2005年1月アーカイブ

バンコク・ポストネーションの1月23日記事によると、昨日22日の朝、タクア・パ地区ヤンヤオ寺(約2300体を冷蔵安置)の門前で、周辺地区から集まった1000人の村人たちのデモが行われた。
昨日までも再三伝えていた、「タイ警察とインターポールが協力して設置したプーケット津波被害者身元確認センター(DVIC)」と「法務省傘下の中央科学捜査研究所次長ポーンティップ女史が津波後暫定的に3つの寺に設置した身元確認センター」の対立が、発端だ。村人たちの主張は、「遺体はこのまま寺に留まるべし」だ。

18日のタクシン首相の声明によって、5000体以上の遺体は2週間のうちに「選り分けられ」、明らかに外国人だと判別できた遺体に関しては、プーケットのDVICに移送、明らかにタイ人だと判別できた遺体に関しては、タクア・パ地区に留められ、引き続き検死が行われることになっている。
この「明らかに」というのが、実は問題なのだ。
わたしも写真を見せられたからわかるのだが、「明らか」なのは、肉眼ではアジア系かヨーロッパ系かも、中には性別さえわからない遺体が大半である、ということだ。つまり、「明らかにタイ人」と判別された遺体以外の「国籍さえわからない遺体」は、全てDVICに移送。となれば、3000体以上がプーケットに移される。

村人たちの言い分は、「移送でまた身元確認が遅れる。そして、移送の際にまた遺体のデータミスが出るかもしれない。遺族にとって、プーケットまで通うのは遠い」ということだが、これはおかしい。

第一に、身元確認が遅れたのは、5000体もの遺体のデータを通常のペーパータグにして、遺体に取りつけていたことが致命的なミスだった。衛生面の処置として、防腐剤と消毒剤を毎日のように撒いていたが、そのせいでタグのデータが消え、判読できなくなってしまったのだ。
第二に、そのミスのせいで、全ての遺体に電子チップが埋め込まれることになった。遺体の取り違えは、まず起こりえない。
第三の理由は、身元が判別するまで、遺族がプーケットに日参するわけがない。これも奇妙だ。

ネーションには書かれていなかったが、バンコク・ポストには極めて意味深な事実が追加されている。
「遺体がプーケットに移されれば、タクア・パ地区は、観光収入を失うことになるだろう」無記名のビラが、すでに撒かれていたのだ。
「しかし、遺体がここで身元確認されれば、やがて記念碑が建てられ、公園となり、遺族たちは彼らが愛した者たちのために、ここに戻ってくるだろう」

おいおい、勘弁してよ、と笑うことはたやすい。

しかし、津波で全てを失った者たちには、これ以上何かがまだ失われるということは耐え切れないのだ。そして、残念なことに、こうしたビーチ沿いに住んでいたタイ人というのは、満足な教育も受けていないその日暮らしのひとびとだ。扇動は、彼らの目先の利益を唱えれば、いとも簡単に達成できるだろう。彼らは、何かが失われる、またはどこかに移される、という言葉がささやかれるだけで、恐怖を覚え立ち上がる。どこに行くのか、または誰が先頭に立っているのかも知らないまま。

タクア・パ地区の寺にある身元確認センターでは、まだ20カ国以上の国から派遣されてきた鑑識専門家たちが働いている。自分たちの使命をまっとうしようとするひとびとが、自分たちのしていることが一体誰から認められる行為なのだろうか、と案じながら、今日も遺体と向き合っている。

そして、わたしの会社とビジネスのあるドイツ系商社香港支社では、いまだに副支社長とその家族の五人が行方不明だ。
タクア・パ地区で起こっているこの対立、そして周辺に拡大する不穏な動きは、3つの寺に安置されている遺体と、その身元確認を願う家族たちの思いから、段々と離れていく。

lemonchicken.jpgああ鶏肉が食べたい、と思ったら、鳥インフルエンザなんかかまっていられない。それに、安全保障つきで加熱調理するのであって、サシミにして食うわけじゃあるまいし。

いつものように丸ごと買ってきてしまったが、考えてみたらこちらには骨きり鋏が置いていない。しかし、中に詰め物をする丸ごとローストより「大股ビラキ」が食べたい。包丁を砥いでから格闘し、やっと背骨を切りとって一安心。それから、様々なハーブ(タイム、ローズマリ、バジル、オレガノ)をつぶし、ニンニクを加え、オリーブオイルとレモン汁をまぜて、塗りたくり、しばらく置いてからローストする。
ワイルドライスを煮て、細長いヨーロピアンライスの炊いたのと混ぜる。
最後にサラダを添えて、出来上がり。じっくりと焼いた大股ビラキのチキンは、切るのも楽なので、こんな具合が一人分、じゃなくて一皿目。

タイではこのところ地下鉄の事故だの選挙だのが紙面を賑わせ、バンコク・ポストでも「津波その後」は四面に下がってしまった。

タクア・パ地区寺の境内にある身元確認センターでは、まだボランティアの学生たちが遺体の処理のために働いている。
二十歳を出たかそこらの女子学生たちが、毎日遺体を洗い、歯型をとるために歯ブラシをつかって洗浄し、DNA採取のために電子チップを埋め込むための手伝いをしているのだ。災害から一ヶ月たった遺体の匂いが充満し、彼女たちの洋服にも皮膚にも髪にも染み込んだまま、決して落ちることがないと言う。
「ボランティアたちは仕事に心をこめているんです。不平は言いません。わたしたちのしていることは、何かの利益を考えてしていることではないんです。津波では多くのひとたちが亡くなりましたが、そのことで死ぬときは誰も何も持っていくことはできない、と気づきました」
仏教の教え「諸行無常」を彷彿とさせる言葉だ。

しかし、鳴り物入りで各国のメディアを賑わせて記者会見までしたのに、あのプーケットに設置されたDVIC(津波被害者身元確認センター)はどうなったのか。

彼女たちボランティアが働いているのは、依然としてタクア・パ地区の寺にある身元確認センターだ。わたしが先日書いた、ポーンティップ女史によって津波後すぐに活動を開始した身元確認のための組織であって、新しいDVICではない。

18日付バンコクポストによると、タクシン首相が中に割ってはいり、「2週間は、遺体をプーケットに移動しない」と公約した。ポーンティップ女史が、あと2週間で身元確認のための処置が終わる、と豪語したからだが。つまり、DNAのための肉片やら骨片やらと歯型などの採取が終わると言うのだ。そのために各国からの鑑識専門家たちとタイ鑑識チームとが、まだタクア・パの寺で働いている。要するに、こちらにもまだ数十人の外国からの鑑識専門家がいるのだ。

一体タイ警察とインターポールが組織したプーケットのDVICは、60人の外人鑑識チームを受け入れて、その間何をしているのだろう。

2週間たてば、遺体はプーケットの遺体安置所に輸送され、ポーンティップ女史の身元確認センターからDVICに全てのデータが移される。彼女とタクア・パ地区のセンターのやり方が気に入らないDVICは、また再度検査をするのだろうか。それとも、移されたデータをそっくりそのまま利用するのだろうか。

細切れの記事ではなにやら辻褄の合わないことが多すぎて、その場しのぎの報告で間に合わせているようにも見える。

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steakvegi.jpg実を言うと、わたしは実家では料理を全くしない。そりゃあ、皿洗いや片付けはする。しかし、料理は母、と決まっていて、生まれてからほとんど実家で料理らしい料理をしたことがない。

母の作るのは、もちろん家庭料理だ。
実沢山の味噌汁や、自家製の漬物、酢の物、そして肉や魚。そして忘れてはならないのは、真っ白な炊き立てご飯だ。シチュウだろうが、グラタンだろうが、スパゲッティだろうが、白いご飯は食卓にある。「パンだって食べますよっ」と言う母だが、その実態はソソクサと済ませる朝ごはんだけだ。夕食にパンが出たり、ご飯無しで済ますことは、まずない。

だから、母の風邪が回復していなかった最初の三日ほどは、テンヤ物で済ませたり、近くのセブンイレブンのお世話になっていたのだが、入れ替わってわたしの風邪が重くなってからは、ほとんど母の手料理だ。わたしの東京里帰りでは、これがイチバンの楽しみと言ってよい。

そんな母の味付けを思い出しつつも、今晩はガラリと変わってステーキ@バンコク。
風邪が治りきっているわけではないので、またも運転手に頼んで野菜だけ買ってきてもらい、パースから持ってきたサーロインステーキを解凍して、フライパンでミディアムレアに。めんどくさいので、コロコロに切った野菜は全てオリーブオイルをまぶし、オーブンで焼く。出来たら特製ドレッシングをからめ、美味しいパン屋で買ってきたバゲットを添えて、おしまい。

ワシントンの地震学研究所サイトにある地震モニター(Seismic Monitor)がすごい。

世界中で発生したマグニチュード4.0以上の地震が、時刻、場所、サイズの情報とともにカラー地図に記され、20分ごとにアップデートされている。時刻はGMTだから、日本時間は+8時間にすれば間違いない。色分けされた輪は、赤が今日、オレンジが昨日、黄色が2週間以内、そして紫は2週間以上5年未満だ。その輪にカーソルを当てれば、テキストボックスがポップアップし、時刻、場所、サイズの詳細が表示されるようになっている。その他に、世界中の地震観測ステーションのデータや、地震に関する最新のニュースリンクもあり、地震地域の情報にも詳しい。

この地図を見ていると、日本とその周辺に輪が集まっていて、今更ながら「日本は地震国なのだなあ」と、怖くなる。赤、黄色、紫と色とりどりだが、それはとりも直さずほとんど毎週どこかで地震が起こっていることの証拠なのだから。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

1月19日付バンコク・ポストによると、オーストラリアでは、津波による行方不明者の死亡証明改正が問われている。米国・英国ではすでに改正への動きが始まっているが、英国慣習法を引き継ぐオーストラリアでも時間の問題だろう。今までの法律では、行方不明者は7年を経ないと死亡と見なされない。それを、津波行方不明者に関しては1年に短縮しようという動きだ。

今日、偶然スイス大使館のスタッフと話したのだが、スイスでも同じような問題が起こっているらしい。こちらは行方不明者が死亡と見なされるのは5年だが、その期間遺族は、年金、保険、遺族年金、未亡人年金、などの収入への道を保留される。特に、津波発生時に災害地にいたことが確認されているスイス人とその家族に関しては、「1年に短縮」を考慮しなければならないというのがスイス当局の考えだ。

変わって日本なのだが、こちらも行方不明者に死亡確認がとれるのは7年だ。が、民法30条と31条を見ると、なんだかややこしい。

第30条
不在者ノ生死カ7年間分明ナラサルトキハ家庭裁判所ハ利害関係人ノ請求ニ因リ失踪ノ宣告ヲ為スコトヲ得
2 戦地ニ臨ミタル者、沈没シタル船舶中ニ在リタル者其他死亡ノ原因タルヘキ危難ニ遭遇シタル者ノ生死カ戦争ノ止ミタル後、船舶ノ沈没シタル後又ハ其他ノ危難ノ去リタル後1年間分明ナラサルトキ亦同シ

第31条
前条第1項ノ規定ニ依リ失踪ノ宣告ヲ受ケタル者ハ前条第1項ノ期間満了ノ時ニ死亡シタルモノト看做シ前条第2項ノ規定ニ依リ失踪ノ宣告ヲ受ケタル者ハ危難ノ去リタル時ニ死亡シタルモノト看做ス

津波で行方不明になったひとたちが「其他死亡ノ原因タルヘキ危難ニ遭遇シタル者」として認められれば、7年かかる失踪宣告と同じ扱いになって、1年の後に死亡したと見なされる…ってことだろうか。よくわからない。
この民法の「日本語」は翻訳が必要だが、それにしてもこれだけ遺族の涙を新聞やらテレビやらで見せられても、日本の福祉が津波被害者の遺族をどう扱うのかには、誰も関心がないのかなあ。

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タイ航空が派手に遅れてくれたおかげで、バンコク空港イミグレを出たらすでに「今日」になっていた。風邪がまだ完全に直っていないせいで、気圧の変化をもろに受けて、今日になってもまだ耳がよく聞こえない。

よくあることなのだが、隣に座ったカナダ人青年(カナダ航空との共同運航便のせい)が巨大だったので、わたしは自分のシートの2/3しか使えなかった。わたしの荷物を率先して頭上の荷物ケースにいれてくれたり、窓際のわたしのグラスやトレイを自分のに重ねて片付けてくれたりと、知らん顔をすることの多い日本人男性に爪のアカでも煎じて飲ませてやりたいくらいシツケのいいひとだったが、いかにせんデカイ。太っているというのではないが、腕だけでシートの半分ぐらいの幅だ。足も長いから、膝が前のシート背につかえちゃっている。それでも起きているときは意識して小さくなろうとしているのがありありとわかり、かわいそうなくらいだ。
しかし、寝てしまったらもう弛緩状態である。左膝はでれんとわたしのほうに倒れてくる。腕がわたしの肩をぐいぐいと押してくる。知らないひとの「Tシャツからにょっきり出た棍棒のような腕、それも薔薇と槍の刺青付」にべったりくっつくというのは、あまり気持ちのよいものではない。どうにか枕を間に入れて肌の接触を回避したが、そのまま何時間も同じ姿勢でいたため肩がこってしまった。
まあ、彼は隣のわたしの咳と鼻水を知るでもなく、鼻と口を全開にして回りの空気を吸い込みながら寝ていたから、もしかしたら今ごろくしゃみが止まらず首をかしげているかもしれない。

わたしは飛行機という乗り物自体がまずダイキライだが、飛行機の中で腹を立てることも多い。筆頭にあげられるのが、「通路側に座っていて、窓側のひとがトイレに立つときに決して立とうとしないひと」だ。このため、「日本往復の便」でわたしが窓側の席をとることはほとんどない、と言っていい。

飛行機に乗ったことがあるひとなら誰でも思い浮かぶだろうが、ほとんどのひとが長時間のフライトに、シートの背を倒す。この30度ほど自分のほうに傾いた前の座席シートは、ほんの30センチほどの座席と座席の間の空間を完全に斜めに断ち切ってしまうのだ。つまり、まっすぐに自分のシートから立ち上がることは不可能に近い。その状態で「スミマセン」と言ったのに、ただ足をひっこめて席を立たないのは、わたしが見た中では日本人だけである。そりゃあ、頭に乗せたヘッドフォンをとって、毛布をまくり、座席ベルトをはずして立ち上がるのは、マコトにめんどくさい。しかし、足を引っ込められたとは言え、立っているひとが足を割り込ませられるのはなんと15センチほどの空間だ。しかも、斜めになって横切らなければならない。足をすり、ぶつかり、その「座ったままのひと」の膝に腰掛けてしまいそうになることもある。時間もかかる。
「袖摺りあうも多少の縁」とうたった日本人のうちに、隣に座ったひとにさえ思いやりと手間を出し惜しむひとがいるのは、なんだか悲しい。

ぐっすり眠っていたカナダ人青年は、わたしが生理的欲求のために揺り起こしたとき(いや、そんな、アッチの生理的欲求ではなくて、トイレのことだが)はじかれたように飛び起きて、「ごめんなさい」とねぼけ声でつぶやき、席から急いで立ち上がった。
こういう時には、意識しなくても心からの「ありがとう」が口をついて出る。

ここ何日かのバンコク・ポストを先ほど読んだのだが、12日に記した「タイ当局と外国人チームの軋轢」の実態がやっと系統だってきた。読んでいるわたしでさえ最初は何が問題なのかわからなかったので、簡単にまとめてみよう。(資料としては、1月12日1月12日1月13日1月14日1月15日のバンコク・ポストを参照)

タイでは数少ない(と言うより、全国で50人に満たない)検死医ポーンティップ女史は、タイ法務省直轄の中央科学捜査研究所次長という肩書きで活躍している。検死、鑑識という言葉が広く一般的に知られるようになったのは、彼女の功績でもあるのだ。タイ警察官の殺人行為などを検死の立場から暴いてしたり、有名な殺人事件を解決したり、それどころか彼女を主人公にした映画まで製作され、その奇抜なヘアスタイル(カラフルでつんつんに固めてある)で、大物タイマフィアが彼女の首に500万バーツ払うという噂もある大変な有名人だ。自身も癌に冒されているというのに、南部イスラム教徒暴動でも検死で活躍し、「死体のあるところ、ポーンティップ女史の姿あり」と言われる。

今回も、津波災害の直後にタクア・パ入りして、遺体の身元確認とスタッフの指揮に当たり、「被害者の遺体を一刻も早く彼らの家に返すのがわたしの使命」と日夜精力的に働いてきた。彼女と彼女のチームの鑑識が国際的基準に達していない、という言葉も聞かれてはいたが、何しろ災害後の混乱の中で、少ないスタッフと足りない設備に苦しみながらここまで活動してきたことは、賞賛に値する。現在のところ、遺体が冷凍安置されているのは、いずれも彼女が組織したタクア・パ地区にある3つの寺(の敷地)だ。

しかし、今回の遺体は3000体以上、しかも外国人観光客が半数以上を占める。詳細で膨大な身元確認のためのデータファイルの作成が必要とされるのは明らかだ。
身元確認は、post mortem(死後)とante mortem(生前)というふたつのデータをもとに行われる。前者は遺体を詳細に調査し、歯型、DNA、その他の特徴をまとめたデータだ。今回の場合、プーケット(またはタクア・パ地区)で採取したサンプルが、タイで直接、あるいは中国に送られて解析される。後者は遺体となる「前」のデータ、つまり生前彼らの使ったブラシ、歯ブラシからのDNAサンプル、または歯科医に残された歯型データ、そして近い血縁の者から採取するDNAサンプルなどだ。そしてこれらは、様々な情報から、津波被害に遭遇したと思われるひとびと、またはそれらの地域にいたとみなされその後行方不明のひとびと、そして家族からの問い合わせにより、各々の国において、直轄の警察が収集する。

これだけの国際的なデータシステム構築は、もはやポーンティップ女史と彼女の率いる鑑識チームには不可能だ。そして出てきたのが、インターポール(国際刑事警察機構)。世界二十ヶ国からの専門家60名を集め、プーケットにDVIC(Desaster Victim Identification Centre,津波犠牲者身元確認センター)を設立した。上記のように収集された膨大な PM(Post Mortem)と AM(Ante Mortem)のデータは DVICの中央データシステムに収められ、最終的にここで照合が行われることになったのだ。

ここまでは、いい。

しかし、最初にDVCIが設立されることになったとき、インターポールはもちろんタイ警察に接触した。喜んだのはタイ警察だ。(一説によると、警察だって彼女の首には500万バーツ出したいほど、彼女を嫌っているらしい。閑話休題)
ポーンティップ女史によってさんざん警察官の殺人などの不祥事を暴き立てられた彼らは、これをいい機会と見て、ポーンティップ女史に連絡することなく話を進め、結局1月12日のDVIC記者会見となった。要するに、ポーンティップ女史にとって、この記者会見は青天の霹靂だったわけだ。今まで、全てをまかされて寝る時間も惜しんで身元確認に当たってきたのに、いきなり知らないうちにDVICという新しい身元確認センターが設立され、彼女が集めた全てのデータをプーケットに提出せよ、と言う。そして、3つの寺に安置された遺体を全てプーケットに移動するべきだ、と言う。

そこで女史は、「要請を受ければ、データをプーケットに渡す用意はある。しかし、冷凍安置されてるコンテナをプーケットに移動するのは、反対。それだけの作業をするだけの根拠がない。それに、この三つの寺を総括するわたしたちの身元確認センターは災害発生時からここにあるのだから。警察が協力して設立したDVICのことなど聞いていない」と反論した。

当然のごとく、警察のほうは「なぜ彼女が協力しないのかわからない。これはタイ人だけの身元確認ではないのだ」と渋い顔。

法務省を無視してインターポールと接触した警察、そしてDVIC設立の際無視され、津波から現在までの活動とデータを完全に横取りされた形になるポーンティップ女史。
事はこれだけで収まらず、彼女が属する法務省と警察の対立に発展するような気配を見せている。

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熱もようやく下がり、鼻みずも咳も前ほどではなくなった。鼻はまだ生々しくもマッカッカで、声もしゃがれているが、とにかく熱がない。明後日の月曜日はもうバンコクに戻るのに、買いたい本やその他もろもろが山ほどある。さあこそ外出だと思っていたのに、雪ならぬ雨がじゃんじゃん降っているではないか。もう。

それでも傘を手にお勝手の戸を開けようとしたら、母に首っ玉をつかまれて引き戻された。
「病み上がりに、そんなカッコで出かけちゃイケマセンッ」
改めて、セーターの下には暖かい下着が追加され、わたしの半身を覆うほどデカイ毛糸のストールがコートの首から巻きつけられ、最後にマスクが渡される。い、いやだ、マスクなんかー。
「そんな痰混じりの咳をしていたら、回りのひとから嫌がられるでしょ」と母は言うが、まるでわたしが伝染病患者みたいではないか。日本以外には、こんな真っ白なマスクをかけているひとなんぞ見たことがない。般若のような形相で睨まれたので、仕方なくマスクをかけ、まるで風船のように着ぶくれたわたしはやっと外に出た。

向こうから隣のオジサンが歩いてきた。挨拶をしたが、いぶかるように見つめるだけ。「あのう」とストールをかき分けてマスクをおろしたら、やっと「なんだよ、がびちゃんじゃないか」と気づいてくれた。変装しているわけじゃないのだが、メガネにマスクをかけた顔は半分ストールに埋まっている。誰も気づかないよなあ、これじゃ。
しかし、近所の商店街には、結構マスクをかけた買い物客が多い。別に風邪をひいていなくても防寒の意味もあるらしい。久しく見なかった「日本の冬とマスク姿のひとびと」をすっかり忘れていた。

この風景から、いきなり明後日はバンコクの暑い南国風ごちゃごちゃへ、そしてそれから1週間で、パースだ。

依然として微熱、咳、鼻水が止まらず、外出禁止令が解かれないまま東京生活はすでに1週間。日本語のテレビと新聞と母の顔以外は、日本にいることなんて全く感じられない。ああ、退屈。

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12月30日に「産経ウェブ以外の大手新聞サイトは、募金先さえ明記していない」と文句を言ったが、ふと気がつくと、朝日新聞と読売新聞のサイトが「スマトラ沖地震」特集に募金先を追加している。産経ウェブに至っては、地震特集だけじゃなくHOMEにまで救援金先が堂々と登場しちゃっている。さすが、だ。

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昨日のエントリに記した指紋採取の方法が、日本警視庁の鑑識OB戸島国雄さんの発明したものだとは、読売新聞サイトを読むまで知らなかった。こういうことはもっと誇らしく宣伝してもよいと思うのだが。彼はタイ国家警察の士官学校で、シニアボランティアの教官をしているのだ。
ドイツ語サイトなんか、すでに「こういう方法はアッタリマエなんだよ」というような書き方で、タイで初めて戸島さんから教わったなんて、これっぽっちも言及していない。ケシカランぞ。

しかし、わたしの日本語力もあやふやなもので、今まで「鑑識」という言葉を使うことさえ思いつかなかった。ドイツ語や英語からの訳として検死専門家だの検屍医だのと当ててきたが、読売サイトでこの言葉を見たときに「ああ、鑑識官って言うんだ」と目が洗われた思い。

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インターポール(国際刑事警察機構)は、世界二十ヶ国からの約60名の専門家と協力し、プーケットに津波犠牲者の身元確認センターを設置した。記事は
朝日サイトロイター・ジャパンのサイトで読めるが、バンコクポスト・オンラインに行くともう少し詳しいことがわかる。

朝日サイトでは「センター長を務めるオーストラリア警察のジェフ・エメリー鑑識官によると、すべての照合作業を終えるには、9カ月以上かかる見込み。」とあり、ロイターでは「何ヶ月もかかるとみられている」とあり、バンコクポストでは「It wouldn't be unreasonable to say this process will go on for more than six months.」。やたらシチめんどくさく回りくどい言い方をしているが、「6ヶ月以上続くのは当然でしょ」という意味だ。
一体どれが本当にエメリー鑑識官の言ったことなのかは、不明。担当の記者によって、結構違った解釈になるのだなあと感心してしまった。

それはさておき、バンコクポストは、タイ鑑識チームとそれをサポートする警察が、この国際的な身元確認センターの活動にあまり協力的ではない、と指摘している。800体もの遺体を掘り起こしたり、それにより国籍不明の遺体が10倍に増えるなど、タイ鑑識の不手際が目立っているのだ。国際的に「面目を失った」彼らの渋い表情が目に見えるようだ。

プーケットの身元確認センター設置に伴って、全ての遺体をプーケット空港に移して作業の効率向上を目指すことが提案された(バンコクポスト1月12日)のだが、これもタイ当局に却下されている。
プーケット空港にある巨大な冷凍倉庫には十分な設備もあり、また身元確認センターからも近い。身元確認の済んだ遺体を、各国に送るにも便利だ。3000体以上の遺体が分散されているタクア・パ地区の寺では、設備に限界があり1日40体の処理が限度である。
タイ当局は、この遺体移動を「正当化するだけの理由がない。感染症蔓延の恐れも挙げられたが、これも根拠がない」と、はねつけたのだ。作業が6ヶ月以上続く場合には見直しも考えているらしいが、どうもこのタイ当局と外国人チームの軋轢はまだまだ続きそうである。

Die Welt(ディー・ヴェルト、ドイツ)オンラインで、わたしは初めて実際の身元鑑定がどのように行われるのかを知った。
現在ドイツからは検死専門家たちが40人がカオラックを含むタクア・パ地区に送られているが、彼らは昨日伝えたようにスイス、日本、など総勢300人とともに、身元確認を急いでいる。

各々の遺体に関して、彼らは国際的標準とされている身元確認プロトコルを作成する。確認に必要なありとあらゆる特徴とサンプル、そして確認を助けると「思われる」全ての事柄が詳細に記録されるのだ。もちろん、遺体が身につけているもの、指輪、IDカード、メガネ、服などもその一部なのだが、今回の津波犠牲者に関しては、多くを望めない。彼らは、そのほとんどが裸か、水着という軽装なのだ。そして、身体の特徴。身長、髪の色、骨格から、ささいな傷、手術の跡、ほくろ、爪の形、眉の形、鼻の高さ、口唇の特徴など。
DNA鑑定に必要なものも採取される。口中を洗浄し、歯型をとり、歯を2本抜き取る。骨のサンプルを採取する。そして、遺体がいちじるしく損傷している多くの場合、指の皮をはがし、それを手袋をした自身の指にはりつけて指紋をとる。
多くの場合、遺体ごとに約30分から60分かかると言われる。
「わたしたちの仕事は人道的な使命なのです。こうして亡くなったひとびとにまた名前を与え、残った家族に最後の別れを告げさせてあげるのですから」と、警察検死医であるピーター氏は語った。

10日付バンコクポスト紙も、DNA鑑定に関しての記事をトップに上げている。
800体がすでに土葬されていたが、9日に全て掘り返されたのだ。改めて骨と歯の記録を取り、記録番号を記したマイクロチップを埋め込むためらしい。

責任者であるタイ検死センター副所長のポーンティップ女史は、「決してタイの検死スタッフたちの水準を疑われたからではなく、遺体にマイクロチップを埋め込み、冷凍安置所に移すためなのです」と強調しているが、これはどうだろう。暑さのため遺体につけられたタグが損傷し、またも確認やり直しということが実際起こっていたのだし(1月5日エントリ)、残念ながらその300人からなる各国からの助っ人たちが組織だって動き出してからというもの、少なくとも遺体のタイ人・外国人比と、その確認さえできないその他の遺体の数に変化が生じているのだ。

現在のところ、確認されたタイでの津波死者は5305人だ。土曜日までは、そのうちのタイ人死者は2578人と信じられていたが、今日になって1792人にまで下がっている。2516人と信じられていた外国人死者は、今ではなんと1329人だ。
残りの2184人に関しては、国籍すら不明なのだ。土曜日までは国籍不明の死者は211人とされていたから、いきなり10倍になってしまったことになる。なんということだ。要するに、身元確認作業に外国からの助っ人が加わってから、これまでにタイ人検死スタッフによって根拠なしに「タイ人」「外国人」と分けられていた約1974体が「国籍を確認するだけの資料がない」と判断されたということになるのだ。そうしたタイ人検死水準への疑念が最初からあったからこそ、すでに土葬にされた800体が掘り返されたのではないか。

どこで読んだのか忘れたが、たしかニューヨーク9月11日の死者のうち、DNA鑑定ですら身元の判明しない遺体がまだあるらしい。
タクア・パ地区に冷凍安置された3200体以上の遺体を考え、そして行方不明となっているひとたちの家族のことを思うと、津波後の活動はまだまだ始まったばかりと言えるだろう。

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いよいよ風邪も本格的になり、今日は「鼻水たら~り」まで「ごおっほごほごほごほ」に加わって真実味を増した。熱は現在、37.9度ということで、かなり節々が痛い。それなのになぜコンピュータに向かっているかというと、眠れないのである。咳がひどくて、ね。眠れないのをよいことに、接続がスムースに行く(と言っても、28.8kbps)深夜にはどうしても津波関連を伝える各国報道サイトに行ってしまう。しかしよく考えてみたら、こんなことがゆっくりできるのも、風邪ぎみとは言え「休暇中」だからなのだ。普段のセンセイ生活でこんなにたくさんエントリをアップしていたら、寝る時間が全くなくなる。

しかし、わたしは何のために東京まで7時間もかけて来たんだろう…。「オカアサンのせいよー」と嘆いてみても、母はこれまた咳混じりの返事をするばかり。
近くに住む妹夫婦には立ち入り禁止令が出ているため、今だに会えずもっぱら電話で話している。わたしは6日晩に着いて以来、母以外のニンゲンに接触していないのだ(七草粥を持ってきてくれた近所のオバサン以外は)。いくら「母の顔を見るため」の里帰りとはいえ、これはちょっと「見すぎ」じゃないのか。

鼻をかみながらふくれッ面をしていると、「いいじゃない、今日は蟹だからねっ」と母は言う。妹夫婦が週末に来ると思っていたから、正月の冷凍モノを宴会用に残しておいたのだ。
よし、今晩は蟹四人前を母と「山分け」だ。咳こんこん、鼻ずるずるの間に、黙々と蟹の足を割り、肉をせせり、風邪引き母子の夜は静かに更けていった。

プーケットとその周辺で被災して亡くなり、あるいは傷ついて何もかも失ったひとびとは、なにも現地タイ人と各国からの観光客ばかりではない。

タイ英字紙バンコク・ポストによると、タイの隣国ビルマ(わたしはミャンマーという国名は使わない。理由は、まあいつかどこかで述べることがあるかもしれないけれど)から,登録されているだけでも6万人のビルマ人が、カオラック、プーケットなどの津波の被害を受けた6つの県で働いていたのだ。加えて、ビルマ政府から逃れてタイの不法滞在者となった数千人からのビルマ人が、身元をごまかしタイ人よりはるかに少ない給料で細々と生活しているのは衆知の事実だ。判明しているだけでもビルマ人の死者は100人、ということになっているが、これはもちろん不法滞在者であったために家族が尻ごみして名乗り出ないような死者たちを含んでいない。
運の悪いことに、津波により全ての所持品を失ったのはビルマ人も同じだ。就労ビザ書類さえ発見できないのだ。現在の混乱した状況では、彼らが合法的に滞在していたかあるいは不法滞在者であったかという証明すらできない、ということである。

そのため、タイ警察は先週までに1500人のビルマ人をビルマに送還、そして今週にはさらに500人が強制的に帰国させられる。警察は、身元確認のできないビルマ人たちが津波後犯罪の予備軍となる恐れのため、と公言しているが、実際判明した津波後犯罪27件のうち20件がタイ人によって引き起こされたことが、明らかになっている。後の7件はまだタイ人が起こしたのかあるいは外国人が起こしたのか確認できない。
このランダムな更送の結果、合法的に就労していたビルマ人まで福利厚生の権利を剥奪されることになる、と人権擁護団体のスラポーン氏は語る。

ガイジンであるわたしが気づいただけでも、いたるところでビルマ人の労働者が働いている。一番多いのがやはりホテル・レストランンの掃除や皿洗い、そして土木関係、メイド業などだろう。就労ビザがないため、あるいはあっても事情に疎いため、安い日給で使われ福祉の対象外となるひとびとだ。そして、自然災害後の混乱に乗じて、権力を持つものたちが一番に迫害の対象として選ぶのも、声高に権利を叫ばない、また叫ぶことさえ知らないビルマからの単純労働者たちなのだ。

記事を載せたのはバンコク・ポストのみ、対する英字紙ネ―ションはビルマ人の被災者に関してはまだ一度も言及していない。

余談だが、バンコク・ポストは、1992年五月強引にスチンダー軍事政権が誕生し、反対する市民を弾圧し始めたときにも、その気概を見せた。記事を政府に検閲され差し替えを要求されたときに、その日の新聞一面に出すべき記事を抜いた。しかし差し替えはせず、真っ白なままの新聞一面を読者にさらし、沈黙のうちに政府を糾弾したのだった。
政府のメディア弾圧が徹底していたため、わたしは、母から電話があるまで外で何が起こっているのか知らなかった。日本大使館の緊急連絡を受けて、外出しないようにしていたせいもある。
だから、その日の朝刊を受け取ったときの驚きを、今もはっきりと覚えているのだ。

★津波関連エントリは、全てカテゴリ「デラシネ@Bangkok」に保存されています。

咳は止まらないし、熱も下がらない。せっかく一年に一度の「東京里帰り」なのに、母の風邪がうつったのか、わたしまで寝たり起きたりの生活になってしまった。やれやれ。おかげでこんなヘンな時間に寝られなくなってしまう。

ゴホゴホと咳ばかり撒き散らしていては、外出もままならないので、もっぱらの情報源はテレビと新聞だ。インターネットは、Windows95なんぞというアンティックで、28.8kbps以上出ない超カメ速度で接続しているため、力尽きてしまうことが多い。
そして、ライブドアの無料接続を使っているのだが、これがまたイッパツで繋がったためしがないという情けなさ。「相手先のコンピュータが応答しません」と出る。課金されてもいいから、なんとか短期間東京から接続できるサーバはないものか。

しかし、日本のテレビ報道番組というのはおもしろくないね。
blog::TIAOのMAOさんは、言う。「今回の報道を通じて気になったのは、一見情報量は多いように見えながら、ほぼ同じような内容の反復であり、また現地からの報道内容にしても被災地した現地の人びとや救援に集まっている世界各国の動きの「生」の声がとても少ない。」

テレビを見る限りでは、どのチャンネルも現地に記者を派遣しているようだが、一箇所からのありきたりのレポートが多い。現地の被災者は、何もかも失った。家族も失った。そして、泣く。「誰か助けてください」と。どこの記者のレポートも同じだ。被災者の涙はせつない。だが、感情に訴えるだけのインタビューでは、視聴者の目を未来に向けることはできないのではないか。

感染症の蔓延が心配されているのなら、その理由を調査して報道すべきだ。現地で医薬品が不足しているというのなら、その現地で医療・復旧活動にたずさわるひとびとの声をもっと伝えるべきだ。そして、街と海岸の復旧活動はどうしたのだ。完璧に破壊されたカオラックの海岸を毎日飽きもせず流すくらいなら、一握りと言えど、どこでどうした復旧が行われているのか報道するべきではないのか。
先週のわたしの友人の話によると、プーケット・パットンビーチでは瓦礫の廃棄と復旧がすでに始まったというが、どこの局の記者にもそれが見えないのが、もどかしい。

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バンコクからメイルが来た。プーケットに休暇に行っていた友達と、連絡がとれたのだ。バンコク有名ホテルで働く彼は、クリスマス中はもちろん休暇はとれず、26日朝から3日間、プーケットに持つ休暇用アパートに滞在する予定だった。人づてにその話は聞いていたのだが、そのあとは連絡がとれない。さては被災したか、と気をもんでいたのだが、彼はまだそのときタウン近くのアパートにいた。被災はしなかったが、もちろん彼の働くホテルチェーンのひとつは、プーケットの海岸にもある。すぐさまそちらに赴き、陣頭指揮をとっていたというのだ。いや、よかった。

しかし、何日か前にも書いた香港からのドイツ人家族は、依然として子供3人を含む5人の行方がわからない。1月5日付の朝日新聞で、米国パウエル長官のプーケット被災者センター訪問の写真が載っていたが、その後ろにわたしのオフィスが作ったドイツ人家族の行方を探すポスターがうつっている。7歳の少年のあどけない顔に、ため息が出た。

破壊的な津波に、親の手からもぎとられて行方不明になった子供たちは多い。わたしがドンムアン空港でヘルプデスクをしていた2日間にも、プーケットから着いたスイス人女性がそんな話をしていた。
「わたしは、スイスから甥夫婦を探しにきたのよ。どうにか3つ目の病院で見つけたときには、もう嬉しくて嬉しくて。でも、甥の隣にいたドイツ人は奥さんを亡くして、でも娘を絶対に探し出すんだ、って。なんで手を離してしまったのか、って。流れていく娘の顔が忘れられない、って。わたし、なんて言ったらいいのか、わからなかったわ」そう言うと、彼女は顔を覆ってしまった。
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ドイツ人死者は何日か前から60人という数から動かない。これは、死者の身元確認が難航していることを物語っている。土曜日8日付ロイター・ドイツのサイトでは、前日金曜日の行方不明者724人は716人まで下がった。これは、被災しなかった個人旅行者あるいはその家族が政府に通報したからであろうが、それでもまだドイツは行方不明者の数ではトップだ。

Neue Zuercher Zeitung(ノイエ・ツゥルヒャー・ツァイトング、スイス)オンラインによると、スイス人死者も依然として23人にとどまっているが、リストに上がっている行方不明者は500人ほどから現在では420人になった。しかし、最悪の場合が考えられる(つまり当地にいたことが確認できて、しかも津波以来連絡のない)スイス人は、105人だ。この105人の家族、あるいは家族全員が被災地に向かってしまい連絡がとれない場合は、その居住地に、連邦警察の要請を受けて州警察からの情報収集が始まった。DNA鑑定のため、本人の使った歯ブラシやヘアブラシなど、または歯科医に残る歯型データ、そしてそのどれもない場合に血の繋がる家族からの血液サンプルなどを集めているのだ。
スイスは24人の検死専門家を先週プーケットに送ったが、そこで彼らは300人以上にも上る他国の専門家たち(もちろん報道されていないが、日本が先週送った4人もここに含まれる)と合流して、遺体のDNA鑑定に当たっている。この双方からの膨大なデータをどう照合していくかが、これからの課題とも言えよう。このデータバンクをタイに置くか、あるいはインターポールの直轄とするかも、まだ決定していない。

日がたつにつれ、ますます困難を増す身元確認だが、タイ人かそうでない外国人かという確認さえ、現在、見た目ではもやは不可能という状態になってしまった。

「あらまー、がびちゃん。来てたのねー。おめでとうございますぅ。なんだ、やだ、オカアサンひとりだと思ったから、一人分しか持ってこなかったわー、やだわー、ちょっと待っててね。すぐ、持ってくるから」
お隣のおばさんがこれだけ話している間、わたしがモゴモゴとはさみこめた言葉は「おめでとうございます」だけだ。その後「いえ、とんでもないです。母と半分こしますから」などと言ってはみたが、すでにお勝手の戸をばったんと閉めて、小走りの足音を響かせていたセッカチなおばさんには聞こえない。しかし、2分もたたないうちに戻ってきて、わたしの手に大きなドンブリ鉢を押し付けた。「あんまり美味しくないかもしれないけど、縁起モノだからっ」と一応笑いながら付け加えるが、おばさんの目は「ほんとは美味しいからねっ」と物語っている。

今日は1月7日、お隣のおばさんが持ってきたのはほかほかの七草粥だ。何日か前から、母は風邪をこじらせて寝込んでいる。昔からの隣近所は、そんな母に昔ながらの「隣近所のよしみ」を運んできたのだった。
普段あまり粥が好きではないわたしだが、このたっぷりと野菜のはいった「縁起モノ」は温かく美味しい。

七草の節句は、過去の1年の厄払いをしてこれから1年の無病息災と招福を祈願する日だ。そんな日に親子で苦しい空咳の合唱をしているのだから、全くもって情けない。昨日いきなり寒さの中に帰ってきたせいか、それとも母の風邪に呼応してしまったのか、わたしの喉の痛みと咳が戻ってきたようだ。夜になって熱の上がった母の顔を見ていたら、自分もまた熱っぽくなっていることに気づいた。やばいぞ。

昨日と今日実家にある古新聞を眺めていたら、「顔の見えない援助」という言葉がちらほらと目にはいった。これは多額の援助を申し出たが、「一体具体的にどんな行動をとるのかが不明」な小泉首相に対する皮肉なのだろうが、こういう言葉をメディアが使うとは意外だ。

正月早々にはスマトラ沖大地震をトップニュースからはずし、津波の被害状況そして自衛隊・民間団体の捜索・復旧活動を「具体的に伝えなかった」のは、メディアだ。少なくともドイツ・スイス・スウェーデンの各メディアは、被害状況と自国からの援助を詳細に、そして繰り返し伝えている。
なぜ、DNA専門家が送られたことをニュースにしないのか。なぜ、偶然インド洋にいた自衛隊の護衛艦が遺体収容の任についたことを、ほんの数行で済ませてしまうのか。なぜ、日本ではセンセーショナルではないニュースはないがしろにされるのか。なぜ、津波で家族を失った少年が帰国すると、カメラマンが成田で大騒ぎをし、少年の小学校の黙祷の様子と校長の話まで映されるのか。現地の様子を見に行って、具体的な援助の様子をリポートする記者はいないのか。
「見えない援助」をひとびとに見えるようにするのは、政府だけの責任なのだろうか。

成田空港の中では、気がつかなかった。税関検査を通過してリムジンバスのチケットを買ったときにも、まだ思ってもみなかった。そして、スーツケースを引きずって外に出たとたん、寒風がいきなり頬を殴りつけた。さ、さむーい。5時だというのに、マックラだ。雨さえチラチラと降っている。

反対にバスの中は南国のように暖房が効いていて、今度は足先がひりひりするほど暑い。せっかく買ってきた蘭の花が全て開いちゃうんじゃなかろうか、と本気で心配してしまった。

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機内で読んでいたバンコク・ポストに、また身元鑑定に関するニュースが出ている。タイの有名検死専門家のポーンティップ女史は、27日からプーケット入りし、タイではまだ数少ない鑑定スタッフと知識のない一般アシスタントを使って精力的に働いている。女史自身が癌に冒されているにもかかわらず、だ。
そんな彼女が再三政府に申請していた「身元確認センター」のオープンがやっと認可された。一昨日書いたように、大量の遺体はドライアイスを追加されながら3つの寺に安置されている。十分な設備もスタッフも与えられないまま、すでに津波発生から10日以上、身元不明の遺体も3000体を超えた。政府の対応としては少々遅いのではないかと思うが、これもまたタイがいまだ「発展途上国」である理由のひとつなのだ。

救援物資は次々と届けられ、様々な国々から億単位の援助が申し出られている。しかし、それを的確に処理する人材と組織力も、残念ながらタイには欠けている。その一端はわたしも空港のボランティア体験で見たが、能率がはなはだしく悪い。援助活動に関しては、「誰が何をするのか」というガイドラインが不足しているため、せっかくの物資や寄附が届いても放置されたままのことが多い。

あと5時間半ほどでバンコクの自宅を出発する。年に一度の東京里帰りだが、老いた母は、年末年始の忙しさから風邪をこじらせてしまっているらしい。今朝「明日着くからね」という確認の電話をいれたときに、熱っぽくひび割れた声が返ってきてビックリしてしまった。あまりひどくないとよいのだが。
いずれにしろ、これから10日ほどネットに縁のない生活が続く。1年に一度開くだけのウィンドウズ95などというアンティックが、まだ使えることを祈るばかりだ。

DNA鑑定についての追加ニュース。
先ほど在タイ日本大使館のサイトをチェックしたら、国際緊急援助専門家チームとして、DNA検体採取専門家とDNA鑑定専門家が3名、日本からも派遣された。昨日5日にプーケット入りしているとのことだ。 中国より先手を打っていたのだなあ。

そして、たった今ドイツ語衛星放送ドイッチェ・ウェーレで知ったのだが、5日正午に全ヨーロッパで3分間の黙祷が捧げられた。正午というと、日本時間午後8時にあたる。
正午の教会の鐘の音とともに、ベルリンから始まって、パリ、ウトレヒト、ハンブルグと流れている映像の中のひとびとは、皆頭をたれて死者を悼む。駅では列車が止まり、発着表示には「津波死者への黙祷のため、3分遅れます」とある。繁華街では、デパートとスーパーのある広場でひとびとが立ち止まる。道路の車も静かに止まり、そのまま動かない。学校の教室も沈黙に閉ざされる。多くの会社でも、そのままスタッフが仕事の手をやめて目を閉じる。
静かな静かな映像は、死者の沈黙に生者の沈黙を重ね合わせて、ヨーロッパの冬空へと上っていった。

色々な救援活動があるもので、中国がインターポールを通してDNA鑑定の援助を申し出た。タイよりははるかに進んで(いるらしい)中国の技術と設備は、かなりすみやかに結果を検出できるという。新聞には「2週間で結果が出せるらしい」と書いてあるが、これは遺体一体につき2週間かかる、ということだろう。

現在のところ一番被害のひどかったカオ・ラック海岸を含むパンガーのタクア・パ地区では、三つの寺が分担して遺体を保存している。1800体、1200体、500体とあるから、総数約3500体にも上る。そのうちの60%が外国人だというが、外観だけの判断ではほとんどが「アジア人かそうでないか」で分けられるため、他アジア諸国民の遺体がタイ人の遺体のなかに混在していることも考えられる。

つまり、3500体の身元がまだ確認されていないのだ。検死専門家たちが必死で歯型とDNAの採取をしているが、暑さのため遺体につけられたタグが損傷してまた採取やり直しなどという二度手間もかかっているらしい。
これだけ多くの遺体が、DNAまたは歯型を通して「生前の名前」を取り戻すのに、一体どのくらいの時間がかかるのだろうか。

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シュテルン紙オンラインターゲスアンツァイガー(スイス)によると、津波の犠牲者となった人々の中で、現在のところすでに身元の確認されたドイツ人死者は60人、スイス人死者は23人となっている(タイを含むアジア諸国での総数)。そして、依然として1000人以上のドイツ人と約500人のスイス人が行方不明だ。

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奇妙だが恐ろしいニュースも、ヨーロッパのメディアから伝わってきている。
フォークス紙オンラインによると、生存者として病院で治療を受けていた12歳のスウェーデン人少年が蒸発してしまったのだ。

彼は45歳の母、14歳の兄、7歳の妹とともにプーケットで休暇を過ごしていた26日、津波で被災した。スウェーデンにいた父はすぐに来タイし、病院を探し回って14歳と7歳の子供たちを発見した。しかし、母親と12歳の息子は依然として行方不明、生存の見込みは薄い。ところが、ある病院で少年の写真を照会したところ、ひとりの医者とふたりの看護婦が、その少年の治療をしたと確認したのだ。そして、治療のあと黒い髪に口髭をつけたヨーロッパ系の男が連れ去った、と。

はじめのうち、タイ警察は相手にしなかったらしいが、事件が正確に描かれていくにつれ、真剣に取り組み始めたようだ。スウェーデン政府はすでに本国から刑事をふたり送り、本格的な捜索が開始されている。

どうも、これは俗にいう「人攫い」らしい。タイではまだ国際的な「人身売買」も密かに行われているし、津波被災の混乱にまぎれて親からはぐれた子供をさらったというのが、大方の推理だ。この少年はもうすでにタイにはいないだろう、とタイ紙バンコク・ポストにも5日付で記事が出た。

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悲惨な津波のニュースはいまだに日本以外の国々ではトップニュースだが、「メディアは、まるでプーケット全てが破壊しつくされてしまったかのような印象をひとびとに与えている」として、津波後のプーケットを異なった視点からサポートするサイトがある。イメージ・アジアというサイトの「津波後のタイ」(英語)という特集だ。ここでは、「津波に破壊されなかったタイ」が「バランスのとれた情報のために」世界に向けて発信されている。

ほとんどの政府も、破壊された設備とサービスの困難さを理由に、タイのプーケット、クラビ、カオ・ラックへの旅をする自国民に対し警告を出した。そして、それに伴い、多くのひとびとが津波後の旅をキャンセルし、南国の楽園プーケットを休暇先のリストからはずした。
しかし、このサイトを見るかぎり、カオ・ラックなどの被害の多かった地域以外は普段と変わらず、何もかもが営業中だということがわかる。ここには、津波後のプーケット周辺のリゾート・ホテルの営業状態をリストにし、ピピ島への日帰り観光の模様などの写真もアップされている。

一面的なメディアの発信と政府の警告のために、観光業に携わる何千もの現地タイ人たちが路頭に迷い、また迷うことを確実にした。災害のための援助には、こうした失業者の援助そして積極的な地域のプロモーションも含まれるべきではないのか、とこのサイトは問いかける。

スイス・チューリッヒにいる日本人の親友から、メイルが届いた。「このメイルを読んだら、すぐに連絡してください」
今ごろ、わたしたちがタイにいることに気づいたらしい。そして、もしかしたら休暇で南の島辺りに行っていたかもしれない、と思ったのだ。まったく、もう。

夜になってから電話すると、案の定「いやー、生きていたのねえ。ホント、よかったねえ」なんぞと言う。
「アナタねえ、今ごろ消息確認なんかやったって、遅いんだからねっ。もう1週間以上たっちゃって、タイではすでに捜索活動は打ち切り、復旧活動に移行してるのよっ」
「ま、いいじゃん。生きてたんだから。ホント、よかったねえ」
わたしは、彼女のこういうノーテンキな温かさが大好きである。

「実はさ、ウチの娘にボーイフレンドができちゃったのよ。だから、あなたみたいなひとの助けが必要なのよね。性教育なんて、わたしにゃできないもん」
「13歳になったばかりの娘に性教育かい。そんなとこまで、話が進んでるの?」
「いやいや、備えあればウレイなし、っていうでしょ。いちおう、180度線は越えちゃイケマセン、って言ってあるけど」
「なによ、それ。180度線って、180度の角度で、ふたりが重なって横になっちゃったらいけない、ってこと?」
がはははは、と笑い出した彼女は、「もー、あなたってひとはっ。違うわよ。あのさ、北朝鮮と韓国の間に線があって、そこは越えちゃいけない、って確かあったじゃない。180度じゃなかった?」
それは、北緯38度の軍事境界線のことだろうが。

彼女と話をすると、どうも掛け合い漫才のようになってしまってイケナイ。

latebrunch.jpg元旦に食べ損ねた恒例ブランチを、今日になって決行。どちらにしても正月休みは今日が最後、明日からはオフィスで仕事が始まる。

11時ごろから各種コールドカット(ハム、鴨の燻製、スモークサーモンなど)を並べて、焼きたてのパンをちぎり、フィーノ・シェリー酒(ティオ・ぺぺ)を開けた。おしゃべりをしながらゆっくりグラスを傾け、3時近くまでちびちびと食べ続ける。
一年に一回の怠惰なブランチあとは、これまた恒例の昼寝だ。、「さあ、しましょ」と思わなくても、酒のせいで自然に瞼が重くなる。

テレビでドイッチェ・ウェーレ(ドイツ語衛星放送)を見ていたら、プーケット・ピピ島の「津波その後」の話題が始まった。やはり何人かの観光客が、被災後も留まってボランティアを続けている。
話題の最後で、一日の仕事を終えて船でプーケットに戻るタイ人ワーカーたちが映しだされた。
「徹底的に破壊されつくしたピピ島に、宿泊施設はありません。だから、津波の後始末をするひとびとは、毎晩、日が落ちる前には船でプーケットに戻るのです」
これは、違う。彼らタイ人たちが毎晩ピピ島を離れるのは、宿泊施設がないからではない。ピピ島のトンサイ・ビーチは破壊されたが、その他のビーチにある宿泊施設には無傷のまま残っているものもあるのだ。実際、もうすでに観光客が少しずつ戻り始めているくらいだ。
タイ人たちは、ピピ島で亡くなった外人たちのピー(精霊、要するにオバケ)が怖いのだ。夜になれば、彼らは自由に動き回り、非業の死を遂げただけに怒りを持つピーとして、生きているものに襲いかかる(と、信じられている)。だから、タイ人たちは決して夜のピピ島に残ろうとしない。ドイツ語テレビの番組では、間違って解釈されてしまったようだ。

ちょっとタイならではのニュースは、これ
今日3日付のタイ英字新聞バンコク・ポストに載った記事だが、アユタヤから象が6頭、被害の激しかったカオ・ラックにトラックで送られた。大型マシーンの入れないような場所(坂や泥沼など)で、重いものを動かしたり片づけをするためだ。
タイではまだこうした象の訓練も盛んで、実際に役に立つことが証明されている。

2日目のボランティア・ヘルプデスクは「ダメ押し」なので、あまりすることもない。現在プーケットにいる津波被災者としてのスイス人は10人ほどの負傷者で、バンコクを通さず直接スイスからの救援飛行機によって本国に送られる。
そんなわけで、暇をつぶすために本と新聞、そしてもちろん長袖ジャケット(空港は冷蔵庫の中のように徹底的にエアコンが効いている)を持ち込んだ。

passport.jpgしかし、9時半到着のプーケット便からひとりのタイ人が降りて、まっすぐドイツ大使館デスクに向かった。大きなビニール袋をいくつも抱えている。
「わたしはメルセデス・ベンツの代理店の者ですが、ベンツの破損状態などを視察・確認するためにプーケットを回り、今戻ってきたところです。カオ・ラックの現場で見つけた被災者の貴重品と、その持ち主であろうと見られる西洋人の遺体の写真を持ってきました。ほとんどドイツ語だと思いますが、その他の国々のひとたちのものも混じっているかもしれません」

袋から次々と現れたのは、まだ砂にまみれ、湿ってゴワゴワになったパスポート、各種カード、証明書、そして様々な財布とその中に入れていたと見られる小さな写真の束。証明書類を開くと、笑っている顔、そして難しい顔。年齢も様々だ。それがひとまとめになってゴッソリと発見されたところを見ると、たぶんホテルの貴重品預かり所だったのではないか。
同じく砂まみれの財布を開くと、若い女性がその夫か恋人と見られる男性と抱き合ってこちらを向いている写真が何枚も出てきた。財布には、現金ははいっていない。そう言えば、何枚もあるカードの中には、有名どころのクレジットカードさえ一枚も見当たらない。何十人ものひとたちの貴重品の山の中に、現金とクレジットカードがないのだ。おそらく、地元のひとびとがすでに抜き取った後なのだろう。なんだか、悲しくなった。

写真はメモリーから直接、ドイツ大使館のボランティアが持っていたノートパソコンに繋いでダウンロードした。開いてみて、ディスプレイを覗いていたドイツ大使館、スイス大使館の4人はわたしも含めて、「うっ」と声を上げた。顔をそむけたいほど、悲惨でむごたらしい。何十人もの写真の中で、身元が確認されたのはひとりのみ。それも、彼がいつも肌身離さずはめていた時計が、生存家族にとっての決め手となった。証拠のために、生前の写真が添えられた遺体は、とても同一人物とは思えないほど変化していたからだ。
一応の説明だけ聞いて、わたしはその場を離れた。とてもじゃないが、渡された砂まみれのスイスパスポートの笑顔を、その遺体の写真の列に探すことはできない。
わたしには、できない。

Neue Zuercher Zeitung(ノイエ・ツゥルヒャー・ツァイトング、スイス)オンラインロイターズ・ドイツによると、現在のところ、スイス人の死者は確認されただけでも16人、まだ85人の消息がつかめない。家族などから届けが出ている津波周辺地の行方不明者は約550人だ。ドイツ人は死者60人、行方不明者は1000人以上となっている。死者の数はまだまだ増え続ける模様だ。

ついでながら、ドイツ大使館の情報によると、被災したがすぐには本国に戻らなかった観光客が、プーケットにまだ20人以上残っていることがわかった。その中には、医者、医学生、看護婦たちもまじっていると言う。皆、死者をそのままにしておくに忍びなく、ボランティアで処理の手伝いをしているひとたちだ。もうそろそろ一週間になろうという津波現場での仕事は、生易しいものではないだろう。遺体を洗い、写真を撮り、検屍医たちの手伝いをし、そしてまた運ぶ。

明と暗を分けた津波の瞬間を共有した彼ら、「生者」は、「死者」のもとに残ることで心の救いを求めているのかもしれない。

みなさま、明けましておめでとうございます。

airport01.jpg「かなりの混乱が予想されるので…」などと昨日書いたが、ドンムアン空港は、各国のボランティアが入り乱れてものすごい騒ぎである。
空港内どこでもフリーパスのカードをもらい、それをつけて到着ロビーにはいると、ほとんどのヨーロッパ各国がヘルプデスクを出して2-3人ずつのボランティアを置いている。プーケットからの飛行機が着くたびに、旗をかざして「xxx人は、こちらで登録してくださーい」と声をかける。とりあえず、プーケットから戻る自国民を登録しておけば、どこかから問い合わせが合った場合に確認ができる。そのためのヘルプデスクなのだが、国内線ロビーは狭い。そこに何十もの国のヘルプデスクがあるものだから、飛行機が着くたびに写真のような混雑になる。

airport02.jpgすでに6日目なので、ヘルプデスクにやってくるのは、一緒にいた家族が行方不明だったために、プーケットにとどまっていたというひとたちが多い。お隣のドイツ大使館デスクに現れた中年のドイツ人女性は、顔に細かな傷跡がたくさんあり、足にも包帯を巻いている。Tシャツの下はまだ水着だ。一番被害のひどかったカオ・ラック(プーケット近郊)のホテルにいたと言う。カオ・ラックの美しい海岸には、リゾートコテージ風のホテルが立ち並んでいたが、10kmに渡って徹底的に破壊されてしまった。死者が一番多いのも、この地域である。
津波が襲ったとき、彼女は読みかけの本をとりに戻る途中だったため、そのままホテルまで流されて急いで2階に駆け上がった。
「まるで、壁よ。水の壁。それも突然現れて何がなんだかわからなくなり、気がついたらホテル唯一の2階部分にあるコーヒーショップにいたわ」
彼女の夫は、すでに海岸にいた。そして、行方不明。幸い彼女自身は軽傷しか負っていなかったため、避難所から次々に病院を探し歩いた。4日目に骨の出るほど重症を負った夫を発見し、ドイツ大使館に連絡をとり、空軍機で直接ドイツへ搬送、それを見送ってから自分はバンコク行きの飛行機に乗ったと言う。
「ツアーだったのよ。23日に一緒に着いたのは、総勢20人。みんなで一緒に食事をしたり、遊びに行ったり、寝そべっておしゃべりをしたり、楽しかったわ。ほとんど見つかっていないのよ、みんな。もう2度と会えないかもしれないのね」
何か話さずにはいられないかのように淡々と言葉を進めるが、顔には表情が見られない。まだショックから立ち直っていないのだろう。しばらくして、ドイツ大使館のボランティアのひとりが付き添い、彼女を国際線ロビーまで送っていった。

airport03.jpg津波後6日目なので、直接被害にあったひとたちはあまり到着しない。代わりに多くなってきたのが、行方不明の家族を探すひとたちだ。一応登録を済ませると、もう黙ってはいられないと見えて話し出す。いくつもの病院を回って、直接遺体をひとつずつチェックしなければならなかったこと。それでも、家族の消息を確認できなかったこと。または、偶然確認できたこと。声にふるえが走り、目に涙が浮かぶ。聞いているほうもつらくなる。やりきれなくなる。

そのうちにスウェーデン空軍のジャケットを着たグループが着く。医療チームだ。任務を終えて、あと2時間で着く自国からの空軍機に乗ってヨーロッパに戻るらしい。
混乱のうちに、2時のシフト交代で次のスイス人ボランティアが着き、わたしは帰宅の途についた。

明日はヘルプデスク最後の日らしい。それ以後は各大使館の連絡先だけが到着ロビーに残され、ボランティアのグループは解散となる。わたしは、明日も8時から2時まで国内線到着ロビーでスイス旗を振る。