2005年12月アーカイブ

prawncoctail.jpg浅いカクテルグラスに小指の先ほどの海老のむきみ、マヨネーズとケチャップのソースがとろりとかかっている。これがシュリンプ・カクテル。Shrimpは英語では小エビのことだ。しかし、今わたしがいるのは海老養殖大国のタイだ。一番大きい車海老 (prawn)を使わなければ、ね。

殻がついているときには、ゆうに十五センチくらいはあった。海老が大きいということは当然背中のスジも長くて太い。殻をむいてこのスジをとり、尾だけは残しておく。
そして、ぐらぐらと煮立っている湯でさっと茹でるだけ。海老のカクテルに使うドレッシングは、サウザンド・アイランド・ソース (Thousand Island sauce) だ。マヨネーズとケチャップで作るが、ちょいとスパイシーにしたければケチャップよりチリソースのほうがいい。そして、もっとヘルシーに行きたいときには、マヨネーズの代わりにプレーンヨーグルトを使うこともある。
今晩のアペリティフは、この最後のヘルシー・バージョンだ。

車海老はあまりに大きすぎて、とてもじゃないがカクテルグラスに乗らない。普通の皿を使って、ベビーサラダを敷きその上にどさり。ディルを添えて出来上がり。

mt3.2ja-2にアップグレードしてから、画像の下に文章が下がってしまう。ずいぶん前に、セットしたことがあったなあ。これを回り込ませるには…忘れちゃったよ、一回やったぐらいでは。
またもや、検索。
ひとりごと:画像のテキスト回り込みを参考にして、MT内のlib→App→CMS.pmへ。サイトに説明されているのと違う…そこで挫折しそうになったが、気を取り直して何とかニラメッコしてみる。

3761-3762行目のheight="$thumb_height"の後ろに class="img_R"をもぐりこませる。さらに、3771-3772行目の$thumb_height"の後ろにも同じくclass="img_R"を追加。ffftpでCMS.pmをアップロードしてから、今度はmovable typeの管理画面で、スタイルシートに以下を貼り付ける。(わたしは、強調文字指定のh1とかh2の後ろに置いた)

.img_R{
float: right;
border: solid 1px #CCCCCC;
margin-left:8px;
margin-top:4px;

}

薄い灰色の枠を添えたのは、白い背景の写真だとこのブログの背景と混ざり合ってレイアウト上よろしくないので。

結果はごらんのとおり。いぇーい!
しかし、まだまだ最終ゴールへは遠い。

tsunami_paper.jpg昨日十二月二十六日は、一年前にスマトラ沖で大地震のあった日だ。
わたしは当時ちょうどバンコクに滞在していたこともあって、年明けには空港でプーケットから到着する被災者のボランティア・ケアをしていた。
そのときの様子とタイそしてヨーロッパメディアの記事に関するエントリは、全て「デラシネ@Bangkok」にアーカイブしてある。

二十二万人以上の死者を出した津波は、一年を経てすでに過去のものになりつつある。しかし、実際にそれを経験したひとたち、死者と被災者に関わりのあるひとたち、そして今も復興に携わるひとたちにとっては、まだ「現在進行形」であることに変わりない。

昨日からずっと日本のメディアを追っていたのだが、一周年式典の様子と薄れかける記憶を呼び覚ますための数行以外あまり関心がないようだ。
たいていの日本人は、クリスマスから年末にかけて長期休暇をとる習慣がない。そのため、同胞の死者は欧米人死者に比べてはるかに少なかった。

タイ津波被害について

昨日二十六日付バンコク・ポスト紙には、内務省と国際連合の協力による数字が参照されていた。

死者:5395人
行方不明:2817人
外国籍の死者、行方不明者:2448人(37ヶ国)
(このカッコ内はスイス大使館の情報だが、このうちドイツ人犠牲者は500人を超える。スイス人犠牲者は100人で、まだ10人が行方不明だ。)

被災者数:54672人 (南タイ6県では12068世帯)
観光業損害額:380億バーツ
復興にかけられた金額:680億バーツ
漁船の修理、または新しく漁船を与えられた漁師数:24486人
破壊された家と土地:6799戸
避難施設に住む罹災者数:現在2990人(2005年7月当時7000人)
津波後新設された家:1907戸

津波犠牲者身元確認について

わたしが十一月に入手したあるタイ上院議員組織の資料(わたしに公に渡されたわけではないので、出所は書かない)によると、身元確認できない遺体がまだ700体以上プーケットの身元確認センターに安置されている。大半が不法滞在のビルマ人であるため、身元を確認するための資料も皆無、また家族が名乗り出ることもない。現在までセンターに安置された遺体のうち、60%の遺体が歯型、30%が指紋、9%がDNA、そして1%がその他の身体的特徴により身元が確認されている。

民間の復興支援について

タイ政府は今年一月、外国政府・団体からの全ての公的援助金を辞退した。「他のもっと貧しい国を助けてやってください」とタクシン首相は胸をはったが、一年ほどたった現在、当初の復興予定の50%しか達成していない。(先の上院議員組織の資料)
タクシン首相は「技術援助」を辞退したわけではないので、外国団体の活動は今も続いている。

ドイツ商工会議所は350以上の企業(含スイス企業)を抱え、そのほとんどがなんらかの形で復興に手を貸している。技術者を本国から呼び寄せ、罹災者避難所、学校、病院などの建設に、タイ人通訳の手を借りてそのほとんどのプロセスを自ら管理・把握していると言う。あいまいでミステリアスな過程を経ることの多いタイの事業で、こうした一貫した援助はかなりの成果を上げた。

ただ、いまだに「緊急援助」と言う形をとる組織も多く、マスタープランの欠如をうかがわせる。
たとえば大手企業が技術者を派遣して建設復興に手を貸す。もちろん、現地のひとびとを雇い、日給手当てを与えて罹災者の日常生活の回復を促す。ところが、どこからかNGO団体のスタッフが姿を現し、「罹災者支援」という名のもとに村の広場で現金をばらまくのだ。現金を持てば、タイ人は働かない。建設現場に現れない。これなども、広い視野を持たない一時的な援助に他ならない。善意が、行き場を失ってもがいている。

外国からの技術援助にも、限界がある。「ファラン・プライス」というやつだ。資材の調達に、それが顕著に現れた。ドイツ人が通訳を連れて木材、鋼材などを購入しようとすると値段が十倍になるという、タイ独特のシステムである。パッポンなどの歓楽街ならまだしも、復興援助の民間団体にまでこの「外国人料金」を適用して儲けようとするひとびとがいるのは情けない。

もうひとつの問題は、外国からの直接技術支援によって「村のヒエラルキー」が崩れ始めたことだ。
貧しい漁村では、そのほとんどの漁師たちが自分の船を持たない。いや、持てない。持っているのは、その村の村長を務める富裕家族かまたは村の外からの組織からだ。つまり、漁師たちはその船の賃貸料を払い、ガソリン代を自分でもち、そして漁の成果の20%ほどを支払う。その彼らに、船を作って与える外国の「技術援助」は、網元からもちろん嫌われた。資材を隠す。値段を吊り上げる。スイス外務省直轄の「人道支援」セクションは現在三つの島で活動を続けているが、このためわざわざバンコクで資材調達をしなければならなかった。
しかし、こうして「持たざる者」が「持てる者」に変わったとたん、今度は所有している船を貸し出して、自らは漁を放棄する漁師が増える。今まで自分たちが舐めていた辛酸を、今度はもっと貧しいひとびとに譲ったと言ってもよい。この場合、不法滞在者であるビルマ人たちのことだ。
新しい秩序が、新しいひずみを産む。

最後に

ここ2-3日は新聞に感動的な話や写真が載り、一周年の記念式典の様子は全国ネットで放送された。泣くひと、自分の思いに沈むひと、助けられたひと、最愛の家族を失ったひと。衛星放送では、欧州各国からの特別番組が組まれている。様々な角度から、ひとは失ったものを思い、未来に希望を託す。
そして、今なお、復興と援助に携わるひとたちがいる。忘れてはならない、と思う。

だから、これを読み返すことがわたしの「一周年」になるかもしれない。当時ある場所に発表するよう求められ、最終的にはボツになってしまった原稿だ。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

元旦のドンムアン空港到着ロビーには、ほとんどの欧米諸国大使館デスクが並び、プーケットから到着客があるたびに旗をかざし、「xx人はこちらで登録してください」と声をかけていた。わたしが振っていたのはスイス旗だ。
何日か前から在バンコク・スイス大使館には「何かできることがあったら」と伝えておいたのだが、連絡があったのは三十一日の午後遅く、元旦と二日のヘルプデスク・ボランティアの要請だった。プーケットから到着するスイス人のための世話、登録、独・仏語通訳だ。
すでに津波から数日たっていたが、それでもプーケット便が到着するたびにロビーは混雑と喧騒に包まれ、明らかに被災地から来たと思われるひとびとが各国ボランティアたちに近づいていく。血のにじんだ包帯、皺くちゃのTシャツ、その下には着たきりの水着、細かい傷あと、タイ航空支給のビニールバッグ。津波ではぐれた夫を病院で発見したドイツ人、甥夫婦を探しにきたスイス人、自力で死んだ恋人を掘り出したドイツ人、新婚旅行中に被災したオーストラリア人。自分自身の話も現場で聞いた話も全て吐き出さずにはいれらないと見えて、名前を登録するだけで去るひとはほとんどいない。そして、まだショックが尾を引いているためか、感情のない声でただひたすら話し続けるひともいれば、話しているうちに目に涙が浮かび声が震え、わたしが肩に置いた手にすがりつくひともいる。そして、湿り気を帯びて砂にまみれたパスポートが大量に届けられる。その持ち主たちと思われる遺体の写真が、確認と調査のためにカメラから直接ダウンロードされる。

ヘルプデスクで見たこと、聞いたこと、感じたことは、わたしの心と頭に深く刻み付けられ、行き場を失ってもがいていた。しかし、わたしは次の日もヘルプデスクに行った。この後ろからそっと手を添えてわたしを促す力は、実はわたし自身の声なのかもしれない、と思いながら。
到着便の合間に、読みかけの本を開いたままぼうっと座っていたわたしに、隣のドイツ大使館スタッフが声をかけた。「自分も被災したのにすぐには本国に戻らなかった観光客が、プーケットにまだ何十人も残っているらしいよ」 そのほとんどが、死者をそのままにしておくに忍びなく、ボランティアで処理の手伝いをしているひとたちだ。遺体を運び、洗い、写真を撮り、鑑識官たちの手伝いをし、そしてまた運ぶ。明と暗を分けた津波の瞬間を共有した彼ら「生者」は、「死者」のもとに残ることを選んだのだ。後日、ドイツ語衛星放送ニュースに映った若いドイツ人は、腐臭のために何枚も重ねたマスクをとって静かに言った。「死者をこのままにして帰れない。どうしても為されなければならないことのために、僕はここにいるんだ」

悲惨な被災地でのボランティア、バンコクでのボランティアだけではない。ささやかな寄附を送り、救援物資を持ちこむひとびともそうだ。その場にいないから、知り合いが被災していないから、という直接の理由を超えて、国境や人種や宗教を超えて、そこには個人としての「何かをしなければいけない」という意思がある。傍観者でいることより、できる範囲で手を差しのべることを選択した意思がある。
そして、その先にあるものがたとえ悲しみであれ喜びであれ、わたしたちはささやかな一歩を踏み出すことによって、自分以外の誰かにほんの少し近づいていることに気づく。
(2005年1月14日、バンコクにて)

もう金輪際やらなくてもいいかな、と思っていたのに、movable type はアップデートが速い。こないだ3.151jaにしたと思ったら、もう3.2だ。ブログにしたのには、一応ワケがある。簡単だからだ。ネットにアクセスできる環境があれば、容易にテキストをアップロードできる。
それなのに、ああそれなのに、スパムはコメントでもトラックバックでも来る。色々なプラグインをいれたおかげで、このごろバグが目立ってきた。容易にアップロードできる方法なんて本当はないんだろうが、と叫びたくなる。

加えて、わたしのドメインe-nihongo.netは元々純粋なる「日本語教育のサイト」だ。プライベートではない。米国サーバー (Aplus.net)は、サービスはいいし安いし高速サーバーで快適ということもあって、ビジネス用の二つのドメインもこちらに置いてある。
しかし、 サイトからアクセスするとウェブメールやら何やら全く日本語が使えない。加えて、Outboundがセキュリティのため禁止されている。トラックバックが打てないのだ。

そんなわけで、がびのテラスを引越しすることにした。そして、この機会に独自ドメインも取っちゃおう。
場所は、何だか回りが皆使っているロリポップにした。安いなあ。Aplus.netの半額だ。あまり安すぎて少々疑惑がアタマをもたげるが、まあいいや。

movable typeの解説も丁寧だし、アップロード自体はスムーズ。しかし、書き出しておいたデータを読み込む段階で、問題が起きた。Aplus.netでは今まで一度も起きなかった、500エラーだ。CGIが正常に動いてないよ、という魔のエラーだ。何十回もこのエラーページが出るだけで、再構築が全くできない。問い合わせたら、「分割しろ」とのこと。もその時点で、再構築が半分しかできてないので、サイト上ではリンク切れや日付の狂いが出始めている。
だめだ、こりゃ。

一旦全て削除して、もう一度MTをクリーン・アップロード。最初のデータだけ(三日分)おそるおそる読み込ませてみたら、出来た。わーい。だが、依然として時々エラーが出る。共有サーバーだから、ということだが、一体何人で共有しているんだろう。。。
検索してみたら、こういうときにはBerkeley DBよりSQLiteをデータベースに使ったほうがエラーもなく速い「らしい」。ここら辺からもう、日本語だかヘブライ語だかわからない。(←つまり、意味不明)

そして、忘れていたことに気づいた。EUC-JPをUTF-8にするつもりじゃなかったんだっけ? MTの主流はUTF-8になっていたのだが、わたしが使い始めたころはEUC-JPだった。
そこで、mt-config.cgiを訂正して、すで書き出したデータを一旦UTF-8に直す。もう一度保存し、それを三日分だけ読み込ませた。
げ。管理画面のメニューは日本語だが、肝心のエントリーやらカテゴリーやらが全て文字化けしている。シロウトなだけに、どこをどう直せばよいのかわからない。

で、もう一度削除してからMTクリーン・インストール。三回目。ロリポップさん、ごめんなさい。
mt-config.cgiで、SQLiteに修正してから、10回に分けてデータを読み込ませようやく完了。丸2日かかった。

そうしたら、スタイルシートが全く違ったものに変更されているのに気づく。3.2ja-2って全て新しいんだ。。。(絶句)
これから、テンプレートを全て修正しなけりゃならないと思うと、目の前がマックラに。

お世話になったサイト:
MovableTypeで行こう!インストールしよう(ロリポップ編) Ver3.2-ja対応版 - SQLiteバージョン
Movable Type 3.2 導入手順
tomolatte: SQLite化とMovable Type3.2-ja-2へup

asiancoleslow.jpgバンコクにいると、外食が続くことが非常に多い。そして、合間にシャキシャキしたものが食べたくなる。胃が疲れてきた証拠だ。

鶏肉はあるので、付け合せにコールスローでもと思ったが、肝心の生食用野菜がない。金曜日の夕方に買い物なんかに出かけたら、自宅に帰り着くころには餓死している。週末の始まりは、渋滞がひどいのだ。特にわたしの住む地域は、歩いたほうが速いくらいだ。
 テラスから見えるくらい近くに大きなスーパーマーケットがオープンしたのだが、歩いていくにはちょいと遠い。待てよ。こういうときのために、メイドがいるんじゃなかったのか。買い物用の自転車まで、経費として与えていることだし。
「ねえ、ちょっとそこまで行ってキャベツを買ってきてくれない?」
「キャベツってなんデスカ」
辞書がない。秘書は電話中だ。仕方がないので、絵を描いた。納得したようで、ゆっくりと鷹揚にうなずく。昼寝のじゃまをして済まないと思っているわたしより、メイドのほうが態度がでかい。

しかし、帰ってきた彼女の手にあったのはキャベツじゃなくて白菜だ。
「キャベツなかったから、これ買ってきマシタ。味おなじデス」
同じじゃないって。

シャキシャキだけは変わりないので、こうなりゃ白菜使ってサラダだ。塩をかけてしんなりさせようかとも思ったが、それでは歯ごたえが違う。そのまま使うことにした。
千切りにはできないので百切りくらいにし、ニンジンもおなじくらいの太さ。チェリートマトは半分に切り、香菜はざく切り。
ドレッシングは、醤油、ごま油、ライム汁、みりん、そしてすりゴマとニンニクだ。これを味を見ながら合わせ、一気に野菜にふりかけて混ぜ合わせる。

図らずもアジア風コールスローとなってしまったが、意外や意外、さっぱりして歯ごたえも風味もよろしく、美味しく出来上がった。

八年生(日本の中学一年生)の日本語クラスでは、ほとんどの生徒が練習問題を済ませてしまったというのに、ベンだけがまだ鉛筆を握ったまま一生懸命ひらがなを書いている。ほんのちょっと複雑な「ほ」というひらがなを書くだけでも、彼は三度ほどお手本を参照しなくては書き終わることができない。その字も悲しいくらいヘタクソだ。

ベンは、おとなしくてあまり笑わない子だ。そして、軽度の知的障害がある。日常生活に差し障りがないので教室内で専門アシスタントはつかないが、日本語学習能力はきわめて低い。宿題や教科書をよく忘れるし、授業態度こそ悪くないが何をするのもとても遅い。集中力も五分ともたない。しかし、隣の子とおしゃべりするわけではなく、ただひとりでぼうっとしているだけだ。
ベンだけ特別扱いをするわけにいかないので、他の子と一緒に授業の後休み時間のときに残すこともある。そのときにどうしてもベンが覚えられなかった「曜日」を教えてみた。
「ヨウビって言葉はどの日にもつくのよ。だから、ニチ、ゲツ、カー、スイ、モク、キン、ドーって覚えてヨウビをあとにつけるだけ。だからこれだけ暗記しちゃえば、あとは簡単よ」
 そして、一緒に何度も何度も呪文のように練習した。そのあと何回か授業の終わったときにも「ベン、もうひとりで言える?」と確認した。できないときは、また一緒に暗唱した。
 
授業の始まる前に、わたしは毎回「きょうは、なんようびですか」と聞く。何人かの生徒が手をあげる。ひとりに当ててその子が答えると、今度は「じゃ、あしたはなんようびですか」だ。この質問は「きのうはなんようびでしたか」で終わる。毎回三人の生徒が正しく答えるわけだ。中学最初の一年間これを繰り返すことによって、ほとんどの子が次の年もすんなりと覚えている。このセッションに、ベンが手を挙げ始めた。当てれば、正しい答えが返ってくる。「よくできましたね、ベン。本当によくがんばったね」と褒めると、ベンは目を伏せながらも嬉しそうだ。その次も、その次も、ベンは当ててもらおうと一生懸命に手を一番高く挙げる。授業が始まればベンはまだ何一つできないが、ヨウビだけははっきりと誇らしげに言えるようになった。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

西オーストラリアのクリスマス休暇は、六週間の夏休みだ。だから、十二月に入ると生徒たちはウキウキとして勉強どころではない。低学年のクラスで、折り紙やクリスマスカード作りなどを盛り込むのもこの時期だ。折り紙の風船はクリスマスツリーの飾りつけにもなるので、きれいな包装紙を様々なサイズで用意した。一番小さい紙は五センチ四方もない。

「えー、センセイ、こんな小さいの無理だよー」と頭を抱える少年に皆が笑いころげる。紙を配って歩くわたしの手から、大きいサイズが次々と消えていった。後ろのほうの席にいたベンは一番小さい紙を何枚かそっと折らないようにわたしから取る。「ベン、だいじょうぶ?」と聞いたら、「うん、試してみる」とはっきり言った。

三十人もいる教室でその後十五分間、あちらで教え、こちらで修正し、席を立って遊びだした少年たちを叱り飛ばし、きちんと出来た子には褒めてあげる。ベンはその間中、ひっそりとひとりで小さな小さな風船を折っていた。授業が終わると、「できた」とだけ言って、自分の手の上に乗った豆粒ほどの風船を見せた。「よくできましたねえ、きれいだわ」と褒めたら、「うん」とだけ答えて教室から出て行った。

放課後まだ教室に残って窓際の整理をしていたら、またベンが来た。
「センセイ、来年もうここで教えないって本当?」
「そうよ。来年は新しい先生が来るから、また一生懸命勉強してね」
「僕は、センセイがいいな。センセイがまた来年教えてくれたらいいな」
「でも、駄目なのよ。わたしは非常勤だから。今度のセンセイはずっといるからね」
ベンはいつものように無表情で黙って立っていたが、右手に握っていたものをいきなり差し出して、わたしの手に押しつけた。
「これ、センセイにあげる」
見ると、前回教えた手のひらにはいるくらいの折り紙の箱に、豆粒風船がいくつもいくつも入っていた。
「センセイにあげる」

ベンのいる日本語クラスは二時間目だった。それから、授業中に折ったり昼休みに折ったりしていたのだろうか。あまりにも小さいその風船たちは、もちろん不恰好で形も揃っていない。
「どうもありがとう、ベン。こんなにたくさん、嬉しいわ」
ベンは口の中でモゴモゴと「メリークリスマス」と呟き、わたしの顔も見ずにさっさと帰ってしまった。

わたしはそのまま窓に寄りかかり、長いこと手のひらの豆粒風船を見つめていた。西日が差込み、つよいオレンジの光がわたしの頬を温める。
「メリークリスマス、ベン」
彼のようにもう一度そっと呟いて、わたしは窓を閉めた。

「蜘蛛と蛾にいらだち、野鳥にほっとする」の佐田薫子さんのコメントに返信しようとしましたが、何度試しても Internal Server Error が出てしまいます。ほかのエントリへのコメントは書けるのですが。どうして、このエントリだけにエラーが出てしまうんでしょうね。八月にも同じようなエラーが出ました。
どなたか、先の「蜘蛛と…」のエントリにコメントを書けるかどうかテストしていただけませんか?

「こんにちは、薫子さん。
コメントをどうもありがとうございます。
ジャカランダはもう終わりごろになると、青さが抜けて白っぽくなった花が残っていることもあります。それも美しいものです。
こんな木が庭にほしいなあ、などと思いますが、なんせ高さも幅も十メートルを超えますからとても無理ですね。残念。」

roastbeef.jpg冬の乾期に入っていたバンコクは、着いたのがほとんど真夜中だったせいかとても涼しい。今朝起きてから新聞を広げてみたら、何と十八度しかなかったという。昼間でも二十五度ほどだ。エアコンを使わないで過ごせるバンコクというのは、年に何日もない。

こういうとき在日外国人たちは「嬉しいねえ」などと言いながら、パティオやらテラスやらで外の夕食を楽しむものだが、タイ人はセーターを着込んで「寒くて困るねえ」とこぼす。体感温度の違いか。
久しぶりに顔を出したオフィスでは、秘書がセーターの上にジャケットを着て、おまけにスカーフまで巻いちゃっている。二十五度でそこまで寒がるところがタイ人らしい。

今晩は、パースから一キロ半ほどの牛肉の塊を持って来たので当然ローストビーフだ。ローストビーフなどと言うといかにもタイソウなご馳走のように聞こえるが、実態はオフィスで仕事をしながらできる。

まず赤ワイン、粒マスタード、ローズマリー、タイム、にんにく、塩、粒コショウを石のすり鉢で混ぜ合わせ、ぽくぽくと叩き潰す。そしてオリーブオイルをたらりとたらす。これを肉に塗って冷蔵庫で三十分ほど。その間にオーブンを二百度に温め、ジャガイモ、ニンジン、ズッキーニ、赤ピーマン、カリフラワーを一口大に切り、塩、コショウ、オリーブオイルを加える。肉をオーブンに放り込んで四十分、オーブン用温度計をど真ん中に差込み、周りに野菜を加え、また四十分ほど。野菜に焦げ目がついて、肉の真ん中の温度が五十五度くらいを指していたら、出来上がり。あとは、肉にホイルを巻いて十五分ほど落ち着かせるだけ。こんな風に真ん中がうっすらと赤いローストビーフは、大きさによってもオーブンによっても時間が違ってくるので、わたしは温度計を使う。
ミディアムレアレアのローストビーフは六十五度というひともいるが、わたしは五十五度から六十度で十分だと思う。肉は落ち着かせている間にも、すこし温度が上がるからだ。

涼しいテラスで、そよ風に吹かれながらの夕食も楽しい。

hachi.jpgイキモノの話が続くが、わたしは蜂も怖い。スズメバチは何だかいやにナマメカシイ胴体に黄色と黒の縞模様を持っていて、夏になったとたんブンブンとうるさいくらいわたしの庭を飛び回っている。

いつだったか、「オーストラリア産のスズメバチは刺さないんだよ。だからもっと近づいて写真を撮っても大丈夫」などという友達の口車に乗って、三センチほどの距離からマクロ接写をした。思いのほかよく撮れたので、Flickr.comのページにアップしておいたらコメントが来た。
「その写真のスズメバチは残念ながら欧州産のものだから、間違いなく刺します。わたしは、鼻の頭を刺された友達を病院にかつぎこんだことがあります」
ぎゃ。刺されなくてよかった。

結局、庭に「春の毛虫」がいなくなったと思ったら、今度は「夏のスズメバチ」ってことだ。

昨日パースを発つ前に、池の金魚に最後の餌をやったときにもヤツラはたくさんいた。だがよく見ると、水仙の鉢の周りを飛び回りながら次々と落ちる。集団自殺かい、と怖さも忘れて感心していたら、実は水面をすいすいとすべったり、ゆらゆらと浮かんだりしているではないか。そして、しばらくすると突然また飛び立つ。一応羽をぬらさないようにしているようだが、こういう泳ぎ方をする虫に確か「ミズスマシ」っていうのがいたよなあ。

スズメバチが、水浴びするとは知らなかった。

honeyeater.jpg昨日さっそく新しいモニターに交換してもらい、ほっと一息ついた。…と思ったら、今日は警報機の具合がおかしい。朝になって警報機を切ろうとしたら、サービスランプがついている。昨晩ショートしたか何かで、オンになっていなかったということだ。
サービス会社に電話したら、「月曜日になりますがあ」などとノンキなことを言う。明日、わたしはバンコクに発ってしまうのだ。その留守の間、要塞が要塞でなくなっては困る。

しぶしぶやってきたサービスの若い男は、警報装置のあるボックスの中に、ごっそりと産み付けられた蛾の卵の固まりを見つけた。それが触ってショートしたらしい。虫の嫌いなわたしは、ぞわああと鳥肌が立ち、髪の毛まで逆立ちそうになった。乾燥しているパースにゴキブリはあまりいないが、他の虫はワンサカといるのだ。
モニターに警報機と、出発前のあわただしいときに何だってこんなに虫が出てくるんだろう。まったく。

いや、鳥肌が立つような虫だけではなく、その他の美しいイキモノもたくさんいるのがオーストラリアだ。
例年より涼しい十二月なので、まだジャカランダの花は満開。自宅のある並木道は、目の覚めるような青に染まっている。日本の桜のようなもので、これが咲くと「ああ、もう初夏」という気分になる。嬉しくて散歩がてらカメラを持ってでかけたのが、数日前。そして、ニューホランド・ハニーイーター (New Holland Honeyeater) を見つけた。花の蜜をすう豪州産の野鳥は多い。この鳥は比較的どこでも見られるが、カメラをちょうど持っていたのは運がよかった。大きな写真は、ここで。こちらのほうがはるかに美しい。

gizzard.jpg砂肝が好きだと言うひとは、欧米人の中にあまりいない。
わたしが会ったひとたちの中で、唯一「ダイスキー」と言ったのはイタリア系アメリカ人だけだ。それも「子供のとき、感謝祭の七面鳥のローストに添えてあったヤツを、妹と奪い合って食べた」と懐かしがっているふうで、鶏の砂肝をそれだけ食べるというわけではないらしい。

オーストラリアでも砂肝は買えるが、堂々と他の肉と一緒にウィンドウで売られているのは中華系肉屋だけ。スーパーでは、何と犬猫用の生肉と一緒のケースに入れられている。砂肝は犬猫用かい、ふん。
そういう場所にあるだけあって、処理も非常に雑だし、どっさりとつめこまれたパックは重い。1キロ約四百円ほどの安さで、きちんと脂やら血やらを取り除いてもらおうと思うほうが間違っているのかもしれない。日本やタイのように、キレイに洗浄されてひとつひとつスチロール皿に並べられてパックされてはいない。

だから、こちらで砂肝を食べるときには、「下ごしらえ」という長くクルシイ道のりが待ち構えているのだ。仕方なく、キレイに洗って回りにくっついているその血と脂をとり、ぷっくりした丸い砂肝の真ん中にある筋をこそげ取る。軽く塩コショウして、片栗粉をぱらぱら。
これが出来たらあとは簡単だ。赤唐辛子とショウガをざくざくと切って、煙のたつほど熱した中華なべに放り込み、香りがたったら今度は細ネギのざく切りを加える。ざっと混ざったら、砂肝だ。わたしの家には中華なべ用の強力ガスバーナーがあるので、火力は強い。最後に豆板醤を加えて炒め、砂肝にからめる。

中華小松菜は炒めずに、ショウガのスライスを浮かべて塩茹するといい香りに。

kumo.jpg10月30日のエントリ「元気に左手を上げよう」に新しいコメントがあった。カーソルからハイパーリンクの上の右手に至るまで、ポインターを全て左利き用に反転させるソフトがあると言う。

さっそくVectorに飛んで、「左利きマウス」をダウンロードしてみた。いや、何だかひとりでニンマリしてしまうほど便利。タスクバーに常駐できるから、右利きも左利きも右クリックひとつでメニューから自由に選べる。起動のたびに、左利き用ポインターが自動で立ち上がるようにもできる。何よりウレシイのは、ハイパーリンクにカーソルを当てたときに「指差している左手」が出ることだ。些細なことである。しかしこれが自然なのだよ、わたしたち左利きには。
「我者」さん、どうもありがとうございます。

しかし、右上向きカーソル写真をアップしたのには、わけがある。
ちょいとボヤけてはいるが、ど真ん中に虫のようなものが見える。そう、小さな蜘蛛だ。そしてボヤけているのにもわけがある。何とヤツは画面の中にいるのだ。
わたしも初めのうちは「やだなあ、ディスプレイ『上』を歩き回っちゃって」と思ったくらいだが、払い落とせないのでやっと気づいた。
ヤツは2-3日画面をすりすりと我が物顔に歩き回っていたが、「そのうちいなくなるだろう」とタカをくくっていたわたしは、イライラしながらもその「虫を無視」しようと努めていたのだった。

ところが、だ。

昨日コンピューターをオンにして画面を見つめると、ヤツがど真ん中にいる。そして、びくとも動かない。そう、カワイソウな蜘蛛はとうとうお亡くなりになったのだ。それも、今年七月に買ったばかりの19インチ液晶大画面のど真ん中で。
このままわたしは、この死んだ蜘蛛がミイラ化していく様を毎日観察しなければならないのか。そう思ったら目の前がマックラになりそうだったが、気を取り直して考えた。
「こういう液晶モニターってのは、確か防塵された場所で製造されるんじゃなかったっけ?」蜘蛛が画面に入り込むなんて不可能だ。とすると、製造時にタマゴが産み付けられて画面の隙間で生まれちゃった蜘蛛か?

そんなわけで、製造会社のカスタマーサービスに電話をしたら、すぐに新品と取り替えてくれると言う。それも、こちらでは珍しくも配達してくれてついでに古いものは蜘蛛の死骸ごと引き取ってくれるらしい。
めでたし、めでたし。

しかし、「画面に閉じ込められた蜘蛛」の返品って結構多いんだろうか。

gaby.jpg楽しいことも、もちろんある。
中断したり原稿が遅れたりしながら書き続けていた「ある日、パースで」が、連載終了を待って電子出版された。理想書店から、420円(税込)。

『バックパッカーとワーホリで有名になってしまった、美しい自然を持つ西オーストラリアの州都パース。
だが、そんな街にも密やかに大人の世界が存在する。
彼らはもはや若いとは言えないが、「若い」だけが人生ではないということを知っている。
パースの太陽を楽しみながら、日が落ちたあとの愉しみも熟知している。
そんな彼らが集まる数々の場所を背景に、とびきりいい女たちと「僕」の関係は洒落た会話をともなって始まり、そして終わる。
極上の酒をショットグラスであおるような、粋な大人のショートストーリー八話』

連載していたときは全く写真を添えていなかったが、電子本出版にあたり、章のサブ見出しと「あとがき」にも渡邉さんが写真を入れて新しく、そしてセンスよく装丁してくれた。

電子本を読むにはT-TIMEというソフトを無料ダウンロードする必要がある。詳しくは、理想書店のサイトで。

ちょっとハズカシイのだけれども、やはりウレシイ。
そしてここを訪れてくれる方たちが「買ってみようかな」と思ってくだされば、これまた大変ウレシイです。

lastday.jpgここ二週間ほど、確定してしまった来年の「失業」に茫然としていた。
十月二十八日のエントリにも事情を少し書いたが、ある公立高校でフルタイムとして働いていた常勤資格のある日本語教師(オーストラリア人)が、わたしの代わりに来年から来ることに決定したのだ。そして、わたしには今なお何のオファーもない。

公立高校は、通常教育省から派遣される教師を選択する権利がない。どうしても学校側で選択したい場合は、科目ごとに特別な許可を申請しなければならない。普通は科目につき一人のみだ。このかなり複雑な申請をして許可されたのが、十一月中旬。学校がどうしてもわたしを確保したかったためだ。許可が下りると教育省のHPに「アーダラコーダラの条件を満たす教師は、xx高校に直接応募されたし」と募集広告が載り、たとえ常勤資格のある教師でも教育省を通さずに個人的に応募しなければならない。この「条件」はわたしの出来ることに基づいて作られるから、選択される教師はわたしか或いはそれ以上のレベルのあるもの…ということになっていた。

ところがここに登場したのが、「現在働いている学校をやめざるをえない教師」だ。
教育省で振り分けられる教師の中で、「学校が廃校になってしまったり科目がキャンセルされたりして、フルタイムの職を失わざるをえない、しかも常勤資格のある教師」は最優先権を持つ。教育省は何が何でも、彼らに職を与えなければならない。つまり、ここで十一月最後の日になってから、わたしの学校が苦労して獲得した選択許可は無効になったのだ。
代わりに教育省から指名されたのは、ある学校で日本語を選択する生徒数が大幅に減ったため、就業時間数がフルタイムに満たなくなってしまった日本語教師だ。

一応カタチだけの面接はしたらしいが、二年間わたしがスタートして担当してきた「日本語を話しながら料理しましょう」の人気クラスについては、「えー、わたしそんなに日本語に自信ないです」と即辞退。ずっと生徒の能力に合わせて開発してきたコンピューター授業も、このまま消滅。「コンピューターはワードとEメールしかできませんし、あんまりよくわからないんです」
大学入学をひかえた上級生たちのクラスを教えたこともないと言う。

教育省がどうしても「使え」と言って強引に押し付けた教師には、せめて何か他にわたしより優れている部分があるのだと思いたい。

先週は、食べきれないほどのチョコレートや写真やプレゼントをもらった。別れを惜しんでくれる生徒たちのカードはぎっしりと書き込まれ、束になっている。わたしにハグをし、泣いていた子も何人か。親からは「とても残念です」と電話も来た。他の教師たちからも、別れのカードやプレゼントをもらった。

昨日は学校おさめの日だ。

生徒たちは、先週木曜日に成績表をもらって休みにはいったが、教師と総務はまだ昨日まで仕事だ。
自分のオフィスの机をきれいに片付け、後任のために全ての私物を取り除いた。カラッポになったわたしの席を見渡し、最後に同僚の日本語教師に「元気でね」と、そっと抱きしめる。彼女は何も言わない。後ろを向いてしまったので、「大丈夫よ、来年だってきっとうまく行くから」と声をかけたら、肩が震えている。彼女は泣いていた。
わたしたちはふたりとも年も近く、ウマも合った。どちらも互いの長所を尊重していたから、チームワークはことごとく成果をあげて、日本語を選択する生徒数も増えていた。彼女は、わたし以上にショックを受けていたようだ。
「こんなのって、フェアじゃないわ」
今まで二週間ほど、あまりこの日のことに触れないようにしてきた彼女はまだ涙声だった。

そして、わたしも初めて目頭がしんと熱くなった。