2006年1月アーカイブ

feast_albany.jpgアルバニーから五十キロほど北に行くと、マウント・バーカーという小さな町がある。何の変哲もない田舎の町だが、この町の一角で育てられた「放し飼いの鶏」は名古屋コーチンのように全国的に有名だ。身はしまっていて美味しく、ブロイラーにありがちな臭みもない。普通の鶏肉に比べるとかなり高いが、スーパーでも手にはいる。
今日は、オーストラリアン・ディ(豪州建国記念日)で祝日なのでほとんどの店が閉まっている。昨日のうちに、鶏を一匹買っておいてよかった。

ここ二日ほど外食で揚げ物が多かったせいか、今晩はこれを使って裏庭でバーベキューだ。近くの農家で、ズッキーニ、ゴールデン・キャロット(金色のニンジン、味はフツウのものと同じ)そして皮付きのトウモロコシも仕入れてきた。

朝ハイキングに出かける前に、一応鶏肉だけは下ごしらえをして置く。丸のままの鶏肉を開き、レモン汁、オリーブオイル、塩、コショウ、にんにく、バジリコのみじん切りを混ぜ合わせ、このマリネ液に鶏肉をドブン。ラップして冷蔵庫へ。

清々しい森の散策のあと、近くのパブで白ワインを二杯ほどひっかけて帰ってきたのが、五時。
トウモロコシの皮を芯から離さないように剥き、毛をむしり取る。そのまま水をはったボウルにつけること一時間。皮を戻してから、バーベキューの上で蒸し焼きにする。水を含ませたのは、こうしたほうが焦げないからだ。
鶏の「大股開き」はきれいにマリネ液をすっているから、そのままバーベキューに乗せて蓋をし、1時間半ほど。鶏肉が焼きあがるころに、他の野菜を乗せてこれまたじゅうじゅうと焼くだけ。
サラダには、ハイキングに行ったときに摘んできたナスターシアムの花弁を添える。ナスターシアムは、鮮やかなオレンジ色をしていて、ちょいとピリリと舌に快い。生食できる花だが、そこら辺に雑草のごとく生えている。

さて。
アルバニーの隣デンマーク市のワイナリー、West Cape Howeのシャルドネを何本か合わせて、今宵の晩餐の始まり、始まり。

pelican.jpg十六日に寒い東京から暑いバンコクに戻り、二十二日にその暑いバンコクからさらに暑い三十六度のパースに戻り、さらに二十四日からは十二度のアルバニーに来ている。あまりの環境の変化に、体温の調節までおかしくなりそうだ。

アルバニーはパースから南へ四百キロ、南極海に面する港町だ。美しい景色と様々なレジャーを求めて、たくさんの観光客が訪れるリゾートでもある。
一応六日ほどの予定で訪れたが、雨が降ったらここら辺は寒い。どうやら、一週間ほど北オーストラリアにとどまっていたサイクロン嵐の影響らしい。(注:オーストラリアは南極に近いので南にいけばいくほど寒く、北はもちろん熱帯気候になる)

着いたばかりの昨日はまだ灰色の雲がかかっているだけだったが、今朝から窓を激しく打つ雨になってしまった。寒い。長袖のセーターとジャケットを持ってきてよかった。
せっかく国立公園にハイキングにでも行くつもりだったのに、この天気では無理だ。予定変更して、荒れる海を見ながら、エミュー港で「フィッシュ・アンド・チップス」を食べる。ぎょっとするほどの量だが、かりかりと揚がったフライドポテトが美味しい。

バタバタという羽ばたきに空を見上げたら、ペリカンが街灯(というより「港灯」だ)にとまろうと苦心中だ。大量の糞で汚されないようにと、彼らがとまり易い電灯にはペリカンよけの棒が何本も張り出している。大きなクチバシを斜めにし、細い柱の上で危なっかしくすべりながらやっと重心をとった。ゴクロウサン。

stuffedveal.jpgバンコク最後の晩、行きつけのイタリアンレストランへ。
ホテルの高級イタリアンのように、一瞬息をのむほど高くはない。しかし、灯はおとしてあるし、雰囲気も落ち着いていて趣味がいい。スタッフのサービスも行き届いている。全く広告を出さないレストランだが、予約なしではまず入れない。そして、もちろんサンダル履きでも入れない。
今晩のわたしのメイン・ディッシュは、生ハムでくるんでグリルしたフォンティナ・チーズ、マッシュルーム、仔牛肉に赤ワインソースをかけたもの。

面白いことに、このレストランは三回転する。六時ごろまっさきに来るのは、日本人とその家族だ。そして、七時半から八時にかけて、ゲルマン系ヨーロッパ人たち。最後に九時すぎてから現れるのは、決まってイタリア人を含むラテン系のひとびとだ。食事のオーダーは十時までだから、ぎりぎりに登場して、キッチンが閉まってもまだゆっくり珈琲や食後酒を楽しむ。
わたしが行くのはほとんど「ゲルマン民族」の時間帯で、ようやく店が立て込んできたときだ。

まあこのレストランだけではないが、今晩も見回したら日本人男性とそのエスコートらしきタイ女性がいる。男性は小脇にセカンドバッグをかかえたカジュアルな服装の五十代、そして女性は少々化粧の濃い二十代前半。これに加えて、片言のタイ語と英語で二言三言話したあと沈黙がただよっているのを見れば、初心者ではなくても彼らの関係が理解できるというものだ。
西洋料理に慣れていないタイ人の常で、彼女もちょんちょんと皿のものを少しつついただけで、かなり残している。男性は黙々と平らげ、ワインをぐいぐいと飲み、次第にマッカッカになりつつある。
いつも感心してしまうのだが、こういう食事って美味しいんだろうか。

わたしの知り合いの西洋人の男たちは、タイ女性のエスコートを頼んでもこういう場所には決して連れて来ない。いつもタイ料理だ。タイ人の行くタイ料理の店ならば、多少値がはろうがエアコンがついていようが、彼女たちが好きなもの、食べ慣れたものをタイ語で注文できるからだ。
そして、西洋料理のとてもカジュアルなレストランなどでは、そういう女性たちのためにタイ料理を少し置いているところもある。あろうことか、近くの屋台から出前まで注文できる。
そうした気の置けない環境で、彼らは身振り手振りを交え、時にはどうしてもわかりあえないときには、店の従業員まで通訳に立ててコミュニケーションをはかろうとする。沈黙はあり得ない。

ここ十年以上観察したわたし個人の経験だが、サービス業の女性たちを高級レストランに連れて行ってゴチソウする日本人男性をかなり頻繁に見かける。そして、あらぬ方角を見つめたり、新聞を読んだり、どうにも気まずそうな沈黙に耐えている。

どうも、「デートとはかくあるべき」という日本の常識にこだわりすぎているんじゃないかなあ。

金を払ったエスコートサービスか「同伴のクラブホステス」かはわからないが、一応は一期一会の「デート」だからだ。「デート」というものは、「彼女」にフトッパラなところを見せるため、日系デパートに連れていって何かアクセサリーのひとつも買ってやるところから始まる。美味しい酒を飲めるところにも行かなければならない。最後に、高級レストランは当たり前だ。それで楽しんでいるかと言うと、なぜか男性たちの顔はうれしそうではない。エスコートの女性たちも、必要以上に大きなディナー皿とフォークを前にして、居心地が悪そうだ。

こういうテーブルが隣にあると、わたしはもう好奇心イッパイで目が離せない。悪いクセだとわかっているんだけれど。

先月の涼しい快適なタイがウソのよう、東京からバンコクに戻ったら、もうしっかりとムシ暑くなっている。今日はいつもの交通渋滞にゲンナリしながらも、眼科専門病院へ。

コンタクトレンズは、もうすでにわたしの体の一部と言ってもいいかもしれない。
それも、オーダーメイドで乱視矯正してあるハードコンタクトレンズだ。眼鏡では、たとえ軽い材質のレンズを使ってもビン底になる。
それほど乱視がひどいので、ソフトコンタクトでは視力が出ない。しかし今回日本に帰ったら、「乱視用使い捨てソフトコンタクト」まで発売されていた。便利になったものだ。
今さら新しいものを使ってみる気にはならないけれども、ね。

と言うのも、実はレーザー手術で近視・乱視矯正をしてしまおうと目論んでいたからだ。何人かの知り合いがすでに手術を済ませ、眼鏡もコンタクトもいらない生活を楽しんでいる。副作用もないらしい。中学生のときから裸眼では目を細めなければならなかった、ツライ過去とこれでお別れだ…と一大決心をして、十二月末にバンコクの眼科専門病院に行った。
「ソフトコンタクトは一週間でいいのですが、ハードコンタクトのひとは検査の前に最低四週間はずしていないと、正確にチェックできません」
なんだよー。

四月にまたバンコクに帰るときには、絶対に。
というわけで、今日は簡単な視力検査だけして、新しい眼鏡を買うことにした。四週間以上コンタクトなしで生活するには、わたしの古い眼鏡は弱すぎるのだ。車の運転ができない。標識が見えない。夜はもっとコワイ。事故を起こす前に、眼鏡を新調しなければならない。
ところが今日また同じ眼科病院に行って検査をしたら、乱視矯正レンズを作るには最低でも一週間かかると言う。「フツウの眼鏡なら明日できますが、アナタのはオーダーなんです」

結局、わたしの目は依然として元のド近眼のまま、加えて眼鏡の新調までオーストラリアに戻ってから、となってしまった。がっかり。

相撲を見ていたら、ゆらっと一回だけ揺れた。おや、と思ったらすぐにグラグラッと来た。ストーブを消して、お勝手口だけは開ける。
それだけのことだが、母がちょうど買い物に出かけていたこともあって、家にひとりっきりである。結構どきどきしている自分に気づいて、可笑しくなった。テレビを見ると東京二十三区は表示されないくらい弱い震度らしい。茨城で震度3だ。
ここ何年も地震というものを経験していないから、久しぶりの「グラリ」に大アワテだ。そう思ったら、マルセル・プルーストの世界じゃあるまいし、いきなりずいぶん昔のことを思い出してしまった。

二十年ほど前、一度だけ日本でひとり暮らしをしたことがある。六本木の、旧防衛庁の脇道をちょいと入った所だった。家具付きで敷金・礼金なし、数ヶ月で出られるアパートなどという条件を出したら、ここしかなかった。つまりは、ガイジン用である。遊ぶにはとんでもなく便利だったが、住むところじゃないな、としみじみ思ったものだ。日が落ちれば華やかだが、何しろ昼間は汚い。そして、普段の生活に必要なものを買う店が極端に少なかった。明治屋で毎日買い物ができるわけもない。

住んでいたのは、ほとんどが白人モデルたちだ。エレベーターの入り口で額を打つほど背が高く、そしてとても美しくて若い女性たちばかりだった。わたしもとても若かったが、何しろフツウの日本人のオンナノコだったから、彼女たちの方がジロジロと見るほどそこでは珍しい存在だった。

ある晩、そこで地震が起きた。
かなり大きなものだったから、窓は音をたてて震え、天井の灯りが弧を描いて揺れた。普段から、「地震のときは、すぐには外へ出るな。火を消せ」というのが鉄則だったから、わたしはその通りにして窓を開けた。

もうそのときには、アパートの住人が叫びだしていた。いや誇張ではなく、本当に彼女たちは阿鼻叫喚の騒ぎだったのだ。20戸ほどの小さなビルだが、そこから白人モデルたちが叫びながら外に飛び出していった。わたしの部屋のある三階の窓から覗くと、下では裸足のひと、パジャマ姿のひと、バスタオルを巻いただけでまだ頭にシャンプーをくっつけたひと、スーツケースをしっかりと抱えているひとなどが右往左往している。管理人が、もう大丈夫だから、と英語でなだめて回っていた。
その隣の写真スタジオからは、「なんだ、何の騒ぎだ」と撮影をしていたらしいひとたちが集まってくる。まだ若かった坂東玉三郎と市川猿之助も、着物姿でモデルたちの騒ぎを見に出てきた。

遠くに「津波の恐れはありません」という警察のパトロールのアナウンスを聞きながら、フタ昔前のわたしは目を丸くして、「地震の経験のない白人モデルたち」と「日本の芸能人たち」を見下ろしていた。

sushi.jpg刺身は正月にイヤというほど食べたが、そう言えば、まだ寿司を食べていない。母とふたりきりだったので、近所の寿司屋からの出前を注文した。

「裏の**ですからね」と母が電話で念を押す。実家の苗字は非常に珍しいので、あまり間違われることがないが、去年実際にあったらしい。出前新米のオニイサンが、同じ苗字の違う家に出前を持っていってしまったのだ。以来、寿司屋にとって「裏の**さん」が実家で「下の**さん」がもうひとつの家になった。

「まいどー」の声とともに、玄関のチャイムがピンポーンと鳴る。
「このごろの出前は、勝手口ってもんを知らないんだから」と、母がブツブツ言いながら立ち上がった。

一年に一回日本に帰るたびに、流行っているものを知る。そりゃあネットでそういう言葉に出会うことも多いが、活字になったものとテレビや実際の会話で使われているものとでは雲泥の違いがある。活字では伝わらない事情やニュアンスなど、だ。

今回気になったのは、堂々と様々な場所で言われる「勝ち組」「負け組」という言葉。
所有物とステータスで象徴される「勝ち組」という社会に参加できるひとたちと、それを持たないことによって前者より「劣る」社会に属するひとたち。どちらの社会もお笑い系タレントたちにテレビで巧妙に笑い飛ばされているが、その根底には不特定多数の弱者を攻撃する心が見え隠れして、わたしには笑って済ませることができない。

そしてその社会を無視するひとたちは、ジブンの世界に没頭しなければならない「らしい」というのも、今回びっくりしたことのひとつだ。
散歩だの、読書だの、「個人生活を豊かにすると考えられている」行動だの、またもや増えた新刊の雑誌は、こうしたマニアックな世界を懇切丁寧に指導している。個人的な経験を得るために、どういうところから始めてどういう風な経過をたどい、どんなものが必要かということを指示されるというのもおかしなものだ。散歩したいと思えば、どんな道を通って何を見てどう感じればよいのかというマニュアルがある。読書したいと思えば、ジャンルによってどんなものを読めばよいのかというマニュアルがある。著名現代作家の作品を全部読まなくとも、あらすじだけのダイジェスト本まである。イタリア料理を食べたいと思えば、どんな予算でどんなものを食べてどんな風に味を表現すればよいのかというコメントまで載っている。すごいなあ。
これに沿って行けば、「個人的に豊かに生きる」ステータスの社会に属することができるのか。

シンプルライフや、健康な生活や、趣味の世界、ってのも何だかこう考えてみると、やはり薄っぺらな「流行りもの」のひとつのような気がしてならない。

久しぶりに、「和風」焼肉屋に行く。
何故「和風」かと言うと、やはりバンコクにある韓国人経営レストランとはちょいと違うからだ。バンコクのそれは、座ってメニューを渡されている間にどさっと置かれる「ツキダシ」からして違う。様々なナムルやキムチの皿が所狭しと並べられるからだ。分厚い骨付きカルビは、焼きあがるとじょきじょきとハサミでブツ切りにしてくれるし、ビビンバはまるで石のスリバチのように大きくて重い器で出てくる。韓国料理用の銀箸は細くて長くてとても使いにくいのだが、そのビビンバをかきこむと、美味しくてホッペタが落ちそうになる。
実家の近くの店は、七輪などという懐かしいものがどでんとテーブルの真ん中に鎮座していて、それはそれで風情がある。それに、日本語を使う店員さんたちがてきぱきと動くところがいいなあ。こういう流れるようなサービスというのは、バンコクではかなりいい店に行かないと客には与えられない。

それにしても、鍋と焼肉は男の料理だ。

いや「料理」と言っては語弊がある。家でする場合はもちろん女たちが支度をしなければならないが、いったん席に座ったが最後、あとは男の仕事なのだ。少なくとも、わたしの家族・母方の親戚は皆男たちが作る。

母は箸を持ったまま、どこの肉が焼けそうかな、と睨んでいる。妹は黙ってウーロンハイなど傾けながら煙草を吸っているが、目はどうしても網の上の肉にちらちらと流れる。弟は煙草をくわえながら網の上の肉を裏返して、母に「灰が飛び散るでしょっ」と怒られている。妹の旦那さんは、黙々と肉を焼き、時々「あ、ここはもう食べられますからねー」などと、甲斐甲斐しい。
思えば、父が生きていたときにも同じ光景が繰り広げられていた。全く料理をしない父だったが、すき焼き、鍋、焼肉など、テーブルで「作りながら食べる」ものは父の担当だった。

がび家の伝統である。
他の家庭で男が鍋と焼肉を仕切るのかどうかは知らないが、過去に結構たくさんの男たちと焼肉を食べたにもかかわらず、どうもわたしには「焼いた」ような記憶がない。

heater.jpg連日の寒さで「出不精」となってしまい、正月に姪からうつされた風邪もまだ治らない。インフルエンザの注射をしていても普通の鼻風邪には効かない、と聞かされていたが、本当だった。何よりも、食べ物の味があまりわからないというのがツライ。

一日中エアコン暖房の中にいると、空気がとても乾いていることに気づく。この冬に買ったばかりのエアコンは最新の機能を備えてはいるが、「しっとりナントカ」のボタンを押してもやはり喉が痛くなる。加えて、狭い部屋のエアコンはどこにいても風を感じなければならず、あまりくつろげない。乾いた咳を繰り返していたら、母がどこからか石油ストーブを引きずってきた。
「やだ、まだそんな古いの使ってたの?」
「だって、たまに焼き芋食べたくなるから」

思い出した。
わたしたちの小さいころも、やはり石油ストーブが部屋の真ん中にあった。そのころのストーブは「アラジン」。薄緑色をした独特の丸い筒を持ち、丸い窓から青い炎がちろちろと見える。このアラジンストーブは、暖房の役を果たしていただけではなく、その平べったいアタマにはやかんや、アルミホイルで包んだサツマイモを載せることもあった。だから、わたしの記憶に残る日本の冬は、ストーブの鼻をつく石油とその上でゆっくりと焼けていくサツマイモの匂いをともなっている。

アラジンストーブはその後、少し改良されて丸い筒をたおさずとも点火できるものに変わり、かなり長い間実家の居間を暖めてきた。しかし今母が大事に使っているのは、このアラジンではなく後ろに反射鏡を持つ型だ。アラジンは全て寿命をまっとうしてしまったらしい。
もっと新しい「石油温風ヒーター」と呼ばれるストーブもあるのだが、「風がイヤだし、危ない」と母は言う。が、この新しい石油ストーブが前方に風を送るタイプなので、上部で「イモが焼けない」というのが本当の理由らしい。

旧式の石油ストーブに火を入れると、赤い灯がめらめらと上がる。それを調節して落ち着かせたら、エアコンのように長いこと待たずとも部屋はすぐに暖かくなった。そして暖かさが優しい。湿り気をおびた熱が、空気を乾燥させることなく広がっていく。
暖かさに惹かれて、十六歳のヨボヨボ愛犬が寝床から出てきた。ストーブの真ん前でゴロンと横になり、もう気持ちよさそうにイビキをかいている。
さて、サツマイモでも買ってこようかな。

nibuta.jpg買い物から帰ってきた母の包みを開くと、大きな豚モモ肉のかたまりが五つも出てきた。「お正月は終わったばかりなのに、こんなにたくさんのお肉をどうするの?」と聞いたら、「ふふん、オカアサンの煮豚は美味しいのさ」と来た。近くに住む妹夫婦たちの大好物なので、かたまり肉が安いときに大量に作ってやるらしい。

作り方はいたって簡単。
フライパンに油を熱して豚肉にまんべんなく焦げ目をつける。そして、大きな鍋にしょう油、砂糖、水、酒、ネギのぶつ切り、ショウガを入れ、その煮汁でコトコトと一時間半ほど煮るだけだ。煮汁が足りなくなったら、水を足す。材料を入れているところを見たら、茶碗とスープスプーンでイイカゲンな目分量だ。ああ、こういう作り方はもしかしたら遺伝、血の為せるワザだったのか。

台所から、ぷうんといい匂いがしてくる。
「オカアサン、一個くらいわたしの分も取っておいてね」と念を押した。

okazari.jpg日本出張が二ヶ月に一度はあったビジネス時代と違い、今は年に一度正月だけの東京里帰り。それも、正月ラッシュを避けて三が日が過ぎてからのことだ。しかし今年2006年は、正月二日まで実家で過ごしている弟の家族に会いたくて、元旦の朝バンコクを発った。

宮崎に転勤になって腰をすえてしまった弟は、それでも毎月東京出張で実家に戻る。だから弟のブッチョウヅラは里帰りのたびに一度は見るが、ヨメサンと子供たちに会うのは久しぶりだ。それも、末っ子の長男は写真で見たことがあるだけ。

玄関をガラガラと開けて、「ただいまー、おめでとうございまーす」と叫んだら、きゃあきゃあと子供の声がして皆が出てきた。大人たちの間から二つの小さな頭が覗く。ひとつはまだアカンボのころから何度も会っていた長女。そして彼女の隣に、楽しいニコニコ顔が飛び出した。あ、と思った。
写真は見ていたし、母が初めて六ヶ月のその子に会ったとき、思わず泣き出した話も知っている。目の辺りが、亡くなった父にそっくりだ。ちょいと酒が入って上機嫌だったときの父は、やはりそんなふうに丸く上弦を描く目で本当に嬉しそうに笑った。

新しい顔が、その上の世代の特徴をぽんと引き継いでいる。
弟の歩く後姿は、あまり似ていないと思っていた父とびっくりするほどそっくりだし、母の三十年くらい前の写真を見ると、何だか今のわたしの顔とよく似ている。

血の繋がりっていうのはこういうことなんだ、と何だか改めて感激してしまった。

去年の四月にアップグレードしたときに追加したものを、これまた追加してみる。何を入れていたかはオボロゲに覚えているのだが、プラグインをいれたのかCGIに数行追加しただけなのか、やはりメモくらいはしておかないとダメだな。

Movable Type の標準では「最新のトラックバック」がある。しかし、どのエントリに対してトラックバックがされたかのかは表示されない。そこで専用のプラグインを下記のサイトからダウンロードして追加。

#BLOG: MTの「最近のTrackback」にエントリーのTitleとPermalinkを!

各エントリ題名の近くにそれが含まれるカテゴリー名を表示する。前回もやったが、これもやはり完全に手順を忘れていた。結構、便利。

MT3.1x 導入手順:エントリにカテゴリを表示する

newyearcake.jpg新年、明けましておめでとうございます。

皆様が、ずずうと年越し蕎麦をすすりながらテレビで除夜の鐘を聴いたその一時間後、バンコクの「がび」んちではストロベリー生クリームケーキでシャンペンをぽんと開けました。
所変われば品変わる、のいい例です......。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。