
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実は、教師としての給料は驚くほど安い。拘束時間も長い。八時から三時半まで、そして放課後にすぐ帰れることは、まずない。六時前後に帰宅、そして夕食後も次の日の準備やら、やり残した雑用を片付けることも多い。週末も同じようなものだ。
ビジネス時代も忙しいことは忙しかったが、種類が違う。昼間トイレに行く時間がない、なんてことはまずなかった。学校では、授業のある八時半から三時二十分までの間に、教室を離れることはできないからだ。休み時間は、「休む」というより「雑用」の時間だ。珈琲を飲むのはコンピューターに向かいながら、である。その間にも、なんらかの用事で、教師や生徒たちがひっきりなしに語学オフィスのドアをたたく。そして、放課後はご存知の通り、クラブ活動なんて厄介なものもある。残業手当は教師にはない。
そして、教師をやめる若いひとたちの理由として一番多いのが、これだ。荒れたクラスだろうが、意地悪されようが、どんなに英語のアクセントをからかわれようが、そんな「些細なこと」は自分の心の中で、あるいは教室の中で解決しなければならない。一応サポートがあるにはあるが、実際の助けには程遠い。
「でも、休暇がたくさんあっていいじゃない」というひとがいるが、これはちょいと違う。学期休みの二週間、全ての仕事を放り出して休暇に「専念する」という教師はほとんどいないはずだ。始まって数日間は、残った仕事の片付け。セミナーやらワークショップやらクラブ活動に参加するひとたちもいる。そして、やっと「ああ休暇だったっけ」と思い出し、ほんのちょっと寝坊したり夜更かししたり、友達と出かけて大酒を飲んでみたりする。学校が始まる数日前からは、すでに段々と「スクールモード」に戻って行く。鍵を持っているから、まだしんとしている学校に戻って来学期の準備をする。つまり正味数日の休みにしかならないのだ。
普段の果てしない残業のことを思うと、これじゃあ「休暇」とは言えない。
それでもわたしが教師として残るのには、「ワーカホリックだから」以外にも理由がある。子供たちだ。
毎年、何百人もの子供たちに接する。何人かは、たとえ二十年たってもはっきりとわたしを覚えているだろう。好きだった先生として、またはダイッキライだった先生としてでもいい。
子供たちにささやかな影響を与え、彼らの記憶の片隅に残るんじゃないか、と時々感づくようになった。そして、何人かの卒業生たちからの近況に接しながら、「こういう人生も悪くないね」と思うようになった。
ギックリ腰になったお陰で、便秘になってしまった。もちろん医者から薬ももらっているが、結構強い薬のようで飲んだら一時間以内に今度は下痢だ。それもこれも腰に力がはいらないからなのだが、厄介なものである。土曜日で時間もあるし、こういうときはゆっくりと豆料理でも作るに限る。豆をしっかり食べれば、薬のお世話になることもない(と、信じたい)。
ひよこ豆は、昨日から鍋にたっぷりの水に浸しておいた。水を取り替えて茹ではじめ、沸騰したら今度は蓋をして弱火で三十分ほどコトコトと煮る。その間に、玉ねぎ、ニンニク、ショウガを刻み、モルター(調理用石臼)でがんがんと叩いて潰し、ペースト状に。
ここで登場するのがル・クルーゼの厚手鍋だ。ひどく重いが、火にかけるだけではなく、オーブンに直接いれることもできるので重宝している。もっとも、活躍するのは寒い冬のことが多いけれど、ね。
この鍋にオリーブオイルを熱し、さきほどの玉ねぎその他のペーストを入れ、さらにベイリーフ、ガラムマサラ、シナモンを加え、焦げないように混ぜ合わせる。さらに、皮を湯むきしたトマトを刻んで加え、ナチュラルヨーグルトもたっぷりと(と言っても、半リットルいりのものの三分の一ぐらい)落とす。ベジタブルスープも同じ分量。そして、ターメリック、オクラ、カボチャ、、ひよこ豆を加え、蓋をして三十分ぐらい弱火で煮るだけ。最後に塩コショウして、刻んだイタリアンパセリを散らしたら、あとは食べるだけだ。
ご飯にかけてもよいのだけれど、ちょっと重くなってしまうのでここではクスクスを使う。わたしはクスクスの調理には、バターを決していれない。バターの味と香りはカレーの風味に合わないような気がするのだ。たまに、スープの素を使うこともあるが、今日は極々普通に同量の沸騰した湯をいれただけで、蓋をして蒸した。
ターメリックやらガラムマサラやらを入れているスロウフードは、味は素朴ながらどこかエキゾチックな香りがあって悪くない。そして、夕食の間はいつもわたしの膝に手をおき、「たまにツメをたてて自分の存在を知らしめる」猫のゆきちゃんだが、今晩はほんの少し鼻をひくひくさせただけでわかったらしい。「なあんだ、肉も魚も食べてないじゃん」ということで、ベジタリアン料理に全く理解を示さずにさっさと自分専用のドライフードをつまみに行ってしまった。
テレビのドイツ語放送で、ヒトラーが自殺したあとのベルリンの証言をする老いたひとびとのインタビューを見た。何気なくチャンネルを回していてふと釘付けになり、二時間夕食も忘れて見入ってしまった。すでに自分自身がそれほど若くないことはわかっているが、「若くもない世代よりもっと古い」わたしの両親が生きた第二次世界大戦のことが、頭から離れない。
わたしの母が住む実家の隣、今は小さな木造モルタルのアパートになっている家は、わたしが小さいころはまだ戦前、と言うより大正後期に作られた小さな平屋だった。昭和五年に、母が生まれた家でもある。
畳の部屋がふたつ、引き戸の玄関の上りがまちと小さな台所だけ。戦前の典型的な庶民の家だったと思う。畳の部屋のひとつには、ゴザを貼った板が畳に似せかけて部屋の真ん中にあった。実を言うと、わたしはその一畳ほどの場所が死ぬほど怖かった。畳をぽんと上げるとそこには、真っ暗な洞穴が口を開けていたからだ。ひとが何人か入れるほどの場所がそこにはあったが、まだ幼かったわたしは、なぜそんな洞穴が家の真ん中にあるのか理解できず、その当時その家に住んでいた母の姉、わたしの二番目の伯母の夫に聞いた。
「防空壕だよ」
戦時には憲兵隊のかなり上の地位にいた伯父は、はき捨てるように答えた。「逃げる」や「隠れる」という言葉が死ぬほどきらいな伯父だった。
わたしの周りにいた同級生たちは、隣の二階建ての家(現在のわたしの実家)を見て「このアパートの一階に住んでいるの、それとも二階に住んでいるの?」と、わたしによく聞いたものだ。その当時、わたしの年の友達の中で持ち家のある両親はほとんどいなかったからだ。つまり、その時代にしてはかなり快適な境遇にいたのだと思うが、それでも戦時の匂いのある隣の家がいつも気になっていた。
ある程度本を自由に読めるほどの力がついたとき、わたしは初めて「大人の読む本」を手にとった。第二次世界大戦に関する本だ。
「聞け、わだつみの声」を読み、花森安治が創刊した「暮らしの手帖」から戦争中の暮らしの話を読み漁ったのもこのころだ。そして、二番目の怖さがやってきた。あまりにも戦時中の話にのめり込んだために、真夜中の物音に死ぬほど反応するようになってしまったのだった。それはいつも夜だった。遠くに聞こえる羽田空港に向かう飛行機のかすかな音で目が覚める。ごくまれにあるヘリコプターの音で、いきなり起き上がってしまう。それは実際に経験した爆撃直前の恐怖ではなく、本の行間から立ちのぼった死への可能性への恐怖であった。
そんなとき、いつもわたしの肩をたたき「オシッコに行ってきなさい」とうながしたのは母だった。トイレに行って帰ってきたわたしの頭を、自分も眠いであろうに長いこと優しく撫でていたのも、母だった。
母はわたしの姿を見て、もしかしたら自分が幼かったころ、恐怖に怯えて目が覚めたことを思い出していたのかもしれない。母の恐怖は、想像ではなかったのだから。
飛行機の轟音が聞こえるということは、その後の爆撃と目の前に広がる炎を意味していたし、戦時中夜中に目が覚めるということは、すぐに防空頭巾をかぶり床下の防空壕に入る素早さをうながす。母の生まれた家が焼けもせず残っていたのは、五十メートル先の中仙道から向こうが焼け野原のなってしまったことを思うと、奇跡に近いのだ。
母が戦時の話をすることはもうあまりないが、それでも時にほろりともれる言葉の端々に、幼かったときのわたしの恐怖を重ねてしまうことがある。
わたしは今オーストラリアに住んでいるので、もちろん第二次世界大戦に関して「日本軍の捕虜収容所で死んだオーストラリア人の祖父」や「日本軍と戦ってたくさんの友を失った伯父」の話を直接、または間接的に聞かなければならない機会を持つ。
わたしの教える子供たちの中にも、「わたしの曾お祖父さんは、日本人がダイキライって言ってた」と言う子がいる。そんなときわたしは、真っ暗で狭い防空壕の中で、防空頭巾をかぶってひたすら息を殺していた十二歳の女の子の話をするのだ。
「あなたたちと同じ年だったわたしの母、恐怖におびえて防空壕の中で震えていた十二歳の少女に、六十五年後『あんたなんか、日本人だからダイキライ』って言うことができる?」と。
わたしの母が住む実家の隣、今は小さな木造モルタルのアパートになっている家は、わたしが小さいころはまだ戦前、と言うより大正後期に作られた小さな平屋だった。昭和五年に、母が生まれた家でもある。
畳の部屋がふたつ、引き戸の玄関の上りがまちと小さな台所だけ。戦前の典型的な庶民の家だったと思う。畳の部屋のひとつには、ゴザを貼った板が畳に似せかけて部屋の真ん中にあった。実を言うと、わたしはその一畳ほどの場所が死ぬほど怖かった。畳をぽんと上げるとそこには、真っ暗な洞穴が口を開けていたからだ。ひとが何人か入れるほどの場所がそこにはあったが、まだ幼かったわたしは、なぜそんな洞穴が家の真ん中にあるのか理解できず、その当時その家に住んでいた母の姉、わたしの二番目の伯母の夫に聞いた。
「防空壕だよ」
戦時には憲兵隊のかなり上の地位にいた伯父は、はき捨てるように答えた。「逃げる」や「隠れる」という言葉が死ぬほどきらいな伯父だった。
わたしの周りにいた同級生たちは、隣の二階建ての家(現在のわたしの実家)を見て「このアパートの一階に住んでいるの、それとも二階に住んでいるの?」と、わたしによく聞いたものだ。その当時、わたしの年の友達の中で持ち家のある両親はほとんどいなかったからだ。つまり、その時代にしてはかなり快適な境遇にいたのだと思うが、それでも戦時の匂いのある隣の家がいつも気になっていた。
ある程度本を自由に読めるほどの力がついたとき、わたしは初めて「大人の読む本」を手にとった。第二次世界大戦に関する本だ。
「聞け、わだつみの声」を読み、花森安治が創刊した「暮らしの手帖」から戦争中の暮らしの話を読み漁ったのもこのころだ。そして、二番目の怖さがやってきた。あまりにも戦時中の話にのめり込んだために、真夜中の物音に死ぬほど反応するようになってしまったのだった。それはいつも夜だった。遠くに聞こえる羽田空港に向かう飛行機のかすかな音で目が覚める。ごくまれにあるヘリコプターの音で、いきなり起き上がってしまう。それは実際に経験した爆撃直前の恐怖ではなく、本の行間から立ちのぼった死への可能性への恐怖であった。
そんなとき、いつもわたしの肩をたたき「オシッコに行ってきなさい」とうながしたのは母だった。トイレに行って帰ってきたわたしの頭を、自分も眠いであろうに長いこと優しく撫でていたのも、母だった。
母はわたしの姿を見て、もしかしたら自分が幼かったころ、恐怖に怯えて目が覚めたことを思い出していたのかもしれない。母の恐怖は、想像ではなかったのだから。
飛行機の轟音が聞こえるということは、その後の爆撃と目の前に広がる炎を意味していたし、戦時中夜中に目が覚めるということは、すぐに防空頭巾をかぶり床下の防空壕に入る素早さをうながす。母の生まれた家が焼けもせず残っていたのは、五十メートル先の中仙道から向こうが焼け野原のなってしまったことを思うと、奇跡に近いのだ。
母が戦時の話をすることはもうあまりないが、それでも時にほろりともれる言葉の端々に、幼かったときのわたしの恐怖を重ねてしまうことがある。
わたしは今オーストラリアに住んでいるので、もちろん第二次世界大戦に関して「日本軍の捕虜収容所で死んだオーストラリア人の祖父」や「日本軍と戦ってたくさんの友を失った伯父」の話を直接、または間接的に聞かなければならない機会を持つ。
わたしの教える子供たちの中にも、「わたしの曾お祖父さんは、日本人がダイキライって言ってた」と言う子がいる。そんなときわたしは、真っ暗で狭い防空壕の中で、防空頭巾をかぶってひたすら息を殺していた十二歳の女の子の話をするのだ。
「あなたたちと同じ年だったわたしの母、恐怖におびえて防空壕の中で震えていた十二歳の少女に、六十五年後『あんたなんか、日本人だからダイキライ』って言うことができる?」と。
昔、妹が美容鍼を試しに行ったとき、顔中針だらけの客の顔を見て怖くなったそうで、逃げ帰ってきたことがあった。母は確か何度か(これは美容ではなく治療で)打ってもらっていた。そして、若いときには腰痛や肩こりと縁がなく、美容目的の鍼にも興味のないわたしは、まだ一度も体験したことがなかったのである。そう、今日までは。
わたしの通うクリニックの医者は、名前だけ見たらスペイン人、しかし顔を見るとコンパスで描いたような丸顔中国人、分厚いメガネをかけたフィリピン系の男性だ。中国鍼の専門家でもあり、わたしが昨年四十肩で治療に行ったときにも、しきりに「鍼の効用」について講義してくれたひとだ。どうも、打ちたくってたまらないらしい。
今日は学校のホームルーム(=ハウス)対抗水泳大会の日だったので、スタジアムのプラスティックの椅子と立ちんぼの監視官の仕事に恐れをなして、もう一日休んだ。そして、また車でクリニックまでやってきたのだった。
わたしのギックリ腰は段々とよくなってきてはいるようだが、それでも十分以上座っているとたちあがるときに痛みが走る。車を運転しているときに、Uターンのハンドルなんか切ったら声が出てしまうほどだ。車から出るときにも、腰を曲げないようにしてシートからそろそろとすべり降りる。まるでイカかタコだ。
「じゃあ、鍼を打ちましょう」
切々と痛みを訴えると、医者はきっぱりと、しかし「熱心さで目をキラキラさせて」言った。
「一回施術すれば、四時間痛みなし、そしてまたちょっと鈍痛が走って一時間、今晩にはまた痛みがうすらいでよく眠れますよ。効果の持続は十六日間」
「い、痛くないんですか」
「蚊に刺される程度です」
うつ伏せになってオシリ丸出しのわたしに、次々と鍼を打つあたりは大変手際がいい。全部で六本。
「さて、電気を通しますね」
「ええっっ、そんなこと言ってなかったじゃないですかっ」
この医者はただでさえ仏頂面なのに加えて、優しい冗談も軽口も一切たたかない。口から出るのは、専門的な解説だけだ。しかし、わたしにはもう解説なんか耳にはいらない。びびーんと電気が通ったら、いやオシリに響くこと、響くこと。「いてえ」と言うまで周波を上げるのだけれど、わたしがすぐに「いてえ」と言ったものだから、二分ぐらいたってようやく慣れたころにもう一度上げた。
しかし、この電気はすごい。慣れるともう快感だ。「理学療法のときの低周波パッドよりはるかに中に響きますねー」と呟いたら、「針を通して痛い筋肉のツボに直接働きかけているんだから、当然です」とそっけなく言われた。サービス精神のない医者だ。。。
十五分ぐらいで終了。ギックリ腰最初の日に、理学療法のあとに激痛で立ち上がれなくなったことを思い出してそっと起き上がったのだが、全く痛みがない。おお。
「いや、これなら今から走れちゃいますねー」
「走るのは、医学的見地から問題外です」冗談だってば。
一応今日いっぱいは安静にしていなければならないが、明日はもう学校に行けると思うとちょいと嬉しい。実を言うと、コンピューターにも満足に向かえないし、寝そべって本を読んだりテレビを見たりするのに少々飽きちゃったのである。
わたしの通うクリニックの医者は、名前だけ見たらスペイン人、しかし顔を見るとコンパスで描いたような丸顔中国人、分厚いメガネをかけたフィリピン系の男性だ。中国鍼の専門家でもあり、わたしが昨年四十肩で治療に行ったときにも、しきりに「鍼の効用」について講義してくれたひとだ。どうも、打ちたくってたまらないらしい。
今日は学校のホームルーム(=ハウス)対抗水泳大会の日だったので、スタジアムのプラスティックの椅子と立ちんぼの監視官の仕事に恐れをなして、もう一日休んだ。そして、また車でクリニックまでやってきたのだった。
わたしのギックリ腰は段々とよくなってきてはいるようだが、それでも十分以上座っているとたちあがるときに痛みが走る。車を運転しているときに、Uターンのハンドルなんか切ったら声が出てしまうほどだ。車から出るときにも、腰を曲げないようにしてシートからそろそろとすべり降りる。まるでイカかタコだ。
「じゃあ、鍼を打ちましょう」
切々と痛みを訴えると、医者はきっぱりと、しかし「熱心さで目をキラキラさせて」言った。
「一回施術すれば、四時間痛みなし、そしてまたちょっと鈍痛が走って一時間、今晩にはまた痛みがうすらいでよく眠れますよ。効果の持続は十六日間」
「い、痛くないんですか」
「蚊に刺される程度です」
うつ伏せになってオシリ丸出しのわたしに、次々と鍼を打つあたりは大変手際がいい。全部で六本。
「さて、電気を通しますね」
「ええっっ、そんなこと言ってなかったじゃないですかっ」
この医者はただでさえ仏頂面なのに加えて、優しい冗談も軽口も一切たたかない。口から出るのは、専門的な解説だけだ。しかし、わたしにはもう解説なんか耳にはいらない。びびーんと電気が通ったら、いやオシリに響くこと、響くこと。「いてえ」と言うまで周波を上げるのだけれど、わたしがすぐに「いてえ」と言ったものだから、二分ぐらいたってようやく慣れたころにもう一度上げた。
しかし、この電気はすごい。慣れるともう快感だ。「理学療法のときの低周波パッドよりはるかに中に響きますねー」と呟いたら、「針を通して痛い筋肉のツボに直接働きかけているんだから、当然です」とそっけなく言われた。サービス精神のない医者だ。。。
十五分ぐらいで終了。ギックリ腰最初の日に、理学療法のあとに激痛で立ち上がれなくなったことを思い出してそっと起き上がったのだが、全く痛みがない。おお。
「いや、これなら今から走れちゃいますねー」
「走るのは、医学的見地から問題外です」冗談だってば。
一応今日いっぱいは安静にしていなければならないが、明日はもう学校に行けると思うとちょいと嬉しい。実を言うと、コンピューターにも満足に向かえないし、寝そべって本を読んだりテレビを見たりするのに少々飽きちゃったのである。
日本にはケンタッキーフライドチキンしかないけれど、こちらアメリカに次いで肥満大国であるオーストラリアには、チキンのファストフードショップも多い。このごろでは、「ヘルシーフード」を目指しているらしく、半分ぐらいのメニューがローストになっているが、それでもまだ油ギトギトのフライドチキンを注文するひとたちも多い。Nando(ナンド)という店もチキン専門のチェーンのひとつだ。ポルトガル風チキンを売りにしており、値段も高いが、味はほかの安いファストチェーンと比べるとかなり美味しい。スーパーに行けば、このチェーン店の名を冠した「ペリペリチキンソース」なる瓶詰めのソースも買える。これをちょいちょいと鶏肉にかけてマリネしてから焼くと、本格的なペリペリチキンが食べられるというわけだ。
いや、本格的と言っても、なんでポルトガルでは「ピリピリ」というのに、オーストラリアではそれが「ペリペリ」になっちゃったのか、今もってわからない。「ピリピリ」自体ポルトガル語ではなく、実はアフリカのスワヒリ語。「チリ」(唐辛子)の意味らしい。
日本でも、唐辛子の辛さは「ピリピリするぅ」などと表現されることがあるけれど、もしかしたら同じ語源なのかもしれないね。
さて、ピリピリチキン。
市販のマリネソースが存在するのに、なぜわたしはギックリ腰をさすりながら自分でつくるのか。答えは簡単、やはり新鮮なハーブとスパイスを使うと味と風味が格段に違うからだ。それに、何も難しいわけでもない。
今回わたしが使ったのは、皮がすでにむいてあるドラムスティック。普段はあまりこういう風に売っているものを手にとらないのだけれど、土曜日の肉売り場は戦争なのだ。つまり、わたしの欲しかったフリーレンジ・チキン(棚で育てられているのではなく、放し飼いの鶏のこと)の棚には、これと丸ごと一羽しかなかった。丸ごとをさばくのは、腰にひびいてツライ。そして、生臭い普通の鶏肉を買うくらいなら、皮がむいてあったってこっちのほうだ。
マリネソースは、簡単だ。わたしのいつも使うモルター(調理用石臼)に入れるのは、唐辛子、ニンニク、オレガノ、レモンの皮、粒コショウ、塩。ここにオリーブオイルを注ぎ、がんがんと叩きつぶす。あ、今日使わないともうダメだな、という香菜もついでに入れてつぶす。ホントは入れないのだけれど、まあいいや。そこにレモン汁をざざっと絞り、さらに叩き、パプリカをぱらぱらとふりかける。これでおしまい。
ジップロックのビニール袋に鶏肉をいれ、マリネソースを注ぎ、ぴっちりと閉めて冷蔵庫に放り込むだけだ。今日は日曜日だから午前中にやってしまったが、普段は前の日の晩にやることが多い。
鶏肉はオーブンで焼いてもいいし、庭でバーべキューにしてもいい。今回は、庭でバーベキュー台を引きずり出すほどの「腰力」がないので、キッチンのオーブンで焼いた。
焼きたては、もちろん「ピリピリ」してとびきり美味しい。
里帰りの東京でいやというほど刺身と寿司を堪能してきたので、丸顔の中国人に声をかけられたときにも、どうしようかなと迷った。「刺身にできる新鮮なレッドスナッパーがあるよっ」
中国人は、常連になってしまった魚屋のご主人だ。「これならゼッタイ買う」という期待をこめて、すでにビニール袋を手に待ち構えている。ギックリ腰をかかえてようやく車を運転してきたんだから、美味しいものなら買ってしまおうという気になった。
レッドスナッパーは鯛の一種で、日本の真鯛によく似ているが本当は違う種類らしい、とこないだ何かの本で読んだ。しかし、西洋の和食屋で出る「鯛の刺身」はまず間違いなくこれだ。わたしもよく買うが、味は日本で食べる鯛刺しとほとんど同じ。
わさび醤油で食べてもよかったが、今日はちょいと趣向を変えることにした。
「カルパッチオ」はよくイタリア料理の前菜として出てくるが、普通は牛のフィレ肉を使う。イタリア人は元々魚を生で食べる習慣がないが、実はこんな風に刺身用の魚を使ってもできるのだ。謂わば、食のクロスカルチャーだね。
作り方はいたって簡単、まず上等なバージンオリーブオイルとレモン汁を同量混ぜ合わせ、そこにイタリアンパセリとディルのみじん切りを加えて、さらに塩コショウするだけ。これが漬け汁だ。わたしはディルを買うのを忘れてしまったので、今回はビン入りの乾燥ディルで代用した。薄く切ったレッドスナッパーを漬けて、冷蔵庫で十五分。ほんの少し身が締まったところでベビーリーフのサラダを添える。汁はたっぷりかけるから、大盛りのサラダもぺろりと食べられる。
これにキリリとした白のシャルドネなんか合わせたら、もう美味しくって頬っぺたが落ちる。実は、ゆきちゃんが恨めしそうに手をわたしの膝にかけるが、これだけは「レモンが入っているからだめねー」と言いながらやらないんだ。
ヒース・レッジャーが突然ニューヨークのアパートで死亡したことは、記憶にも新しいと思う。彼がオーストラリアのパース出身だったため、どの新聞を開いても、どのテレビのスイッチをつけても、彼のニュースが飛び込んでくる。そして、死因を調査していた結果が最近出た。処方されていた薬の複数摂取が原因だったという。CNNのエンタメ・サイトにはその薬の名前が詳しく出ていたが、睡眠薬、鎮痛剤、精神安定剤など、実に六種類もの薬が処方されていたのだった。それら複数の薬を大量に服用したわけではなく、それら全てを一度に服用したことが彼の死につながったらしい。
彼の実父は「処方された薬物の複数摂取の危険をもっと重視するべきだ」というコメントを残しているが、リストされた薬物はそれぞれ二種類ずつの睡眠薬、鎮痛剤、精神安定剤だ。これらが全て、ひとりの医者から一度に処方されたとは考えにくい。だとすれば、ヒース・レッジャーが自ら複数の医者に出向いて入手したか、あるいは非合法的な手段で手に入れたと見るべきだろう。これを一般的な危険と考えるには、少々無理があるように思う。
美貌と金と才能に恵まれ、幸運でもあると思われたひとたちが、蓋を開けてみれば薬漬けだったことがわかる。わたしたち一般人には考えられないほどの、そして手に入れることのできないほどの量だ。
彼は、果たして何から逃げたかったのだろうか。
ゆきちゃんはマッシロなので、医者からも猫ホテルからも「直射日光にあてちゃダメ」と言われ続けてきた。どちらにしても、わたしは外で猫を飼うつもりはなかったし、彼女もそれほど外に出たがらなかった。時々庭に出すこともあったが、朝の弱い光のときだけ。それも、三十分以上太陽のもとにいたことはない。
ああ、それなのに。右目の目頭に血のように赤いイボができたのは、去年のことだ。医者に連れて行ったら「皮膚がんかもしれない」とのこと。さっそく除去してもらって、ついでに本当に皮膚がんかどうかも検査してもらった。結果は、良性腫瘍。
ほっとしていたら一年後、それもわたしがいないときに猫ホテルで、出た。今回日本に行っていたときのことだ。
「血豆のようなものが目頭にあるなあ、と思っていたんだけど、何日か前にいきなり顔が血だらけになっていたから、もう死ぬほどビックリしたよ」
血がたまっていたところが裂けたらしい。赤い点のようなものはいつもあったが、そこが腫れ始めたらはやい。
とにかく次の日、急いで医者に連れて行ったらまた同じ腫瘍だった。
「取ってもまた出てきますねえ、こういうのは」
そして、また手術だ。今週月曜日の晩に預けて、火曜日学校の帰りに受け取りに行った。いや、ものすごいご面相になっていて、死ぬほどびっくりした。何しろ、右目の周りはきれいに丸く剃られている。そして、目頭はもちろん縫ってあるし、目なんか二倍に腫れ上がっちゃっている。血はまだ点々とついていて、麻酔が切れてあまり時間がたっていないのか、ふらふらしている。
「先生っ。ものすごい顔なんですけど、大丈夫なんですかっ」
「んん?そお?手術は成功してるし、きちんと縫ってあるよ。感心するくらい、きれいに成功」
そういう問題じゃないだろう。。。
その後、重いゆきちゃんのケージを苦労して運んだが、うちにたどりついたらわたしはほとんど動けなくなった。わたしのギックリ腰は月曜日と火曜日の仕事で再発してしまったのだった。
だが、ゆきちゃんに目薬もささなきゃならないし、餌も少しやらなきゃならない。それなのに、かがめば激痛が走り、息ができなくなる。長い時間をかけてやっとそれらのことをやりとげたが、痛くて汗びっしょり、さすがに泣きたくなった。
次の日、やっと車を運転して今度は自分の医者に行って、そしてクソミソに怒られた。「自分を過信して動きすぎましたね」とのこと。それ以来二日間(そして、たぶんもう三日ほど)「ギックリ腰病人」と「術後の病猫」は、キッチンのカウンターにたくさんの薬を並べて、仲よくうちにこもって安静にしている。やれやれ。
ああ、それなのに。右目の目頭に血のように赤いイボができたのは、去年のことだ。医者に連れて行ったら「皮膚がんかもしれない」とのこと。さっそく除去してもらって、ついでに本当に皮膚がんかどうかも検査してもらった。結果は、良性腫瘍。
ほっとしていたら一年後、それもわたしがいないときに猫ホテルで、出た。今回日本に行っていたときのことだ。
「血豆のようなものが目頭にあるなあ、と思っていたんだけど、何日か前にいきなり顔が血だらけになっていたから、もう死ぬほどビックリしたよ」
血がたまっていたところが裂けたらしい。赤い点のようなものはいつもあったが、そこが腫れ始めたらはやい。
とにかく次の日、急いで医者に連れて行ったらまた同じ腫瘍だった。
「取ってもまた出てきますねえ、こういうのは」
そして、また手術だ。今週月曜日の晩に預けて、火曜日学校の帰りに受け取りに行った。いや、ものすごいご面相になっていて、死ぬほどびっくりした。何しろ、右目の周りはきれいに丸く剃られている。そして、目頭はもちろん縫ってあるし、目なんか二倍に腫れ上がっちゃっている。血はまだ点々とついていて、麻酔が切れてあまり時間がたっていないのか、ふらふらしている。
「先生っ。ものすごい顔なんですけど、大丈夫なんですかっ」
「んん?そお?手術は成功してるし、きちんと縫ってあるよ。感心するくらい、きれいに成功」
そういう問題じゃないだろう。。。
その後、重いゆきちゃんのケージを苦労して運んだが、うちにたどりついたらわたしはほとんど動けなくなった。わたしのギックリ腰は月曜日と火曜日の仕事で再発してしまったのだった。
だが、ゆきちゃんに目薬もささなきゃならないし、餌も少しやらなきゃならない。それなのに、かがめば激痛が走り、息ができなくなる。長い時間をかけてやっとそれらのことをやりとげたが、痛くて汗びっしょり、さすがに泣きたくなった。
次の日、やっと車を運転して今度は自分の医者に行って、そしてクソミソに怒られた。「自分を過信して動きすぎましたね」とのこと。それ以来二日間(そして、たぶんもう三日ほど)「ギックリ腰病人」と「術後の病猫」は、キッチンのカウンターにたくさんの薬を並べて、仲よくうちにこもって安静にしている。やれやれ。
南イタリアは、悲しいかな、北に比べると生活水準が昔も今も低い。だから、十九世紀の終わりから二十世紀の初めに夢を持ってアメリカに渡ったのは、大半が南イタリアからの人々だった。そして、ブーツの形をしたイタリアの爪先にあるシシリア島は、その南イタリアの中でも特に貧困層の多い地域だ。マフィアを生み出したことでも有名なこの地域は、嘘かマコトか、チーズすら買えないほどの貧乏な生活の中で、代用品としてパンくずを入れることを発明したという。なるほど、見た目には「チーズを入れたような」雰囲気かもしれない。
かくして、料理の世界では「シシリア風」と名がつくと、スープだろうがパスタだろうが、ちぎったパンがはいるようになったというわけ。
今晩は、このシシリア風のスパゲッティ・アルオーリオ。トマトソースを使わない、ニンニクオイルのパスタだ。大海老のプリプリと、ついでにパルミジャーノチーズ、グラナ・パダーノ(Grana Padano)のかけらも買ったので、「大貧民」スパゲッティじゃなくなってしまったが仕方がない。
湯を沸かしている間に、ニンニクと赤唐辛子を刻み、ほうれん草とパセリを洗ってざく切りにする。レモンの皮を削って刻む。レモン汁も絞っておく。パンはトースターでカリカリに焼き、あとはブレンダーで一気にざっと砕く。パン粉じゃないのだから、あまり細かくしない。
スパゲッティは六分ほどでゆであがるものだから、それと同時に出来上がるくらいに気をつけないと、ね。だから、ここからはフライパンがふたつ登場。
ひとつめのフライパンには、オリーブオイルで塩コショウした海老をさっと焼く。
ふたつめのフライパンには、これまたオリーブオイルをたっぷりいれてニンニクと赤唐辛子を放りこむ。香りが出たら、ほうれん草とパセリだ。すぐにしなってくるから、塩コショウしてゆであがったスパゲッティをすばやく混ぜ合わせ、レモン汁をざっとかけ、最後に砕いたトーストをばらばらとかけて、出来上がり。
スパゲッティを盛って、海老をちょんとテッペンに乗せ、パルミジャーノをそろりそろりと削る。「さて」と立ち上がって海老の下ごしらえから始め、テーブルでフォークを口に運ぶまで、実は三十分以下の料理だ。
パルメザンチーズは日本のスーパーでも手にはいるが、イチバンよく見かけるのはあの円筒形の容器に入った粉チーズだ。あれは、いただけない。香りも味も全く違う。まぶしただけで、トマトソースさえどろどろと濁るシロモノだ。
紙にしっかりと包んで冷蔵庫にしまっておけばかなり持つので、わたしは必ずイタリア食品店で本物をひとかけら買う。パスタやサラダ、そしてオーブン料理などにも使えるし、何よりピーラーでそうっと薄く切って加えるだけで、味に深みが出る。お試しを。
ギックリ腰だって、腹は減る。病院に行ったあと、家でストレッチをしながら少し来週の準備をしていたが、やっぱり何かつくらなければ。幸い、ストレッチで筋肉を伸ばしているうちに痛みも昨日よりはマシになった。
スナッパー(タイの一種)のフィレを解凍し、オーブンを温める。その間に、にんにくをつぶし、たまねぎをスライスし、庭からむしってきたバジリコとオレガノを刻む。赤唐辛子もちょんちょんと刻む。フライパンにオリーブオイルを熱し、まずにんにく、たまねぎ、そして赤唐辛子。にんにくに色がついたぐらいで、バジリコとオレガノを入れてさっと混ぜ、ケイパーをぱらぱら、白ワインをざっと注いでアルコールを飛ばす。その間にトマトをサイコロに切り、これも放り込む。天板にスナッパーを並べて塩コショウし、、フライパンの中身を均等に置いてから、オーブンで七-八分。
サラダとレモンをひときれ添えれば、立派な金曜日のディナーの出来上がりだ。魚のオーブン料理というとどうも大掛かりなものを想像してしまうが、何もデカイ魚の丸焼きばかりではない。こんなふうな切り身だって、どちらかというと「もてなし料理」風にもなるのだ。
そう言えば、敬虔なクリスチャンはみな金曜日に魚を食べる。キリスト教社会では、金曜日のディナーは必ず魚なのだ。以前住んでいたスイスでは、金曜日になると夕飯の支度の時間に魚の匂いが界隈にただよったものだ。まあ、スイス人の作る魚料理なんてものはフライとバタームニエルぐらいなので、魚と「油」の匂いといったほうがいいかもしれないが。
さて、料理に使った白ワインがまだ残っていた。痛み止めに白ワインなんか飲んでいいのかなあ、と思いながらも、まあいいや、金曜日なんだから。


