2007年4月アーカイブ
休暇というものは、「短すぎる」のが常。
パースに戻ったら、もう明日から新学期だ。が、まだ準備万端と言うわけではない。
学期休みでバンコクに行くときには、ほんの少ししか「宿題」を持っていかないためだ。昨年からあまりにも忙しく、休みぐらいはあまり働かないようにしないと体のほうがまいってしまいそうだったのだ。
二日しかない今週の分だけ何とかカタチだけは整え、新しい籠に全部次々に放り込む。実はわたしの「仕事用バッグ」は、なんとスーパーでよく見かける「プラスチック製お買い物籠」だ。
仕事用大型バッグは、ビジネスをしていたときのものも含めてかなりの数を持っているのに、、センセイ用としては結局この五百円もしないプラスチックの籠に落ち着いてしまった。床や地面においても、汚れないし倒れない。四角いものも丸いものも(つまり本もノートも答案も筆箱も弁当も飲み物もお菓子もだ)、全てブチこめる。とても軽い。車で通勤なので、かさばるということもない。後ろのシートにぽんと置けばいいだけだ。放課後どこかに行くときのために、一応ごく小さな皮製バッグに財布とティッシュと口紅ぐらいは入れているが、これも籠のすみにある。だから、いざ友達とオデカケという時にも、籠を持ってパブやレストランに行くなんてことにはならない。
重い大型皮製バッグは、肩がこりそうで到底使う気も起きなくなった。
ゆきちゃんも、もちろんプラスチックの籠は大好きだ。いや、別にこの籠だけが好きというわけではなく、狭いところや小さい箱に入るのが猫の習性なんだろうけど。
バンコク滞在最後の日、十年以上かかさず通っているイタリア料理の店に行く。
この店は広告を全く出さないにもかかわらず、地元のガイジンたちで大変にぎわっている。料理は美味だし、サービスもよい、照明を落とした雰囲気も落ち着ける。その上、自宅から近いと来ちゃあ、行きつけにならないわけがない。
ところが、いつもながらの悪いクセ、レストランに行くと隣の席のひとが気になる。
右隣は、どうも英語のアクセントではオーストラリア人らしい中年のカップル、食事中全く会話がない。二十年結婚していたら、やっぱりこうなるんじゃないか、という見本だ。全七品の「おまかせメニュウ」を頼んだらしく、まあ出てくるわ、出てくるわ、わたしも何度か試したことがあるが、とても全部食べきれない量だ。オクサンは、最後の肉料理で轟沈、デザートは一口で押しやってしまった。ああ、ここのホームメイド・アイスクリームは絶品なのに、ねえ。
左隣は、中年のイタリア人と地元のタイ人女性のカップル。デキャンタするようなワインを頼んだものだから、フロアマネージャーがすっとんできた。うやうやしくデキャンタしてもらったワインは、くるくるとグラスを回しながらうやうやしく飲む。ここまではいいんだけれど、その後ずうううううううっとグラスを回し続けるのだけは、やめてほしい。目が回りそうだよう、と言ったら、わたしのパートナーは「じゃあ、そんなに隣のテーブルを凝視しなければいいじゃん」と、シゴクもっともな意見を出す。
どんなワインを頼んだんだろう、とものすごく気になったが、どうしてもラベルが見えない。地団太踏んでも、見えない。ああ。
そのうちに、彼の同伴タイ女性がやっとワインに口をつけた。そして、ぶうと顔をしかめる。しかめただけでは足らなくて、隣にあった水のグラスから、水と氷との両方をワイングラスにぶちまける。ごくりと飲んで、やっと一息つけたといったふうだ。その間二十秒足らずだったと思うが、そのイタリア人とわたしは同時に凍りついた。凍りつかなかったのは、彼女とその彼女の行動が見えない位置にいたわたしのパートナーだ。
たぶんものすごーく高いワインだったろうが、ワインを飲みなれないその女性にとっては酸っぱいアルコールぐらいにしか思えなかったのかもしれない。
毎度遭遇する「ガイジンと地元タイ人エスコート女性」だが、みんな一度はシッパイするんですなあ、と一人納得する出来事だった。どうして、もっとタイ人が気楽にくつろげるような店に行かないのかなあ。そのほうが、口説きやすいだろうに。
そのイタリア人、あとのワインは全て自分で飲んじゃったようだが、さらにもう一本またもや「デキャンタするようなワイン」を頼んだ。そして、今度は「誰も」(つまり、彼もそしてデキャンタしたフロアマネージャーも)その新しいワインを同伴の女性に勧めない。
笑いをかみころしたわたしは唇がふにゃふにゃになり、あわててナプキンで口を隠した。いけない、いけない。
ちなみにわたしが飲んだのは、オーストラリアから持って帰ったTaylors Jaraman Cabernet Sauvignon 2003。ミディアムボディで飲みやすいヤツだ。ちょっとオークがきつすぎるかな、とも思ったけれど、リッチに仕上げたメイン、「鶏の骨なし腿肉のパンチェッタ、チーズ、葡萄詰め」に大変よくあっていたように思う。
今回いつものように山のような郵便物を開いていたら、新しい日本のDVDショップの号外が入っている。さっそく、邦画と韓国映画にひとつだけタイ映画を入れて、まとめて注文してみた。日本のDVDショップなら、タイ映画も日本語字幕つきだ。
英語タイトルは「Beautiful Boxer」。なんで「ボクサー」を「ボーイ」にしなきゃならなかったのか、邦画の題名にはいつも理解に苦しむ。ボクサーの話なんだからそのままにしときゃいいのにねえ。
とにかく、この「ビューティフル・ボーイ」は、九十年代末から新世紀にかけてタイでかなり有名だった、ムエタイ選手ノン・トゥームの話だ。
厚化粧をしてリングに上がり、勝つと相手選手に「ごめんね、痛かったでしょ」と頬にキスすることでも有名だった。計量のときに、裸になりたくない、と泣いちゃったこともある。要するに、ちょいとキワモノ的な名声のほうが先になってしまったが、彼ははっきり言って強かった。出てきたばかりの十代のころはほとんど全戦全勝、その後ホルモン投薬を始めたあたりから弱くなっちゃたけど。
だから、日本の東京ドームで女子プロの選手と試合をしたあたりは、人気が下降線をたどっていたころだ。
タイ映画には、普段「どうしようもないコメディー」か「どうしようもないホラー」しかないので、こんなふうにマットウな映画が出てくると正直感心してしまう。そりゃあ、苦笑してしまうようなヤラセの場面もあるが、本筋はあくまでも真摯に「オンナになりたかったキックボクサー」を追う。
映画自体は、彼の幼少時代から性転換手術をして女になるまでを、手術直前のインタビューで語ったという形をとっている。タイ北部の映像はとても美しいし、ムエタイの試合もかなり迫力があって怖いくらいだ。
しかし何よりも、強靭な肉体を持つ百戦錬磨のボクサーが「オンナになること」を夢見て戦うという大いなる矛盾。この矛盾をどのようにして共存させ、やがて心と身体を矛盾なきまで変化させるか、ということにわたしは興味があった。しかし、万人受けをねらったためか、あるいは美しい映像を損なわないためか、ところどころに入る彼のナレーション(インタビューという形をとっているためだ)も、苦悩を深く掘り下げはしない。どちらかというと、「なるほどねえ、かわいそうにねえ」というコメントで終わるようなさらりとした告白だ。なんでナレーションだけ英語なんだよ、という疑問も残る。
ノン・トゥームを「有名になるためにオカマちゃんのフリをしたキックボクサー」と思っていたひとたちを感動させ、あらためて彼の強さとその内面の葛藤を振り返らせるには、確かに意義のある映画だと思ったが。
何年か前に、彼女(手術後なのでもう「彼」ではなかった)の実際のインタビューを読んだことがある。そのとき、「もし生まれ変われるなら、男と女とどちらを選びますか」という質問があった。彼女の答えは驚いたことに「やっぱり男がいいです」。
「ただし、今度は心も身体も男になりたいです」と付け加えたのが、大変印象的だった。
ひとと話すときにちょうどよい距離、というものは確かにある。
わたしの場合、それは自分の腕をまっすぐ前に伸ばしたくらいの距離。遠すぎもせず、かと言って唾が飛びそうなほど近くもない。このくらいの距離が、何だか安心して話せるような気がするのだ。これは、友達と話すときにも、ビジネス上の会話でも変わらない。
そりゃあ、唇が触れなんばかりの距離で話すことも(回数は少なくなったが)ないわけではない。が、この場合は双方の選択と合意と新密度のもとに距離が縮尺されているのであって、一般的な「ちょうどよい距離」には当てはまらない。
ところが、たまにこの「距離」を脅かすひとたちがいる。
近すぎるのだ。
「やあ、元気?」というところから、たとえばパブカウンターでの立ち話が始まる。そのときにはもうすでに彼の顔は息が感じられるほど近い(とわたしには思える)。
「うん、元気よ。ここんとこ見なかったけど、どうしてたの?」と言いながら、わたしは1ミリずつ後ずさりする。
「いやあ、実は××が○○でさあ…」ほんの少し遠ざかっていた彼の顔が、またズームアップする。わたしが後ずさったぶんだけ、彼が前進したからだ
「へえ、でも△△だったのにぃ」わたしのカカトが後ろにあった椅子にぶつかる。おっとっと、と大げさに振り向いて、その背の高いスツールをどかすフリをしながら、すばやく後ろに廻る。
「うん、だけど△△は◇◇になっちゃったんだよ」彼の手がスツールの背もたれにかかる。
「あ、そうか。で、◎◎◎はその後どうした?」スツールはまだわたしと彼の間にあるが、油断はできない。
「◎◎◎は、××と一緒だよ。君はいまどこの学校?」背もたれにかかっていた彼の手はすでにスツールのふちにあてがわれ、クルクルまわしたかと思うと、その横に立つ。再び彼の顔は近づき、寄り目になったわたしは、じりじりと後ずさり。
「わたしは□□にいるの。でも○○が大変で…」L字型になったカウンターの角に触れて、わたしの後ずさりは今や左後方へと方向を修正。
「なるほどねえ」彼もそのまま方向を右前方に修正、さきほどカウンターにおいたビールグラスを取り戻すために大きく後ろを振り返るが、即座にわたしの顔面に鼻がくっつきそうなほど接近。
こんな具合に、いつも追い詰められてしまう。
共通の知り合いにちょっともらしたこともあるが、そのひとも大きくうなずいたから、これはわたしだけの悩みではないらしい。彼が、その共通の友人(オトコ)とわたし(オンナ)の両方にヨコシマな想いをいだいているとは到底思えない。また、「彼」はもちろん「彼女」のこともあるし、東洋人や西洋人のこともある。こればかりは、文化の違いというわけでもなさそうだ。
「ちょうどよい距離」から一歩踏み込むとき、ひとは何かしらの決意をいだいているものだ。好意を持ってもう少し相手の傍に寄りたいと思うとき、そして反対に相手を威嚇しようとするとき。自分にとっての安全な距離さえ無視して相手に近づくことは、どちらの場合にも少々の緊張感をはらむ。
ところが、この感覚を持たないひとたちがいる。相手の唾がかかるほど近よっても気にならず、フツウにおしゃべりを楽しむことのできるひとたちだ。それどころか、相手がひけば、必ずと言ってよいほどまたその距離を縮める。
相手の体臭と同じで、こういうことは面と向かって「悪いんだけど…」と言うもままならない。だって、相手はわたしに近づきすぎているなんて思いもよらないんだから。反対に、ヘンに誤解しているんじゃないか、ととられるくらいがオチだ。それに、距離感以外はとても気持ちのよいひとだし、話していても面白い。
だから、そんなひとと一緒のときは、きちんと椅子に座ったほうがいい。それも彼の横ではなく、テーブルを挟んだ向こう側だな、うん。
バンコクの休暇も残り少なくなった明日金曜日、わたしはその「近づきすぎるひと」を含む何人かの知り合いとディナーの予定。


